《むごさ》について

簡単に触れると、近代的自我は、精神が《むごい》のである。《むごさ》の近代合理主義であり、「共感性」はない。問題は、そのような《むごい》同一性自己は、自己=差異を喪失しているので、同一性の反復=同一性生産はできるが、差異的創造・創造的生産はできないのである。
 《むごさ》が他者だけでなく、自己自身にも向けられていることを知るべきであろう。東京人はとりわけ《むごい》。この《むごさ》は、ある《力》の作用によるのである。ひとことで言えば、近代同一性唯物資本主義である。
 話が変わって、ヨーロッパと北米合州国との違いは、toxandoria氏が、フランドル中心に指摘していることで明らかであるが、イギリス衆民(衆市民)文化(ケルトブリテン衆民文化と呼びたいが)は、近代同一性唯物資本主義に対する《イデア》文化をもっている。最近は衰退気味であるが、伝統はあるのである。それに対して、北米合州国は、近代同一性唯物資本主義中心である。
 日本の《イデア》衆市民文化をルネサンスしないといけない。プラトニック・シナジー理論は、このための導火線になる。