⇒同一性と⇒差異について:光・コスモスと闇・カオスの均衡・調和

⇒同一性と⇒差異について:光・コスモスと闇・カオスの均衡・調和


テーマ:プラトニック・シナジー理論


以下に明日野氏の自己認識のエネルギー保存則が述べられている。
即ち、

+i*(-i) + i*j*k⇒0

言わば、

(一人称自己認識)⇒1+(三人称自己認識)⇒−1⇒0

である。

 また、「 ◆
自己認識のエネルギー保存則の平凡な意義は、意識は、内面と外面の相互の観察によって、平衡状態、つまり、均衡点(精神的位置エネルギー⇒ゼロ)を得る。 」と述べられている。この所見は、興味深い。何故なら、私は、私の社会現象的態度・姿勢が、「心」を零度に保つことを心がけているからである。つまり、この零度は、確かに、主体・主観性の《強度》であるが、これは、いわば、内界と外界との交点としての零度なのである。だから、⇒0とは、私の主観からは、とても納得できることである。
 また、三人称自己認識が⇒−1になるというのも、興味深い。思慮のない人は、−1を自分と見ないで、他者と見てしまう。これが、ユング心理学や二重人格の影であろう。つまり、−1は、自己の影になるだろう。また、さらに考えると、スピノザの能動的観念の方法とは、−1を正に、自己に取り込む方法である。つまり、明日野氏の三人称の自己認識方程式は、スピノザ哲学を表現していると考えられるのである。そして、デカルト哲学+スピノザ哲学=零度差異共振シナジー哲学=プラトニック・シナジー理論ということではないだろうか。もっとも、フッサール現象学が前提であるが。
 私が先に写真や映画で触れた精神的視覚・「イデア」的視覚・ヴィジョン的視覚も結局、この⇒0の視覚であると思われる。
 ところで、思いつきだが、深層心理学の誤りは、両者をかけ算して、1×(−1)=−1になっていることにあるのではないだろうか。自己と自我を統一させようとしているのである。自我を解体して、−1を自己認識すべきなのだろう。
 ところで、今思っているのは、差異1☯差異2⇒差異1/差異2のような場合である。つまり、差異共振シナジーにおいて、⇒同一性が光の志向性ならば、⇒ 差異の闇の志向性の場合はどうなのかということである。これは、イデア界への志向とも言えるのである。⇒同一性が生の志向性ならば、⇒差異は死の志向性ではないのだろうか。
 私は、フロイト精神分析を批判しているが、しかし、死の欲動理論だけは、肯定できるのではないかと先に述べた。すると、⇒差異は死の欲動ではないのか、という考えが浮かぶのである。しかしながら、フロイトは、いわば、唯物論者、物質的欲望論者なので、そのまま、肯定することはできない。死の志向性と死の欲動とは異なる考えである。前者は精神上の事象であり、後者は物質的肉体上の事象であるから。⇒差異とは、思うに、形而上学的衝動ではないのか。「イデア」衝動ではないのか。「彼岸」衝動ではないのか。あるいは、ニーチェの認識を借りれば、⇒同一性がアポロ的衝動で、⇒差異がディオニュソス衝動ではないのか。前者がいわば、「コスモス」的衝動であり、後者が「カオス」衝動ではないのか。ニーチェにおいては、それぞれ、美術と音楽と区別されるが、実際問題は、芸術の対極的な表現方向と言えるのではないだろうか。例えば、現代美術は、ディオニュソス的衝動が強いだろう。
 ⇒差異について、探究を深めよう。これは、端的に言えば、超越衝動だろう。超次元衝動だろう。『奥の細道』の「道祖神の招き」だろう。そう、聖霊衝動(衝迫)であろう。宗教衝動・神の衝動であろう。コスモスの衝動でもある。
 問題は、これが、イデア界の方向をもつので、カオスへ回帰することになるではないだろうか。ニーチェが晩年陥ったのは、イデア界への回帰としてのカオスではなかったのか。力の意志は、カオスへの意志ではないだろうか。おそらく、永遠回帰は、二つあるのである。イデア界への回帰と「メディア界」への回帰である。ニーチェは、後者を通り越して、前者へと向かっていってしまったと思えるのである。フッサールは賢明にも、「メディア界」に留まっている。思うに、アナーキズムとは、これと関係するのではないだろうか。シュティルナーの唯一者、ドストエフスキーの「地下生活者」は、イデア界=カオス界の人間ではないのか。
 ⇒同一性(アポロ)と⇒差異(ディオニュソス)とのバランスが必要なのである。それで、⇒0(差異共振シナジー)となるだろう。後でさらに検討を進めたい。
 さて、少し、⇒差異の衝動を、精神障害の点から見てみたい。私は、以前、近代的自我狂気と私が呼ぶ「精神病」に関して、賦活された差異を否定・排除・隠蔽しているので、それが、反動暴力化して、狂気衝動となっていると述べた。賦活された差異とは、⇒差異である。問題は、近代的自我は、=1、即ち、=同一性である。だから、⇒をブロックしているのである。しかし、差異⇒同一性であるから、反転として、同一性⇒差異が発生すると考えたのである。この反転が差異の賦活となるだろう。=のブロックが強固だと、反転が反動となり、非合理・不合理主義となるだろう。つまり、差異エネルゲイアが非合理・不合理な衝動となり、同一性衝動(独裁・専制・傲慢衝動)を喚起すると言えよう。これが、狂気なのである。精神病なのである。
 とまれ、⇒差異とは、1⇒(+i)*(-i)ではないのか。近代主義はこれを否定・排除・隠蔽しているのである。⇒(+i)*(-i)が反動狂気となっているのである。反動をどう数式化するのだろうか。やはり、
+1×(−1)=−1なのだろうか。しかし、これでは、分裂を表記していない。+1/(+i)*(-i)だろうか。それとも、1+1=2になっているのだろうか。つまり、三人称−1の替わりに、一人称が1が入っているのではないのか。これは、完全な同一性主義、同一性絶対主義である。
 後で整理したい。
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自己認識の平衡状態、エネルギー「ゼロ」⇒自己認識のエネルギー保存則

