i*(-i)、又は、i⇔(-i)の事象の構造について:二つの認識(対象認識

i*(-i)、又は、i⇔(-i)の事象の構造について:二つの認識(対象認識と自己認識)


テーマ:自己認識方程式(i)*(-i)⇒+1関係


空も白み始めた、烏の遠鳴きが増しつつあるなか、東京の今の時刻(6時過ぎ)、仕事前の余裕の時間、本件について考察しよう。この問題は、認識論の核心であると考えられる。
 先に私は、陽意識i→(-i)と陰意識i←(-i)に分けた。そして、前者は、他者である(-i)を否定すると考えたのである。即ち、-(-i)であり、結果は、i*-(-i)⇒-1である。この否定-は、何を意味するのか。それは、陽意識のエネルゲイア、+エネルゲイアではないだろうか。これまで、差異1=同一性=差異2という図式で考えたが、より単純に、i*i⇒−1と考えていいのではないだろうか。つまり、陽意識は、他者(-i)を自己自身iとして観るということでいいのではないだろうか。他者(-i)を否定(−)して、-(-i)=iである。
 陽意識の他者否定はどういうことなのであろうか。差異とは、本来、他者への志向性であるのに、陽意識の他者否定は、本筋ではないように思えるのである。思うに、ここには、主観認識の問題があるのである。陽意識の志向性は、i→(-i)であるが、このとき主観iの認識手段は何だろうか。主観iのメディアは何だろうかという問題があるのである。今作業仮説的に言うと、それは、主観i自身が認識手段、認識メディアであるということではないだろうか。つまり、i が他者(-i)の認識手段・メディアであるということである。即ち、主観iは、主観自身をもって、他者-iを認識しようとするという矛盾事態にあるということである。換言すると、自己投影して、他者を認識するのである(、もし、これが他者認識と言えるならば)。
 結局、陽意識・+エネルゲイアは、自己投影して、他者認識するということである。これは、神話的には、ナルシスの神話である。(精神分析は、ここから、発想を借りたのであり、精神分析の独創ではないのである。)そして、この自己投影(ナルシス、反射像)は、正に、同一性、反差異・連続的同一性を形成するのである。即ち、i→(-i)は、i=(-i)であり、自己即他者なのである。
 この陽意識・+エネルゲイアの自己投影・ナルシスは、志向性の問題に当然関係する。つまり、差異の志向性は、自己から他者への志向性であるが、陽意識は、これが、自己投影となり、倒錯となるのである。だから、陽意識の志向性は、差異の志向性ではなく、反差異・連続的同一性の志向性であると言える。
 ここで問題は、言語と陰意識i←(-i)のことがあるが、先に、言語について考察しよう。陽意識・+エネルゲイア・自己投影・ナルシスにおいて、他者は、自己と等価となるが、自己投影像の名付け行為が起こると言えよう。つまり、反差異・連続的同一性の多様な現象に対して、名付けが行なわれるのである。私はある対象Aと同一であるが、この連続的同一性像を他の対象Bの連続的同一性像と区別する必要があるので、対象Aを花と名付け、対象Bを虫と名付けるのである。結局、陽意識・+エネルゲイアは、反差異・連続的同一性言語を形成し、自己形成ではなくて、自我形成すると言えるだろう。
 では、次に、陰意識・−エネルゲイアについて考えよう。これが、自己iにとり、障碍なのである。陽意識によって、自己投影して、反差異・連続的同一性・言語自我表象が出来るが、それに対して、他者(-i)は、陰意識・−エネルゲイアを自己に作用するのであり、いわば、陽意識の反差異・連続的同一性言語表象自我体系を解体するのである。正に、ここに差異が発生するのである。反差異・連続的同一性=自我に対して、他者の差異が発生するのである。連続的同一性の体系にひびが入るのである。だから、ここに陽意識自我の反動態勢が生まれると言えるだろう。つまり、連続的同一性を阻害する陰意識・−エネルゲイアを、いわば、塞き止める、ブロックするのである。陽意識の自己投影は本来、能動的であるが、この陰意識の阻害においては、当然ながら、反動的になるのである。これが、フロイトの説いた「死の本能」の真相であろう。結局、能動的反動がここには生起しているのである。これが、暴力の根源であると言えよう。近代合理主義は、陽意識の同一性の合理性であり、この陰意識の「理性」・「合理性」を否定・排除・隠蔽しているのである。
