パースの哲学は、連続的差異論である

パースの哲学は、連続的差異論である


テーマ:プラトニック・シナジー理論


先に、アメリカの哲学者パースの『連続性の哲学』(岩波文庫)に言及して、その連続性とは、差異共振シナジーではないかと示唆したが、それは、まったくの誤りであったので、ここで、お詫びかたがた、訂正したい。
 訳の問題があるのかもしれないが、それを考慮に入れずに、コメントすると、パースの記述自体にそもそも問題があると感じた。即ち、きわめて、不明瞭な、不明確な用語使用をしていると考えられるのである。
 それはともあれ、以下の叙述から、パースの哲学が、ベルクソンの連続的差異論と等価であることがわかるだろう。

「・・・次のような個体をメンバーとする特別な集合を考えてみることにしよう。それは、あらゆる種類の非可算的集合をすべて包含するような集合である。
   ・・・
したがって、われわれはここに至って、その数多性があまりにも広大であるために、そうした集合を構成する個体どうしは互いに溶けあい、その個々の同一性を失ってしまうような、そういう特別な多にまで至ったということに気づく。そのような集合こそが連続的なのである。」
(p.113〜114)なお、傍点は、下線に替えた。青色文字は私の強調。

上記の「個々の同一性」は、私が言う差異的同一性のことであり、それを失うということは、反差異・連続的同一性になるということであり、ベルクソン的連続的差異以外のなにものでもないだろう。
 今夏、期待してホワイトヘッドの『過程と実在』を読み出したが、実に、純然たる連続論であり、たいへん失望したが、いくらか期待したパースの『連続性の哲学』であったが、タイトルに偽りなく、連続論であった。また、それだけでなく、パースの叙述表現に大変問題があると感じた。とても、あいまいであり、矛盾していると感じるのである。独りよがりな叙述も散見するのである。どうも際物であるように直観されるのである。ドゥルーズが、ホワイトヘッドやパースを評価していたが、ドゥルーズ自身の哲学が怪しいものなので、類は類は呼ぶというところであろうか。
 もっとも、パースの三元的論理学は、それなりに正しいだろう。第一性、第二性、第三性に分けている(p.86〜p.93)。それを、プラトニック・シナジー理論的に敷延してみる。


第一性:不連続的差異
第二性:差異共振シナジー
第三性:即非性・対極性


としておこう。