光認識は、何故優位になったのか:「左脳」が何故、「右脳」より優位

光認識は、何故優位になったのか:「左脳」が何故、「右脳」より優位になったのか:精神・光と身体・闇


テーマ:プラトニック・シナジー理論


本件は、以前からの難問(アポリア)である。簡単に述べると、外界認識の必要から、光認識が闇認識(身体認識)よりも優位になったとは、常識的に考えられるだろう。しかし、狩猟採集の時代では、人間は、メディア・現象空間に生存していたと考えられる。つまり、差異共振界と同一性現象界との融合の内に生活していたと考えられるのである。前者がコスモスであり、後者が感覚界である。つまり、精神と感覚が融合していた生活空間に生きていたと考えられるのである。
 その後、近代主義により、両者は分離して、物質や近代合理主義が生まれる。簡単に言えば、内界を隠蔽した、外界優位・中心の認識の世界となったのである。近代が確かに分水嶺であるが、それまで、内界は、例えば、芸術では、アレゴリーとして、視覚化されていた。抽象観念の視覚的具象化としてアレゴリーである。だから、内界と外界との結合文化があったのである。しかし、近代は、外界から内界を規定するのである。つまり、外界視覚的観念・表象から、合理性を確立したのである。簡単に言えば、唯物論である。(唯名論ともだいたい言えるだろう。)
 この傾斜の力学は何なのか、ということである。自己認識は、本来、内界と外界の接点の認識であるが、(近代的)自我認識は、内界を無意識にした、外界中心の認識である。
 先の考察では、光認識は、必然的に、闇認識を覆ってしまい、盲になると言った。この光認識とは、自己投影認識である。つまり、i*-(-i)⇒−1である。光⇒闇である。そして、-(i)*(-i)⇒−1の場合もある。これは、他者の同一性の場合である。つまり、自己を否定して、他者に同一化する場合である。これが、信仰ではないだろうか。中世という時代は、-iが中心になった時代であったのだろう。そして、自己iが否定されて-(i)となったのだろう。逆に、近代は、自己iが肯定されたのである。そして、それが行き過ぎて、他者-iを否定して、-(-i)となったと考えられるのである。
 そのように見ると、二つの自然があるだろう。-iとiである。これは、二つの光と言ってもいいだろう。あるいは、-iが闇で、iが光と呼んでもいい。近代は、i→(-i)の光であり、中世は、-i→iの闇であろう。中世人は闇を見ていたのであり、近代人は、光を見ていたのである。しかし、どちらも、一面的、半面的、偏頗である。光と闇との対極 i*(-i)⇒+1に真如があるのであるから。+1を真如光と呼ぼう。思うに、近代は、新たな差異の時代プロト・モダンであり、iの新たな発動の時代である。それが、自己投影に終っているのである。つまり、iの光は、-iの闇を受け入れられない様相になっているのである。これは不思議である。-iを否定して、-(-i)となっているのである。そして、i*-(-i)が反差異・連続的同一性であり、数量化されて、物質となったのである。−1が物質を表象するのだろう。
 何故、iの光は、(-i)の闇を受け入れられないのか。何故、闇を否定するのか。これは、戦後日本の認識状況と似るだろう。戦前の闇を否定して、戦後近代の光を肯定したのである。戦前の闇は、確かに、-i中心と言っていいだろう。つまり、-iとは、天皇あるいは国体である。-i中心主義も誤りなら、i中心主義も誤りである。偏頗・錯誤である。先に述べたように、i→(-i)という光認識(光志向性)は、iの同一性を投影するということであるが、それは押しつけ・強制である。厚かましさ、尊大、無礼、傲慢、等々ということである。これは、喩えて言えば、光の不器用さであろう。他者を他者自体・自身として認識できないからである。つまり、iの超越論的形式を-iに当てはめるのである(カント)。つまり、iが時空間形式(カント)であろう。近代において、主体は、iの光で、他者・対象を観測しているのである。他者-iの闇=「光」を受容できないのである。i*(-i)において、真如光(原光・玄光)があるのに、単なる自己の光を投影しているに過ぎないのである。これは、自己満足であり、他者破壊である。
