絶対的超越性ないし超越神について


キルケゴールに関連して、超越神ないし絶対的超越性の問題について、検討する必要がある。
 キルケゴールは、『おそれとおののき』の中で、息子イサクを神から犠牲にするように言われて、そうする決意した父アブラハムの信仰に、いわば、絶対的信仰を見ていると言えるだろう。この絶対的信仰が特異性と言えるだろう。ここにあるのは、絶対的垂直性である。絶対的単独性である。これは、不連続的差異と言ってもいいだろう。この点において、おそらく、ニーチェは、共感したのではないだろうか、もし、ニーチェキルケゴールを知っていたら。そう、ニーチェは、旧約聖書を尊び、新約聖書を貶めていた。
 ところで、この絶対的垂直性、絶対的単独性、絶対的差異性であるが、これを、プラトニック・シナジー理論から見たら、どう位置づけられるのだろうか。あるいは、一神教の絶対的超越性はどこに位置づけられるのだろうか。あるいは、どのように理論化できるのだろうか。
 ここでも、直観から述べよう。絶対的垂直性は、イデア界に存するだろう。イデア差異である。私は、一神教の神は、イデア界に存するように思えてきている(これも、一つの作業仮説ではあるが)。では、多神教とは何かとなる。多神教は、メディア界の宗教である。一神教は、それを破壊する。それも、イデア界からではないのか。しかし、「我在り」という神(ヤハウェ)である。これは、⇒1か=1の神である。つまり、一神教、とりわけ、ユダヤ教の神は、言わば、メディア界を飛ばして、イデア界と現象界を結びつけているのである。共立性を飛ばして、単独性を主張しているのである。
 しかし、イデア界は、不定形のイデア差異の共立があるのではないだろうか。ここは、思うに、フッサールの志向性の始点ではないだろうか。志向性の始点の共立界ではないだろうか。そうならば、一神教の神、絶対超越神は、特に、イデア界からではないだろう。思うに、ヤハウェは、特異性なのである。それも、同一性へ傾斜した特異性である。⇒1か=1の勾配・傾斜をもっているのである。しかしながら、(i)・(-i)ではなくて、(i)・(i)に近いのではないだろうか。つまり、ヤハウェには、他者、(-i)がないのではないだろうか。ならば、病理的な神であるし、私はこれまで、邪神と述べてきているのである。
 そうならば、ヤハウェは、メディア界の極性を喪失した一極主義の神となるだろう。多神教を否定するヤハウェは、差異共振の神ではありえず、二項対立の神である。つまり、これは、やはり、=1の神である。自我神である。確かに、独特の特異性は感じるが、しかし、純粋の特異性ではないのだ。なぜなら、否定すべき、多神教という他者を必要としているからだ。(ほとんど、近代的自我である。)だから、ヤハウェ、超越神の位置は、メディア界と現象界の境界の現象面であろう。この境界が絶対超越性になっているのではないだろうか。そして、現象面ということで、=1ないし同一性である。しかも、連続的同一性である。ということで、ヤハウェ、超越神、絶対超越性の位置が確認できたであろう。これは、これまで、のべてきたこととほぼ同じである。これまでは、メディア界と現象界の境界構造としてのヤハウェと述べてきたのである。今度は、さらに限定されて、境界の現象面ということになったのである。
 すると、キルケゴールの特異性の問題がこれでわかるだろう。キルケゴールの主体性・特異性とは、メディア/現象境界の同一性、構造主義性である。
 では、これとヘーゲルの観念とどう異なるのか。以上の考え方では、両者同一となるのである。キルケゴールは、ヘーゲルの掌中にあることになる。
 後で再検討したい。


p.s. 以上の結論の訂正ということも含めて、考察を進めたい。
 どうも、超越神の考え方を訂正する必要があるようだ。端的に言おう。一神教の超越神は、メディア界と現象界の両面をもっている神である。だから、メディア/現象境界の神とも言えるだろう。ヤハウェは、両面あるのである。キルケゴールの神=特異性は、メディア界を指していると考えられるのである。そして、ヘーゲルの精神・観念は、境界の同一性を指していると考えられるのである。だから、ヘーゲルの観念とキルケゴールの主体性=特異性とはまったく異質なものである。キルケゴールの有限と無限のパラドックスとは、正に、メディア界と現象界との「パラドックス」である。しかし、これは、非対称性、不連続性で説明ができると考えられる。
 ということで、キルケゴールは、メディア界の特異性を志向したのであり、真正にポスト西欧(ポスト・モダンは、ポスト・ウェスタン、ポスト・オクシデントであろう)である。
 また、超越神であるが、それは、(i)・(-i)⇒1であり、結局、=1となったと言えるだろう。デカルト哲学の先駆であると考えられる。ここで、一神教の解体が起こるのである。それは、本来は、(i)・(-i)であるが、(-i)の側面が神になっていると思うのである。本来、神を他者にすれば、プラトニック・シナジー理論となるのである。そう、一神教は、おそらく、(i)を(-i)に比べて、肥大化してしまっているのである。だから、一(いつ)、一神教となるのである。しかし、それに他者・差異である(-i)を取り戻すと、プラトニック・シナジー様相となり、いわば、ポスト一神教=新多神教となると考えられるのである。
 ということで、簡単であるが、キルケゴールは、やはり、ポスト・ヘーゲル=「ポスト・モダン」=ポスト・ウェスタン=ポスト・オクシデントの哲学者である。キルケゴールの神は、実質では、一神教の神ではなく、差異共振シナジーの神であろう。



p.p.s. p.s.での、超越神の説明がゆらいでいる。超越神は、-iであり、また、一神教は、-iに比べて、iが肥大していると書いたが、これでは、自家撞着している。どう整合的に考えるべきか。
 (i)・(-i)⇒1、and =1が一神教ないし超越神である。この(i)ないし(-i)の解釈が問題なのだろう。神自身の「我」から見ると、(i)が肥大化して、(-i)を無化していると言える。
 しかし、信者の「我」から見るとき、「我」は、(i)であり、神が(-i)となるだろう。超越神信仰とは、両面あるが、後者が後退して、前者が中心になったように思える。キルケゴールは、後者を取り戻していると考えることが出来るだろう。つまり、やはり、メディア界=プラトニック・シナジー界の神としての、特異性の神としての、超越神である。
 p.s.で述べたように、超越神の解明は、メディア/現象境界の神であり、両面をもつのである。一種、ヤヌスである。(思うに、エローヒームとしての超越神が、メディア界の神でもあろう。)そして、結果的に、両面性が喪失して、=1になってしまった。これが、西欧の神であり、それに対して、ニーチェが「神の死」を宣告したものである。キルケゴールは、言わば、西欧の超越神の死に対して、忘却された超越神の半面であるメディア界の神を指摘したと考えられるのである。
 そのように考えると、プラトニック・シナジー理論は、超越神の新生でもあるだろう。しかし、それは、もはや、一神教ではなくて、新多神教としての超越神である。換言すると、エローヒームの復活である。


参考:「逍遥の人 セーレン・キルケゴール
http://homepage.mac.com/berdyaev/kierkegaard/index.html