合理主義、合理性は、どこから生まれるのか:デカルトとポスト・モダ

合理主義、合理性は、どこから生まれるのか:デカルトとポスト・モダン


テーマ:プラトニック・シナジー理論


合理主義、合理性は、どこから生まれるのか:例えば、近代合理主義の近代合理性とは、何であり、どこから発したのか。あるいは、知性とは何なのか。どこから、知性が発するのか。
 近代的自我は、(i)*-(-i)⇒-1 であるが、やはり、最初のマイナスの発生が問題である。具体的に確認していこう。眼前に、カップがある。同一性(同一性体)である。しかし、眼前のカップは、実際は、差異的同一性であるが、物質的知覚は、それを、反差異・連続的同一性として捉える。ヘーゲルの個別性である。差異的同一性(=特異性)が捨象されているのである。あるいは、差異が排斥されているのである。
 近代的自我とは、この差異を消去した認識、反差異・連続的同一性認識をもつものと言えよう。もし、差異的同一性=自己であれば、自己と他者であるカップの間に、なんらかの共振性が生起するのであるから、カップは、差異的同一性として認識されるだろう。しかし、反差異・連続的同一性=近代的自我であれば、自我と他者を絶対的に二元論的に区別して、カップは、カップであり、それ以外の何ものでもないと判断するだろう。A=Aであり、A≠非Aである。そして、このカップは、他のカップと同様に、カップとして、連続的同一性である。これが、ヘーゲル的個別性=一般性の考え方であるが、これは、とりもなおさず、言語観念形式の考えた方であろう。名詞のカップは、反差異的同一性として、観念体系の中で、一般性をもっているのであるから。つまり、言語観念形式は、反差異的同一性形式をもっているということになるだろう。【ここで、ヨハネ福音書の冒頭「初めに、ロゴスありき」を、近代西欧は、「初めに、言葉ありき」と訳した(誤訳した)ことを想起するのである。】
 近代的自我=反差異・連続的同一性=言語観念形式という図式がほぼ形成されるだろう。そして、これを数量化して、近代合理主義が成立する。つまり、物質の誕生である。差異を排除した同一性の徹底化である。そして、この数量化された反差異・連続的同一性、即ち、物質的合理性が、近代合理性であり、その知が近代知性である。ここには、差異に対する絶対的否定性が作動しているのである。-(-i)の最初のマイナスである。
 とまれ、これで、近代合理性について解明できたといえるが、一般に合理性とは、なんらかの同一性の論理であると言えるのではないか。例えば、即非の合理性とは、差異的同一性の論理であると言えるのである。
 これで当初の問題をクリアしたが、やはり、否定の起源の問題が残っている。これまで、キリスト教的二元論に否定性の起源を見てきたのではあったが。しかしながら、キリスト教文化をもたない場所においても、否定性が出現するのであるから、この説は普遍的説得力をもたない。
 やはり、その説以前に述べた、不安・恐怖説の方が的確ではないだろうか。差異は、本来、単独性・特異性であり、孤独である。これが、近代初頭に出現したのである。ルネサンスがそうであるし、それ以後、デカルトスピノザライプニッツパスカル等にあったものである。でも、何故、差異は不安なのか。その理由は、人間は、受動性をもっているので、差異の様相にあるときに、支えが無くなるから不安になるということと考えられる。つまり、単独性・特異性に、自己がさらされるのであり、受動的自己は、どこにも、支えを見つけられないのである。つまり、ここにおいて、外在的な支えはすべて崩壊したと言っていいのである。デカルトのコギト哲学とは、正に、単独性の自己の哲学であり、単独性に自己確認を見出したものである。しかし、この単独性から、デカルトは、明晰な観念=合理性を求めていくのである。しかし、この合理性が、反差異・連続的同一性、近代合理主義につながったと考えられるのである。というのは、デカルトは、あいまいなものを能動的に排除して行ったのである。そして、このあいまいなものに、感覚性が入ったのである。この結果、身体が排除されることになったと考えられるのである。あいまいなものを排除するという合理主義は知性としては、正統的であるが、その中に感覚性を入れたことが、近代的合理主義の誕生となったと言えるのである。心身二元論である。思惟と延長との二元論である。
 思うに、感覚ないし身体と観念・知性との関係の中に、差異があるのである。私は、精神とは心身であると考えている。単に、心だけでは、単に、身体だけでは、精神はないと考えられるのである。そう、差異の発現としての、心身であるからである。差異の発現として、心があり、身体があるのであり、どちらか一方ということではないのである。正に、心と身体とは、一如である。心身一如である。だから、感覚・身体を排除したデカルト合理主義とは、当然、否定性を帯びて、反差異的合理主義になったと言えるのである。単独性から出発していながら、デカルトは、正反対の近代合理主義に帰結したのである。デカルト哲学は、絶対的矛盾を内包していると言えるのである。(このデカルトの矛盾をほぼ解決したのが、スピノザであるが、これについては、既述である。)