 では、主体iが他者-i を受容するには、どうしたらいいのだろうか。一つの有力な方法がスピノザの能動的観念の形成である。つまり、他者-iを肯定して、+(-i)とする方法である。簡単に言えば、他者の言葉を傾聴し、それを積極的に理解するということである。(これは、連詩の方法ととても似ているのである。)つまり、差異共振シナジー的合理的態度ということである。
 しかし、現代の問題は、唯物科学・技術・産業の超肥大化である。つまり、i中心主義である。i中心合理主義(近代合理主義)である。i中心主義とは、- iの否定であるが、主体においては、これは、内界・身体・身心の否定である。プロト・モダンとしての近代は、iと-iの両面が、本来、賦活・活性化された時代である。それが、i中心主義にされてしまったのである。
 私の直観を言えば、-iとは実は、女性的な要素があるのである。父権主義の強固な西洋文化において、これは受容できないものであろう。つまり、共感性ということである。つまり、身体情的な側面があるのである。そう、-iとは主体においては、身体情となるだろう。これが、iの光の合理主義にとっては、不愉快なのである。それで、どうも疎外したように思えるのである。デカルト合理主義である。そして、スピノザがこれを掬ったのである。-iの身体情を包摂した能動的観念・能動的合理性をスピノザの『エチカ』は説いているのである。これで、コギト哲学は完成して、真如光が生まれるのである。
 以上で、-iは、女性的な要素があり、共感性であると言ったが、正確に言い直すと、共感性とは、i*(-i)の*が共感性であろう。そして、これが、女性的要素である。ならば、-iとは、実際何なのかということになるだろう。それは、わかりやすく言えば、身体であろう。iが精神ならば、-iは身体であろう。おそらく、精神のiは、身体の-iを認めるのが難しいのである。何故ならば、端的に、身体は、他者であるからである。この点では、プラトンでさえ、身体の情念を黒い馬として排除していると考えられるのである。とまれ、簡単に記せば、精神*身体である。あるいは、光*闇である。有り体に言えば、人間とは、二重人格なのである、少なくとも。身体や闇を多重・多元性と見ると、多重人格である。明確に言えば、対極的人格である。プラトンを出したので、プラトンの場合を考えると、霊魂、魂が主体となっているのであるから、単に精神ではないのである。思うに、*が霊魂、魂ではないだろうか。つまり、即非性が霊魂・魂ではないだろうか。即ち、零度差異共振シナジーである。
 とまれ、先の問題、身体として-iの問題に返ると、何故、精神は、身体を身体自体として認識できずに、身体を精神の同一性で捉えようとするのか、である。つまり、精神の論理で身体を捉えようとするのである。しかし、当然、身体の論理があるのである。精神の論理と身体の論理の齟齬(差異)があるのであるが、主体は精神の論理を身体に適用するのである。精神同一性を身体差異に適用するのである。当然、身体は把捉できないのである。換言すると、精神と身体とは、それぞれ、不連続的差異であり、同一化することはありえないのである。この差異の共立・共振に自然の妙があるのだと思う。即ち、即非論理である。これが、自然の根源的論理であると考えられる。これがなければ、自然は成立しないだろう。不連続的差異の、言わば、無機質な共立だけであり、いわば、ニルヴァーナ(涅槃)の様態である(私はこれが、イデア界ではないかと思う。これから、1/4回転で、メディア界・メディア空間・差異共振シナジー空間が生起するのだと思う。原生命の様相である。)。
 零度共振によって、精神と身体が共振・即非共生しているのである。この零度共振が、魂・霊魂・聖霊であろう。そして、これが、共感性として発現しているのである。つまり、精神が身体を把捉するには、零度共振様態にならなくてはならないということと考えられるのである。iをゼロ度にしなくてはならないのである。ゼロ度のとき、精神は、身体を認識することができるのである。そして、ゼロ度を生成するには、瞑想が有力な方法である。つまり、iの自己投影である、反差異的同一性化を瞑想によって回避できると考えられるのである。瞑想によって、精神のiは、身体の-iと共振するようになると考えられるのである。数式化すれば、i*-(-i)である、反差異・連続的同一性化から、i*(-i)の差異共振シナジー化が発現すると考えられるのである。つまり、-(- i)という反差異性を、瞑想によって、-{-(-i)}という差異性に変更するのだと考えられる。これは、換言すると、i→(-i)という反差異的同一性化に対して、i←(-i)という差異的同一性を加えて、均衡を取るということではないだろうか。つまり、i⇔(-i)である。精神⇔身体、光⇔闇である。 i→が陽エネルギー
