写真と精神:精神的視覚と「写実」:同一性主義批判と新東洋文明曙光

写真と精神:精神的視覚と「写実」:同一性主義批判と新東洋文明曙光


テーマ:美術・アート


先に、映画と精神について、簡単に言及したので、ここで、本件について簡単に触れたい。もっとも、これは、芸術と精神ないし感覚と精神の問題として一般化できるが、一般論は、ここでは置いといて、写真と精神に限定したい。(そう、これは、デザインと精神、等々と展開するだろう。)
 映画については、ベラ・バラージュの古典の『視覚的人間』があるが、
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4003355717/sr=8-1/qid=1162439021/ref=sr_1_1/249-9325302-2790723?ie=UTF8&s=books
精神の表現技術の方にウェイトが置かれているだろう。(この書は、思うに、映画の一種モダニズム的理論だろう。)
 映画の精神表現については、精神的視覚性が映画監督に必須の資質だと思っている。つまり、美術的資質である。それに物語の資質等が加わって、映画芸術が可能になるだろう。小津安二郎の映画(少し過大評価ではないかと思われるが)は、やはり、美術的側面というか、絵画的側面が強いだろう。
 では、本件の写真と精神のテーマについては、どうだろうか。これも、直観では、精神的視覚性が基礎だと思うのである。つまり、やはり、美術的資質である。(映画や写真は美術芸術に入るものであるし、漫画やアニメもそうである。しかし、精神表現がなくてはならない。)
 精神的視覚とは、何か、ということになる。これは、「イデア」的視覚であるし、ヴィジョン的視覚とも言えるだろう。(神秘的に言えば、透視に近いのであるが、「霊視」になると、これは、逆の二元論となり、病理的倒錯である。)これを、プラトニック・シナジー理論の視点から考察すると、これは、とりもなおさず、不連続的差異の即非共立的視覚ということではないだろうか。精緻に言えば、不連続的差異即非共立的「同一性」志向視覚ではないだろうか。これを図式化しよう。


差異1☯差異2☯・・・☯差異n   (差異即非界)


において、☯→=(即非→同一性)が、プラスの志向性として生起するし、同時に、☯→dd(discontinuous difference:即非→不連続的差異)が、マイナスの志向性として生起すると考えられる。
 精神的視覚、イデア的視覚とは、☯→=(即非→同一性)における→=(→同一性)に存するのではないだろうか。光の志向性と言ってもいいだろう(それに対して、→ddは、闇の志向性と呼べるのではないだろうか)。換言すると、精神的視覚=光の志向性とは、即非共立ヴィジョンをもった「同一性」視覚ということになろう。これは、不思議なヴィジョンではあるが、単純化すると二重のヴィジョンであるが、正確には、多重多層複合融合的ヴィジョンである。この精神的視覚能力が、美術的資質・才能・天才である。これで、すでに、写真と精神のテーマは、解決しただろう。結局、現象に対して、精神的視覚を向けて、撮影したものが写真芸術である。(後、闇の志向性と写真の問題があるが、これは、課題としておこう。)
 さて、最後に、「同一性」の問題を考えたい。先に、連続的同一性と不連続的同一性(特異性的同一性)を区別した(これは、量的同一性と質的同一性と言い換えることもできるだろう)。しかし、同一性という言葉は、差異の現象に対して、直に使用すると落ち着きが悪いと感じられるのである。
 →同一性と言えば問題がないのである。とまれ、精緻・厳格に検討しよう。連続的同一性とは、差異=微分であり、虚構に過ぎない。つまり、真正な事象には、存在しない、ヴァーチャルなものである。では、実際の→同一性を分析的にみてみよう。
 零度差異共振シナジーによって、諸・不連続的差異が連結し、連続化し、同一性となる。ここで、作業仮説であるが、諸・不連続的差異が、それぞれ、同一性になるとしよう。つまり、差異1、差異2,・・・差異nが、すべて、同一性になるということである。つまり、差異k=同一性(連続的同一性)【差異k→同一性が正確である】である。しかし、この多数の同一性・連続的同一性の集合連続体自身が、一つの連続的同一性体を形成していると考えられるのである。ということで、差異k→同一性の連続的集合体として、連続的同一性体を考えることができる。(これから、→を連続的同一性志向性を意味する記号としよう。)差異k→同一性→同一性体となる。
 私が、これまで、連続的同一性と呼んだものは、=同一性体(同一性個体)のことである。では、不連続的同一性とは何かとなると、当然、→同一性体(同一性個体)のことである。簡単に言えば、→である。つまり、志向性には、差異即非共立性・差異共振シナジー性があるということである。メディア界があるということである。始点が存しているということである。根源が存しているということである。
 ということで、同一性の問題は、→(志向性)があるか、否かの問題なのである。近代主義とは、この→を否定・無化した観念体系であると言えるのである。結局、連続・同一性主義ないし連続・同一性中心主義である。これで、同一性の問題は解決したとしよう。
 では、→を否定・無化した近代主義は、この否定によって、どういう事象を引き起こすのかという原理的問題がある。実際的結果は、超大惨事・破局・悲劇・悪夢であったことは、否定できない。理論的に考察しよう。→を否定・無化することは、自然の根源的力=エネルゲイアを否定することになるのである。すると、当然、根元的力がブロックされるので、反動的力が作用するのである。反作用である。この反動的力が暴力なのである。社会学的に言えば、ホッブズの万人の万人に対する戦争である。あるいは、狂気である。パラノイア人格障害のような精神病理・狂気である。そして、近代資本主義の攻撃力である。つまり、資本を連続・同一性化したために、資本のもつ差異的エネルゲイアを否定しているので、暴力・狂気・非合理主義的な連続・同一性主義的資本主義が生まれたのである。西欧・米資本主義とは、このようなものであり、植民地主義帝国主義、冷戦、等々を生んだのである。結局、近代という時代は、人類史において、最悪の時代として記録されるのは、確実である。《悪魔》が支配したのであるから。
 とまれ、今や、大局的に見ると、否定・無化された→が復活し、ポスト・西欧近代のエポック、即ち、新東洋文明の黎明期を迎えているのである。反動であったフランス・ポストモダンもとっくに終焉して、今や、真のポスト・西欧近代、ポスト・ウェスタン・モダンである。ネオ・プロトモダンである。ネオ・ルネサンスである。東洋ルネサンスである。
 しかしながら、現代日本は、世界でいちばん、近代主義に汚染されて、超倒錯の社会になっているのである。近代狂人たちの社会なのである。近代狂気から覚醒しないといけない。



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 狂気近代日本からのエクソダスである。今や、新東洋文明という約束の地が見えたのである。ピスガ山越えである。そう、ヘルダーリンキルケゴールメルヴィルニーチェフッサール鈴木大拙西田幾多郎ウスペンスキーD.H.ロレンス折口信夫、多くの天才たちが、ピスガ山に達して、新たな約束の地である新東洋文明を指し示していたのである。


Overcome Continuous Identity Modern!
Practice and Realize Exodus
from the Most Insane Modern to New Orient!