検討問題:イエス・キリストとは、何か

検討問題:イエス・キリストとは、何か


テーマ:ポスト・キリスト教


可視的なものと、認識が結びついている(ヴィジョンvideoと観念ideaが語源的に一致する)ので、叡知=永遠の真理を可視的にする方法が、常に、人類にとって必要なのであり、それは、秘教・密教・神秘学、哲学、神話、宗教他に伝承されてきたと考えられるのである。プラトンイデア論は、叡知の世界を知的に説いた、驚異的な理論である。また、仏教も、これに近いのである。人間は、現象界の知覚・認識を基盤とするために、この永遠の叡知を喪失しやすいのである。
 このような観点から、イエス・キリストを見ると、それは、叡知の世界を体現した人物と見ることができるように思える。しかし、その叡知的デモンストレーションが、キリスト教として、ドグマ・教条的に固定されてしまい、叡知性を喪失したと言えるのである。イエス・キリストとは、叡知の体現であると言えるのであり、それは、プラトンイデア論と同じ真理を伝えていると考えられるのである。だから、キリスト教ではなくて、イエス・キリスト叡知実践論となるべきである。そして、それは、当然、イスラム教とも共通するものであり、万教帰一である。
 ニーチェキリスト教批判は、宗教・教会としてのキリスト批判であり、イエス・キリスト自身は肯定しているのである。ニーチェが体現したと考えられる差異・特異性・不連続的差異・絶対的差異とは、基本的には、叡知とほぼ等価と言っていいものであり、イエス・キリストニーチェは、同じ叡知を体現していると極論できるのである。(p.s.  この点は、もう少し丁寧に、精緻に述べるべきであろう。ニーチェが体現したのは、不連続的差異・絶対的差異・特異性そのものと考えられるのである。永遠回帰は、思うに、イデア界への回帰である。親鸞往相回向であろう。それに対して、イエス・キリストの体現したのは、同様に、不連続的差異・絶対的差異・特異性であると考えられるが、それから、一歩進展して、差異共振シナジー様相をも体現していると思う。その差異共振シナジーは、完全に自由なものではなくて、連続・同一性の構造に囚われていると考えられるのである。差異共振シナジーは、即非の様相・様態であり、「愛」でもあるし、「愛」でもないのである。だから、イエスが説いた「愛」は、差異共振シナジーの叡知からは、連続・同一性へと傾斜していると考えられるのである。以上のように考えると、ニーチェとイエスであるが、不連続的差異性を両者もっているが、徹底しているのは、前者であり、後者は、連続・同一性の構造に囚われていると言えるのである。)
 私は聖霊教(あるいは、地味な野の花教、風の友愛教)を説いているが、これも、結局、叡知のエネルゲイアを説く宗教に過ぎないのであり、叡知普遍教そのものである。結局、ポスト・キリスト教であり、叡知論、プラトニック・シナジー理論の視点に基づき、イエス・キリストキリスト教から救済することになるのである。仏陀も、プラトンも、イエスも、ゾロアスターも、ムハンマドも、モーゼも、老子も、朱熹も、卑弥呼も、一如である。(p.s. ガンジーも、ジョン・レノン、等々も同じである。また、スピノザフッサールも、そうだし、D.H.ロレンス折口信夫もそうである。同一の真理、差異共振シナジーという叡知の光とエネルゲイアを体現していたのである。)


p.s. 思うに、イエス・キリストは、叡知の実践・デモンストレーションであると述べたが、しかし、絶対的なそれではありえないだろう。時代の制約があるのである。だから、イエス・キリストの叡知実践は、一つの実践例として見るべきである。


p.p.s. 結局、差異共振シナジー叡知、メディア・エネルゲイアを、各時代、各場所において、多面的に観察した結果が、諸宗教、諸哲学、諸神話、等と言えるだろう。この叡知界は、通常の論理学や言語では捉えられない世界である。鈴木大拙氏の即非の論理学やウスペンスキーの「ターシャム・オルガヌム」(第三の論理学)によって、把捉される世界である。これを、同一性の思考・論理で表現すると、矛盾が起きるのであり、これまで、一神教は、同一性の思考・論理(人格神)で、表現してきたので、混乱しているのである。零度差異共振シナジー界・叡知界・叡知空間を表現するには、差異の思考が必要なのである。プラトニック・シナジー理論は、それを、不連続的差異の共立・共振する世界として、理論化しているのである。