メディア界(プラトニック・シナジー界)と自己について:(i)・(−i)

メディア界(プラトニック・シナジー界)と自己について:(i)・(−i) →1


テーマ:差異と同一性


Kaisetsu氏が提示した自己認識方程式ないし自己公式は、シンプルで、含蓄が深いようだ。


【 「(i)・(-i)=1」(iは虚数単位)
は、
「我思う故に我あり」の状況を表す式となる。
 プラトニック・シナジーの理論では、同値関係は観念的同時の概念から認められないので、この式は、正確には、
(i)・(-i)⇒1
と表される。】
http://theory.platonicsynergy.org/?eid=394342


この方程式ないし公式を、私がこれまで、何百回となく批判してきたほぼ結論のでた近代的自我批判(批判的解明)に適用してみよう。
 メディア界(プラトニック・シナジー界と呼べるだろう)において極性をこれまで考えてきた。プラスの志向性が連続・同一性の志向性で、同一性自己=自我(近代的自我)を形成する。それに対して、マイナスの志向性があり、これが、差異を志向するのである。Kaisetsu氏の方程式・公式をここで使用すると、(i)が同一性であり、(-i) が差異となるだろう。そして、同一性と差異とが共立して、1=自己(自己/自我と表記すべきかもしれない)となる。
 また、この(i)・(-i)は含蓄に富んでいて、これは、正に、差異共振シナジーの方程式・公式であると考えられる。これは、プラス1/4回転であり、マイナス1/4回転である。つまり、共立させて、回帰を意味するのである。
 とまれ、(i) を同一性自己=自我とすれば、半面として、(-i)である差異が存しているのである。しかし、近代的自我=1は、これを否定・排除・隠蔽しているのである。つまり、実数だけしか認めず、虚数を否定・排除しているのである。これは、内在超越性の否定・排除・隠蔽である。あるいは、神の次元の否定・排除・隠蔽である。
 言い換えると、近代的自我=1のメディア界には、(i)・(-i)というエネルゲイアがあるが、これを、同一性=1としか見ようとしないのである。本来、(i)・(-i)の極性があるのに関わらず。だから、これは、不合理・非合理、即ち、狂気なのである。これまで、私が骨折って証明しようとした近代的自我=狂気はこれで簡単に説明できるのである。(数学の抽象合理性はすごい。)
 Kaisetsu氏が説いているように、自己とは本来、即非なのであるが、それを、近代的自我=同一性自己は、実数1と言い張っているのである。これが「自己中心主義」・エゴイズムであり、最近の流行りの自己愛性人格障害シンドロームである。これは、実にシンプルで明快である。
 そう、問題は、正に、(i)・(-i)→1の→を(i)・(-i)=1の=にしてしまった点に、コギト哲学の誤解が始まったと言えるかもしれない。Kaisetsu氏とほぼ同時に(共時性シンクロニシティ的に?)、私が考えた特異性と同一性の問題と確かに共通する問題である。私が言うみかんやリンゴの特異性とは、正に、(i)・ (-i)であるし、同一性は、1である。正確に言うと、→1と=1である。私が微妙に拘ったのは正に、この→と=の点である。→は差異・「イデア」の現象としての同一性を意味し、=は単なる現象界のみの仮象の同一性を意味するのである。つまり、=1は、唯物論なのである。結局、近代は、→と=の区別ができなかったのである。コギト哲学を唯物論化して、近代合理主義が生まれて、近代の大惨事が生まれたと言っても言い過ぎではない。
 さて、これで、Kaisetsu氏の卓抜な・卓越した自己認識方程式・公式を適用して、私のこれまでの近代的自我批判が解明できたと言えるのである。
 次に、さらなる応用ができるかもしれないと漠然と思っているので、少し思考実験してみよう。
 私が想像しているのは、(i)・(-i)とはコスモスであり、多様な様相を表現しているのではないのかということである。(i)・ (-i)は即非の論理表現なのだから、メディア界=差異共振シナジー界=プラトニック・シナジー界を当然、表わしている。だから、コスモスを意味していると考えて間違いないのである。iの替わりに、差異1,差異2,差異3,・・・を入れれば、多様な様態=多様な「イデア」が形成されるのである。つまり、いわば、形態形成場=コーラの公式でもあるだろう。また、生命の起源もここにあると直感できるのである。(遺伝子の起源もここであろう。当然、気の起源もここである。)