 結局、陽意識では、陰意識を取り込めないだろう。何故なら、陰意識は、−エネルゲイアであり、正反対であるからである。正に、絶対的他者(デリダ)である。陰意識を形成するには、陽意識は、自己脱却しないといけないのである。ここには、自己革命・革新・変革・変容が必要なのである。結局、この叡知を、仏教が、二千年以上も前から説いてきたのであるし、西洋哲学の少数の大天才たちもこれを説いてきたのである。スピノザ、(カント、)キルケゴールニーチェウスペンスキーフッサール、他である。日本では、鈴木大拙即非の論理として、結実したのである。
 とまれ、陰意識は、共同体的伝統においては、宗教や習慣や儀礼によって、代理的に形成されてきたのであるが、近代における共同体コードの破壊によって、これが喪失されたというのは、見やすいことである。(日本において、toxandoria氏も神仏分離の「野蛮性」を述べていられるが、近代において、仏教が阻害されて、日本人の自己認識に「故障」・障害が生じたと言えるのではないだろうか。)
 近代とは、既述したように、本来、差異発動・力動・実現等の時代なのであり、近代初期において、ルネサンスや諸哲学が創造されたのである。ルネサンスの問題は置くと、差異の哲学として、デカルト哲学、スピノザ哲学、等が創造されたのである。デカルト哲学は、ほぼ誤解されて、その差異性を無視されている。コギトは、差異である。だから、デカルトには、陰意識があったのである。しかるに、その合理主義は、陽意識の合理主義へと傾斜したように思えるのである。デカルト哲学の革命性と不十分さを確認しないといけない。
 そして、この不十分さを補ったのが、スピノザであると考えられる。スピノザの能動的観念とは、正に、陰意識の合理的取り込みであると考えられるのである。だから、先にも触れたが、デカルトスピノザ哲学というようにセットで考えて、差異哲学の形成を見るべきであると考えられるのである。
 では、陰意識・−エネルゲイアとは何だろうか。それは、精神・倫理・道徳の問題である。能天気な陽意識にひびを入らせるもので、自己覚醒作用があるのである。差異の発動である。他者からのエネルゲイアの発動なのである。おそらく、これは、本来、自己認識はできないはずである。他者である(-i)は、いわば、物自体であり、完全認識不可能であろう。しかし、その−エネルゲイアは感得できるはずである。これは、感情知覚の問題である。これは、陽意識のもつ明晰な合理性とは異なる、いわば、不明晰な合理性の問題であろう。そう、デカルトは、この不明晰な合理性を排除してしまったと言えるだろう。そして、スピノザが、この不明晰な合理性を能動的観念の手法で自己認識に取り込んだと考えられるのである。この他者の陰意識の取り込みとは、積極的共感的知性の形成であると考えられるのである。つまり、スピノザ哲学において、共感性が生起しているのである。換言すると、スピノザ哲学に、即非の認識論が生起していると考えられるのである。自己と他者との即非の認識哲学である。何故ならば、陽意識的合理主義は、他者を排除してしまうからであり、陰意識的合理主義によって、自己と他者との差異・分離を肯定した上で、新たに、陽意識的合理主義が形成されて、差異的同一性認識【i*(-i)⇒+1】が実現すると考えられるからである。
 ということで、差異哲学は、西洋においては、デカルトスピノザ哲学において、既に形成されていたと言えるのである。その後、西洋哲学は、混乱して、カントで差異の確認があり、キルケゴールニーチェで差異が強調され、そして、フッサール現象学デカルトスピノザ哲学が継承的に進展したと言えるだろう。その後、いわゆる、生の哲学ベルクソン)や実存主義ハイデガーサルトル)で、連続化し、反動化するのである。そして、構造主義は、カント哲学の再確認であるし、ポスト・モダン、ポスト構造主義は、差異哲学の現代的復興を目指したが、それ以前の反動化の側面を帯びていて、不十分なものであったのであり、不連続的差異論/プラトニック・シナジー理論が、連続化・反動化を乗り越えて、差異哲学を創造的に発展させつつあるのである(スーパー・ポスト・モダン理論)。これは、東西文明の超克であり、文理統合的理論の創造を意味すると考えられるのである。
 さて、最後に簡単に触れると、陰意識は、不明晰な合理主義は、共感的感情・精神的感情に関係するのであり、また、心身性無いし身体性に関係するのである。この心身性・身体性について、新たに考察して行きたい。