検討課題:相補性について、他

検討課題:相補性について、他


1) 量子力学の粒子と波動の相補性の概念を、プラトニック・シナジー理論から捉えなおす。


2) 近代唯物科学の超克:近代科学/近代唯物科学から、ポスト・モダン・サイエンス、プロトモダン・サイエンス、メタ・モダン・サイエンス、プラトニック・シナジー・サイエンスへのエクソダス


3) 反感の哲学:なぜ、連続的同一性を他者に投影して、自我(近代的自我)を形成するのか。


4) なぜ、近代の知性は、内在超越性(内超・超内性、降超・超降性、身超・超身性)を喪失したのか。超越論性と超越性。


5) 近代は、志向性が、外界中心に向けられていて、内界への志向性が乏しいが、つまり、外界の光へと志向性が向けられ、内界の「光」への志向性は乏しいが、この力学は何なのか。思うに、私がヴィジョンと呼ぶものは、内界の「光」、映像ではないだろうか。自己認識方程式(i)*(-i)⇒+1によれば、この+1が、内界の「光」ではないだろうか。否、(-i)が他者であるから、これが、内界の「光」ではないだろうか。(i)を外界の光とすれば、外界の光と内界の「光」との共振が、+1ではないのか。とりあえず、内外光、陰陽光と呼べるだろう。これが、本当のヴィジョンではないのか。たとえば、ジョージア・オキーフの絵画の色彩美は、このヴィジョンによるのではないのか。あるいは、ルドンの絵画の色彩美、音楽で言えば、シューマンマーラーの音色美も、これではないのか。闇と光が共振的に「妖しく」輝くのである。それに対して、近代は、内界の「光」、闇の「光」を喪失して、外界の光に頼っているのである。【そう、世紀末美術も、陰陽光があるだろう。今、名前を失念しているが、挿絵画家にいた。また、今思ったが、イギリスの小説のヴィジョンは、やはり、この陰陽光ではないのか。カズオ・イシグロの『日の名残り』のヴィジョンがそのように思える。また、ディケンズにしろ、D.H.ロレンスにしろ、彼らの作品のヴィジョンはそのようなものではないのか。】外界の光に頼るとは、(-i)の否定であると考えられる。つまり、-(-i)である。正に、(i)*-(-i)⇒ −1で、近代的自我である。換言すると、外界の光とは、闇である。ここは実に微妙な点である。というのは、(i)*(-i)を私は、(i)⇒(-i)と見て、⇒を+エネルゲイアで、闇のエネルゲイアと呼んだからである。今の視点から見ると、これは、外界の光から内界の「光」への志向性のように思える。つまり、明るい光が暗い光へと志向することであり、光と闇との共振という意味があるだろう。だから、これは、闇のエネルゲイアと言ってもいいが、陰陽のエネルゲイア、太極のエネルゲイアと言ってもいいだろう。それに対して、近代的自我のエネルゲイアは、外界の光だけのエネルゲイアであり、だから、それは、陽のエネルゲイアと呼んでいいだろう。しかし、これは、当然、陰のエネルゲイアを否定しているので、二項対立的、反動・暴力・狂気的である。つまり、外界の光しか認めず、内界の「光」を否定するのであるから。とまれ、私の言葉では、近代的自我は、ヴィジョンを喪失しているのである。そう、精神というものは、陰のエネルゲイアによって形成されるものだろう。しかし、単に陰のエネルゲイアだけでは、アイロニカルな没入が生起して、やはり、−1の事象となる。+1が、真の光、陰陽光、太極光である。ロレンスの黒い太陽とは、このことではないのか。最初の問題にもどると、近代は、(-i)を否定するのであるが、また、同じ問いになるが、何故、内界を否定するのか、あるいは、何故、外界の光のみに頼ろうとするのか。外界の光を信じるのか、等々である。東洋は瞑想行があり、内界への測深方法があった。【ギリシア正教には、そのようなものがあった。そう、ギリシアというトポス(場、または、地霊?)が大事だろう。ギリシアは、東洋と見るべきなのである。古代ギリシアの秘儀であるエレウシスの秘儀があったが、それは、おそらく、一種瞑想行であろう。】内界への「光」への不信感が、近代的自我の起源にあると考えられるのである。ヴィジョンへの不信感と言ってもいい。端的に、精神への不信があったと言ってもいい。あるいは、差異への不信である。反対に、反差異・連続的同一性への信用・信頼があったのである。不可視的なものへの不信と可視的なものへの信頼。私の考えでは、これは、正に、自我と結びついている。自我と外的可視性が結びついている。(そして、いわゆる、モダン・アートは、内的可視性へと降下したのである。)外的可視性とは、外的個体性を知覚する。これは、まったく、フォーム・形式である。これは、排他的な形象である。リンゴという形象は、ミカンという形象を排除するのである。家という形象は、木という形象を排除するのである。外的個体性は、正に、反差異・連続的同一性形象・形態・形式であると言えよう。そして、これに言語形式が結びつくのである。いわゆる、古典的言語が生まれるのである。これは、固定形式である。固定機能に優れている。外界的光、近代的自我、外的個体性、反差異・連続的同一性が、セリーである。今、思ったのは、自我ではなく、自己の起源は、(i)ではなくて、(-i)ではないかということである。つまり、(-i)⇒(i)ではないのか。闇から光へと展開するのではないのか。そして、近代的自我とは、⇒の終点が独立(これは、幻想であるが)して、 (-i)を否定したのではないだろうか。これは、換言すると、(-i)が(i)に同化したことと言えるだろう。つまり、(-i)が、-(-i)となり、結局、-(-i)*(i)⇒−1となったのではないのか。問題は、どうして、そのような自己否定的な独立幻想が生じるのかである。私の以前からの直感では、ここには、捩れや回転があるように思えるのである。(i)*(-i)⇒+1は、メディア空間的自己方程式である。あるいは、(-i)*(i)⇒+1である。しかるに、志向性が発生して、それが、ひねりを伴い、(-i)が隠蔽されるのではないのかと、直感されるのである。私は常々、2回の1/4回転に言及してきたのである。その第二回目の1/4回転が、このひねりではないだろうか。しかし、このひねりは、実は、最初の1/4回転による垂直の捩れと考えることもできるようである。(i)*(-i)⇒+1が、メディア空間の事象ならば、-(-i)*(i)⇒−1は、現象空間の事象、あるいは、近代的現象空間の事象ではないだろうか。つまり、どうも、現象軸として、Z軸を仮定したいのである。そうすると、+Zが、自己の方向であり、−Zが自我・近代的自我の方向となるだろう。もし、イデア空間をXYのガウス平面とするなら、メディア空間は、YZ平面であろう。そして、現象空間は、XZ平面ではないだろうか。これは、実数の平面である。虚軸、虚数を喪失した空間・平面である。そうすると、時間軸は、Y軸である。後でさらに検討したい。