・人間とは精神である。精神とは何であるか。
精神とは自己である。自己とは自分自身に関わる一つの関係である。
―「死に至る病」―キルケゴール



 


2006.11.03 Friday
自己認識の平衡状態、エネルギー「ゼロ」⇒自己認識のエネルギー保存則

◆一人称の自己認識方程式とは、謂わば、「自己反省」の構図である。内面を覗き込む姿である。

+i*(-i)⇒1

◆三人称の自己認識方程式は、謂わば、「自己投影」の構図である。外に眼を向けた構図である。
i*j*k⇒-1

◆◆意識は、内面を覗き込むことで、「自己充足」=(自己)を得る効果を生じる。意識は、外に眼を向け、外界に自己を投機することで、「自己疎外」=(自己の鏡像)を得る。

◆エネルギー状態は、スカラー量であり、「+」で表現できる。
◆そこで、内的思量と外的思量の総和を求めると、

+i*(-i) + i*j*k⇒0

自己認識のエネルギー保存則と呼ぶことにする。




自己認識のエネルギー保存則の平凡な意義は、意識は、内面と外面の相互の観察によって、平衡状態、つまり、均衡点(精神的位置エネルギー⇒ゼロ)を得る。

http://blog.kaisetsu.org/?eid=472537
『海舌』 the Sea Tongue by Kaisetsu 『New Platonic Synergy Theory』   
Conservativeの源流へ!
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自己認識の平衡状態、エネルギー「ゼロ」⇒自己認識のエネルギー保存則
◆一人称の自己認識方程式とは、謂わば、「自己反省」の構図である。内面を覗き込む姿である。

+i*(-i)⇒1

◆三人称の自己認識方程式は、謂わば、「自己投影」の構図である。外に眼を向けた構図である。
i*j*k⇒-1

◆◆意識は、内面を覗き込むことで、「自己充足」=(自己)を得る効果を生じる。意識は、外に眼を向け、外界に自己を投機することで、「自己疎外」=(自己の鏡像)を得る。

◆エネルギー状態は、スカラー量であり、「+」で表現できる。
◆そこで、内的思量と外的思量の総和を求めると、

+i*(-i) + i*j*k⇒0

自己認識のエネルギー保存則と呼ぶことにする。

http://theory.platonicsynergy.org/?eid=399836
Theories for the Platonic Synergy Concept.