=光ならば、i ←が陰エネルギー=闇であろう。精神は、光の方向ではなくて、闇の方向に向かうことで、他者である陰エネルギー、身体を受容することができるようになるのである。換言すると、光の反転によって、差異共振が発生するのである。この差異共振シナジーの叡知を、東洋は保持してきたが、西洋は、とりわけ、近代西洋は、破壊して、陽エネルギー、精神同一性中心主義になり、二元論化して、唯物科学を生んだと考えられるのである。また、近代の反動として、陰エネルギー中心主義である神秘主義やオカルト主義が発生したと考えられるのである。
 結局、本件の問題の解答とは、イタリア・ルネサンスにおいて、新たな差異、差異共振の発動があったと考えられる。i*(-i)が活性化し、現象界がダイナミック化したのである。それは、陽エネルギーと同時に陰エネルギーの賦活である。しかし、前者だけだと、他者、身体を否定するようになるのである。イタリア・ルネサンスは、両者の発動があったと考えられる。しかし、ヨーロッパは、キリスト教化されているので、陰エネルギーを十全には、認めることができなったと考えられるのである。わかりやすく言えば、父権的宗教であるキリスト教は、陰エネルギー肯定による母権化を肯定することができないのである。だから、陰エネルギーを否定する意味で、宗教改革が起こったと言えるのである。ルネサンスへの反動である。そして、デカルト哲学が正にこの矛盾を体現していると考えられるのである。コギト哲学は、ルネサンス哲学である。差異の哲学であるが、その合理主義は、陽エネルギー中心主義で、近代合理主義を方向づけるものとなったのである。そして、何度も既述したが、スピノザが、デカルト哲学を補完して、コギト哲学を完成したと考えられるのである。つまり、スピノザは、陰エネルギーを能動的に包摂して、陰陽エネルギーの統合知性を形成したと考えられるのである。結局、南欧、地中海文化から発した差異の賦活は、西欧キリスト教文化によって、歪曲化されて、途轍も無い偏頗な合理主義を形成することになったのである。父権主義イデオロギー、父権暴力によって、捩れているのである。これが、現代の不幸の根因であると考えられるのである。
 さて、最後に敷延して考えてみよう。近代科学は、陽エネルギーを観測していると考えられるが、陰エネルギーを無視しているだろう。前者を光エネルギー、後者を闇エネルギーとも呼べよう。現代物理学で問題になっているダークエネルギーであるが、それは、後者のことであると同時に、更には、差異共振シナジー・エネルギー、即ち、原エネルギーをも示唆しているのではないだろうか。そう考えると、ダークエネルギーの方が量的に大きいということの説明になるのではないだろうか。
 プラトニック・シナジー理論による物理学革命は近い。


p.s. もし、精神がiならば、それは、死んだときは、-iの身体から解放されて、iの世界に回帰・回向するだろう。i の世界とは何処なのだろうか。あるいは、-iの世界とは。メディア界は零度差異共振するので、生命を賦活されることになるのだ。そう、考えられるのは、i や-iの世界とは死の世界、冥界である。しかし、iの世界は光の冥界(天国・浄土)であり、-iの世界は、闇の冥界(地獄?)であるのだろうか。とりあえず、iの世界を天界、-iの世界を地界と呼ぼう。否、明確にするために、天霊界と地霊界と呼ぼう。天霊であるiと地霊である-iとのゼロ度連結して、人霊、生命霊となるのだろう。
 ここで、推測だが、男性は、iで、女性は、-iではないだろうか。私は、ジェンダーとは異文化であると考えている。男性と女性は、互いに異星人ではないかと思うのである。この点では、D.H.ロレンスが天才的な理解をもっていたと考えられるのである。