 つまり、こう考えると、一挙に神秘思想・神秘学・東洋思想が解明されると言えよう。ウパニシャッド哲学の「汝はそれなり」の「それ」とは、正に、(i)・(-i)=コスモス=ブラフマンである。梵我一如である。アートマンブラフマンである。ただし、この即は、やはり、即非が正しいだろう。エネルゲイアとしての(i)・(-i)であるからだ。実に微妙である。=であったり、→であったりするのであるから。
 ここで精緻に考えてみよう。「汝はそれなり」の「汝」は何か。=1の自己・同一性自己ではなくて、→1の自己・差異であろう。ここは実に微妙である。もし、これを=1の自己即ち自我(近代的自我)にすると、度し難い自己中心主義・エゴイズム・自己愛性人格障害・近代的自我狂気症になるだろう。いわば、魔界である。おそらく、デカルト哲学がそうであったように、これも誤解されたと思えるのである。アートマンは、自我・同一性自己ではなくて、差異的自己と見ないといけないのである。そうすれば、 (i)・(-i)→1を意味することになるのである。この自己認識方程式はたいへんな公式だと思う。ウパニシャッド哲学とデカルト哲学を一つにしてしまうのである。さらに、多くの哲学・宗教・神秘思想を集約するだろう。オイラーの公式や等式に近い、玉座の公式ではないだろうか。
 とまれ、(i)・(-i)にもどると、これは、具体的にはどういうことなのだろうか。iが自己なら、-iは差異・他者である。自己と他者との共立で、自己が形成されるということではないだろうか。自己を=1と見ると、虚数である他者や自己自身を否定して、エゴイストとなってしまうということだろう。つまり、神=「イデア」の次元のない人間は、エゴイストである。ただし、神=「イデア」は、内在超越性であることを忘れてはいけない。これは、ドゥルーズのように内在性でもないし、また、ユダヤキリスト教のように絶対超越でもない。即非の神である。
 では、最後に絶対超越性とは何だろうか。これが解明されないと、真にポスト・西洋文明とはならない。これは、(i)・(-i)=1且つ1→(i)・(-i)への不可能性を意味しているのではないだろうか。つまり、まったき、同一性自己=自我の文明を意味しているのではないだろうか。とりわけ、ユダヤ教である。自我=1はある。しかし、根源の(i)・(-i)に回帰するすべはないということではないのか。つまり、(i)・(-i)が絶対超越性になっているのである。しかし、所謂、東洋文明のように、(i)・ (-i)への回帰性があるなら、そうはならないのである。つまり、メディア界=差異共振シナジー界が賦活されているか否かである。東洋はメディア界が賦活されているのである。=1が絶対超越性を生むのである。(現代日本も現在これである。)=1即ち、同一性自己=自我は、どこから派生するのか。これは、身体なき精神、身体なき観念から生まれるだろう。身体なき言語と言ってもいいだろう。こうなると、以前のアポリアにもどるだろう。劣った差異と優れた差異の相違の問題に。
 先に私の結論から言えば、身体なき精神・観念・言語とは、心の闇から来ているのである。スピノザ的にいえば、悲しみである。ルサンチマンである。そう、自然は、光もあれば、影もあるのである。自然のもつ翳・闇から、これが生まれたのだろう。やはり、弱さである。劣弱な差異から生まれたのである。



http://it.wikipedia.org/wiki/Immagine:EtnaAvi%C3%B3.JPG


ここで、D.H.ロレンスが、イタリアの太陽のゆたかさと西欧の太陽の乏しさを述べていたことを想起するのである。ゆたかな太陽・光のあるところに、高貴な差異が生まれ、乏しい太陽、即ち、闇のあるところに、劣弱な差異が生まれるのだろう、一般的に。思うに、アーリア民族は、後者なのである。差異が劣弱なのである。


p.s. Tat tvam asi(「汝はそれなり」)
http://green.ap.teacup.com/applet/april/msgcate7/archive