2つの資本(主義):反差異・連続的同一性資本と差異共振シナジー資

2つの資本(主義):反差異・連続的同一性資本と差異共振シナジー資本


テーマ:差異資本論


これについては、ある意味で、既述したが、イメージ(ヴィジョン)が湧いたので、記しておこう。
 プラトニック・シナジー理論における零度差異共振シナジー・メディア空間(以下、メディア空間、シナジー・メディア空間、等と簡略する)であるが、それは、精緻に言えば、永遠普遍空間・超時空間(四次元ないし五次元)であるが、これが、いわば、「現実」界・現象界に浸透している、染み込んでいるのである。しかしながら、メディア空間は、全体は、潜在している、それも、デュナミスとして潜在して、いわば、休火山である。メディア空間の極く一部が「現実」界・現象界に顕在化しているに過ぎない。「物質」であるが、それは、メディア空間の差異共振の反差異・連続的同一性体であると考えられる。つまり、「物質」とは、簡単に言えば、差異的同一性体の差異ないし差異共振シナジー性を捨象した側面である。あるいは、差異的同一性空間が、反差異・連続的同一性空間に投影された影像が、「物質」であると言えるのではないだろう。つまり、「物質」とは、差異的同一性の、反差異・連続的同一性空間への投影像と考えられるのである。反差異・連続的同一性空間が「物質」空間であり、近代においては、これが、「現実」空間と考えられたのであり、今日でも、唯物科学によって、これが現実だと考えられているのである。
 しかしながら、「物質」とは、あくまで、差異的同一性の被捨象像に過ぎないのである。差異の連続面のみを観察・観測しているのに過ぎないのであり、つまり、差異の表層・表面を現実としているのであり、差異の深層・本体・実相を無視しているのである。簡単に言えば、差異のエネルギーの、連続面の反映・投影像を見ているだけである。だから、「物質」のエネルギーとは、差異のエネルギーの反映に過ぎないのである。【例えば、電力の100ワットとは、「物質」エネルギー量であるが、しかし、これは、差異エネルギーを無視しているのある。つまり、差異共振シナジー・エネルギーを無視しているのである。これは、とりあえず、(i)*(-i)で表現できるだろう。(先に、Kaisetsu氏の仮説があるが、それが参考になるだろう。)それに対して、反差異・連続的同一性体である「物質」とは、それを否定して、(i)*(-i)⇒+1の結果の+1を見ているだけである。だから、100ワットとは、(10i)*(-10i)⇒+100ワットであるが、左辺を捨象しているのである。(おそらく、(i)*(-i)は、プロト量子空間であろう。量子とは、この「物質」像である。)】
 本論に戻ると、近代資本主義とは、反差異・連続的同一性=物質に基づく資本主義である。人間も、物質に還元されるのである。そして、これに交換価値がつけられるのである。商品としての人間である。物質主義・唯物論では、差異共振性が無視されるので、人間は、「疎外」されるのである。しかし、物質主義・唯物論の誤りは、以上の説明で明々瞭々である。零度差異共振シナジー空間・メディア空間の連続的同一性空間として物質空間・唯物空間があるのである。本体のメディア空間を無視しているのである。否、正確に言えば、メディア空間の現象態である心・思惟・意識・知性・精神と、物質空間・唯物空間との二元論に陥っているのが、近代空間なのである。思惟と延長の二元論である。近代派、前者のメディア空間が内在超越空間(内超空間)であるからことが認識できないので、両者を同列にして、さらに、後者の物質空間から前者を認識しようとしているのである。脳科学とは正に、そのようなものである。だから、例えば、「気」の現象の説明が物質空間科学ではできないのである。「気」は、差異共振シナジー空間・メディア空間を考えれれば、簡単に説明が出来るのである。
 結局、近代資本主義は、物質と精神の二元論ないし心身二元論であるが、物質中心主義・唯物論資本主義になっているのである。当然、メディア空間側からの異議申し立てが出るのである。(そして、ネオコンの場合は、アイロニカルな没入で、−1の倒錯になっているのである。)