 では、デカルトの感覚・身体否定は、どこから発しているのか。何を意味しているのか。思うに、ここには、感覚・身体に対する観念・知性側の切断があるだろう。この切断には、不連続性には、意味があるのである。これは、おそらく、超越性、内在超越性の意味があるのである。現象的感覚・身体性を捨象うするということは、超越性を志向していると考えられるのである。極言すれば、「イデア」性を志向しているのである。宗教的に言うと、一神教とパラレルと考えられる。神=「イデア」の次元とすれば、ほぼ等価である。
 だから、デカルト合理主義の合理性とは、超越次元にあると考えられるのである。故に、近代合理主義の合理性も超越的であるということになるのである。つまり、近代合理主義とは観念的なのである。そして、これをカントは、超越論的形式と呼んだと考えられるのである。デカルトとカントは、当然ながら、直結しているのである。さらに言えば、近代合理主義の合理性とは、構造であるということである。構造主義は、デカルト/カントから発していると言っていいだろう。
 だから、近代主義とは構造主義なのである。近代科学は構造主義なのである。問題は、脱構造主義である。ポスト・近代主義である。なぜなら、近代主義は、差異を内包しているから、当然、差異の進展が帰結するからである。つまり、脱構造主義、ポスト・モダンは必然なのである。
 では、差異の内包について考察しよう。コギト哲学は、単独性・差異哲学であるから、当然、差異が前提にあるのである。これが、近代合理主義によって、隠蔽されているのである。ちょうど、ルネサンスが、プロテスタンティズムによって隠蔽されているように。問題は感覚・身体否定にある。そして、知性の問題である。そして、観念の問題である。そして、言語の問題である。また、数学の問題である。おそらく、明晰な思考とは、言語観念形式や数学を必要とするのである。言語観念形式や数学がなければ、思考は、不分明なままである。あるいは、ヴィジョンのままである。直観のままである。おそらく、ここに人間の知性形式の問題があるのである。なんらかの観念形式によって認識するのである。観念媒体と言ってもいい。おそらく、デカルトは、明晰な観念を求めて、感覚・身体を否定したのである。これが、近代の否定性である。
 ここで図式化してみると、(i)*(-i)は、(i)⇒(-i)であり、これが、単独性・特異性である。しかし、この ⇒は、+エネルゲイアと考えられるから、反転して、−エネルゲイアと発生させるのである。つまり、反作用である。だから、(i)←(-i)であり、結局、 (i)*(i)⇒−1である。これは、意味のある反転・反動である。
 しかし、問題点は、原点を喪失することである。超越性、超越論性、内在超越性という原点・次元の喪失・忘失である。構造主義とは、この意識化であろう。つまり、構造主義とは近代主義そのものの意識化・理論化である。そして、それに対して、キルケゴールニーチェフッサールが脱構造の志向を提起したのである。これは何を意味するのか。当然、ポスト近代主義であるが、これは、どういうことなのか。近代主義のもつ超越次元喪失に対する批判である。あるいは、反差異的同一性へと帰結した近代主義運動への批判である。
 メディア空間の差異共振は、いわば、永久運動であるから、閉じられることはないのである。しかし、近代主義運動は、反差異的同一性に閉じられてしまっているのである。これは、フッサールの自然的態度と言っていいだろう。これは、反差異的同一性という物質や貨幣が、経済的現実を支配していることに起因があるように思える。つまり、生存の恐怖から、反差異的同一性の態度を反動的に保持すると考えられるのである。ということは、高貴な精神をもっている人格において、当然、一般に隠蔽された差異が活動しているのである。ニーチェが言った「貴族」的精神をもった人間が、現実にある差異を肯定するのである。デカルト哲学の未熟性・不十分性を克服すべく、スピノザ、カント、キルケゴールニーチェフッサールと西洋哲学の天才たちが、差異の哲学、ポスト近代主義の哲学を開拓していったのである。しかし、これに対する近代主義的折衷が生まれる。つまり、連続論的哲学である。ライプニッツモナド哲学、ベルクソンの持続論、ホワイトヘッド有機体論、ハイデガー存在論ドゥルーズの連続的差異論等である。そして、フランス・ポスト・モダンは、初期は、そのようなものであったが、後期デリダにおいて、正統なる差異哲学/ポスト・モダン哲学が、復帰したのである。
 ということで、近代とは、必然的に、ポスト・モダンなのである。出発点が、差異であるからである。これが、怯懦によって、近代主義となったのである。近代は、構造主義であり、且つ、脱構造主義なのである。
 結局、プラトニック・シナジー理論が、このポスト・モダンの問題を解明したことになるだろう。そして、それは、内在超越次元であるメディア空間の発見である。