 そして、時代的には、近代主義を超克するものとして、ポスト・モダンが生まれるのである。これは、反差異・連続的同一性を超克する差異理論を意味するのである。これは、哲学的には、ポスト・ヘーゲルである。キルケゴールシェリングニーチェフッサール、他が、真正な先駆者である。そして、ポスト・モダンの系譜は、ハイデガーで、反動化し、連続論化するのである。そして、フランス・ポスト・モダン運動であるが、これは、ドゥルーズの場合、反動的な、ベルクソンハイデガー的連続論を継続して、失敗したのであるが、後期デリダにおいて、ポスト・モダンが継承されたと言えるのであり、日本において、鈴木大拙西田幾多郎によって、ポスト・モダンが進展した。その後、不連続的差異論、そして、プラトニック・シナジー理論が創造されたのである。
 さて、問題は、反差異・連続的同一性が、もたらす心・主観性への影響である。反差異・連続的同一性現象としての物質を近代は発見する。そうすると、心・主観性・意識は、本来は、メディア空間であるから、差異を内包しているのであるが、逆に差異を否定・排除・排斥・隠蔽するようになるのである。この点では、近代科学による物質の発見は大きな影響をもっただろう。反差異・連続的同一性体としての物質という観点、つまり、唯物論は、心・主観性・意識を唯物化し、心にある差異を否定したのである。【思うに、これが、−(−i)の最初の−の発生の根因ではないのか。】つまり、物質のもつ反差異・連続的同一性の論理によって、メディア空間・心のもつ差異の論理(対極性・即非性の論理、あるいは、「ターシャム・オルガヌム」)が排除されたのである。二項対立の論理が、おそらく、物質の論理から形成されて、メディア空間の論理・差異の論理が否定されたのである。もっとも、アリストテレスの論理学は、古代からあるから、それに付加して、物質の発見があって、唯物論が生起して、二項対立論理が徹底したと言えよう。
 そして、これは、フッサール現象学の問題である。フッサールは、近代唯物科学、近代主義の反差異・連続的同一性科学を批判して、心・主観性・意識、即ち、メディア空間の科学を取り出したのである。これは、差異科学、メディア空間科学と呼べるであろう。
 ということで、19世紀後半から20世紀前半にかけて、近代主義批判と超克理論が創造されたのである。一方、近代科学と近代資本主義が前進して、産業が発達するようになるのである。しかし、近代科学は、相対性理論量子力学で、反差異・連続的同一性の前提が破綻したと言えるだろう。これが、現代科学である。
 しかしながら、世界大戦等を繰り返すなど、世界は、暴力・狂気的様相を増したのである。近代主義と脱近代主義の争闘は続いているのであり、20世紀後半において、フランス・ポスト・モダン運動が勃興する。しかし、資本主義は、冷戦後、グローバリゼーションを迎える。アメリカのネオコンは、しかしながら、近代主義というよりは、反動である。資本主義は、いわゆる、情報資本主義へと転換していく。情報とは、実は、メディア空間の知的事象であり、情報化は、多元的知性を解放したのであり、知性の脱領域化が生じて、知は多元的様相となる。



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 情報化と差異理論とが融合して現代的ポスト・モダン理論となるのであるが、これは、メディア空間の解放を意味すると言えるだろう。差異情報空間と言ってもいいだろう。そして、この現代ポスト・モダン状況において、資本主義が、ポスト・モダン的資本主義の究極態である差異共振シナジー的資本主義に変容する可能性をもっているのである。これは、内在超越するメディア空間を活用した資本主義であり、メディア空間・差異共振シナジー資本主義と呼べるであろう。資本は、差異共振シナジー資本、メディア空間資本、《メディア》資本となるのである。
 そして、この《メディア》資本を環流させる社会の血液として《メディア》貨幣が必要となるのである。それが、差異貨幣であり、反差異・連続的同一性資本の貨幣とは異なるものでなくてはならないのである。それは、Kaisetsu氏が提唱されているように、銀本位制によって実現される可能性があるのである。メディア空間的社会のメディア貨幣としての銀本位制の貨幣である。
 とまれ、以上のように、ポスト・モダン資本主義としての、差異共振シナジー資本主義、メディア空間資本主義が提起されるのである。