光認識は、何故優位になったのか:4:陽光界と陰闇界と相補性

光認識は、何故優位になったのか:4:陽光界と陰闇界と相補性


テーマ:プラトニック・シナジー理論


本件の問題は、用語の問題がある。iを陽・光、-iを陰・闇とし、i*(-i)⇒+1を真如光と考えるが、前者の光と真如光とが混同されるきらいがあるのである。私の語彙不足かもしれないが、より明晰に命名する必要がある。例えば、伝統的な、日と月とした方が明快かもしれない。そして、真如光を、超光と呼んでみる。そう、差異共振シナジー的超越界では、「光」は無限速度であると考えられよう。だから、超光と呼ぶのは、不適切ではない。ならば、やはり、iを陽・光、-iを陰・闇と呼ぶのも、不適切ではない。だから、ここでは、思考実験過程として、そのように用語を使用したい。即ち、

i=陽光

  • i=陰闇

i*(-i)=超光

とする。
 
 現象界の光は、本来は、超光であるが、iの視点で観測していることになろう。iの視点とは、同一性の視点である。カントの超越論的形式である。一つの1/4回転ではないだろうか。言い換えると、本来、主体は、超光を認識すべきであるが、iの視点から、陽光と陽光による現象を見ていることになるのである。そして、-iの陰闇を否定・排除・隠蔽するのである。
 このi中心主義は、iの陽光中心主義は、父権的一神教主義と言えるだろう。だから、発生的に言えば、超光を認識する文化社会があったはずである。つまり、陽光と陰闇の両極を感知していた文化社会である。これは、前史や太古や東洋文明の文化社会であろう。
 どうも、「見る」を、二つに分ける必要があるようだ。外的に見ると内的に見るの二種類の見るがあると思えるのである。簡単に、外観と内観に分けよう。だから、陽光中心主義以前は、外観と内観の二つの観によって世界・現象を見ていたのである。そして、それが、陰陽的世界・宇宙観を形成したと考えられるのである。しかし、内観の「視力」は、外観の「視力」のようには、明晰ではないのである。言わば、直感・直観・本能的認識ないし全体的認識である。そう、ホログラム的な認識であろう。
 否、そうだろうか。内観とは、実は、超光の認識の一種ではないのか。内観でも、陰闇は、基本的には、捉えられないのではないだろうか。思うに、陰闇とは、不可知であると言うべきではないのか。超光は、漠然と内観で捉えることが出来るだろう。カントの実践理性は、内観や超光に関すると言えるだろう。しかし、内観でも不可知の陰闇の領域があると考えられるのである。(おそらく、ダークマターダークエネルギーはこの領域に関係しているのではないだろうか。)D.H.ロレンスが言った「黒い太陽」、「知られざる神」unknown God、「暗い神」dark Godと呼んだものは、超光ではなくて、-iの領域ではないだろうか。普通の神秘主義は、思うに、超光を、いわば、裏返しに捉えているに過ぎないだろうが、陰闇を捉えていないのではないだろうか。言い換えると、陽光宇宙と陰闇宇宙の二つの宇宙があるのであり、それらが、ゼロ度で共振融合することで、超光の宇宙が創造されるのではないだろうか。これが、華厳経浄土教の宇宙ではないだろうか。毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)とは、これであろう。さらに言うと、プラトンの『国家』の善のイデアの比喩としての洞窟外の太陽であるが、それも、超光であろう。すると、プラトンも、陰闇を捉えていないのではないだろうか。無という思想も、陰闇を捉えていないと思う。それは、超光の裏返しであると考えられるからである。ゾロアスター教の光も同様であろう。そう、ここで、想起するのは、メルヴィルが、『白鯨』において、「パラノイア」のエイハブ船長が、世界の果てがボール紙のようなものであってもかまわないから、その極限を知りたいと述べていたことである。あるいは、ニーチェニヒリズムである。それらは、思うに、超光の彼岸、陰闇への探究ではなかったのか。ここで、明快するために、陰闇界と呼びたい。つまり、陽光界と陰闇界があるのであり、両界のゼロ度の共振によって、超光界というコスモスが誕生すると考えられることになるのである。そう、私が先に、虚無が光の現象界を包んでいると言ったことも、これに関係するのではないだろうか。つまり、「虚無」とは、陰闇界を示唆するのではないだろうか。私は、差異共振シナジーが、「虚無」となったと述べたのである。あるいは、私が、虚無であると述べたのである。おそらく、「虚無」とは、陰闇界を示唆・暗示しているのである。それ自体は、陰闇界自体ではないと考えられる。
 そう、超光界、真如光の彼岸に、陰闇界があるのである。おそらく、これが、反世界、反物質ダークマターダークエネルギー等々に関係するのではいだろうか。
 とまれ、この根源的二元論によって、コスモスが誕生し、光と闇の差異共振シナジー態である人間が誕生するのである。そして、人間は、本来、三種類の認識をもっていただろう。即ち、陽光認識と陰闇認識と超光認識である。しかし、陰闇認識が一番、不明快・不明晰なものであったろう。しかし、人間の内界的直観認識は、陰闇認識と超光認識を捉えていただろう。それが、内観認識であり、そして、外観認識は、基本的には、陽光認識であるが、超光認識を内包しているだろう。つまり、二つの交叉する円を考えて、一つの円を陰闇認識、一つの円を陽光認識、そして、交じる領域を超光認識とすればいいだろう。
 では、本件の問題に返ると、換言すると、どうして、陰闇認識、超光認識を喪失して、陽光認識だけになったのか、ということである。本来、正に、太極界があり、陰闇界と陽光界が拮抗して、超光界が成立していたと考えられるのである。(易経とは、超科学である。)そう、太極界であるが、零度共振する以前が、デュナミスであり、零度共振シナジー様相がエネルゲイアであろう。(空海真言密教両界曼荼羅とは、思うに、太極界をそれなりに捉えようとしたものではないのか。金剛界曼荼羅がデュナミスであり、胎蔵界曼荼羅エネルゲイアであろう。また、古事記の三柱の神であるが、天之御中主神が、超光界であり、高皇産霊神、神産霊神は、それぞれ、陰闇界と陽光界ではないのか。後で検討。)
 神話や宗教や民間伝承・フォークロアは、この三種の認識に触れているように思われるのである。とまれ、どうして、陽光認識ないし外観・外界認識に傾斜したのか。
 眼、視覚の問題である。ここで、補足的に言うと、陰闇界が、身体界であり、陽光界が精神界であろう。そして、超光界が、心身界あるいは、神界であろう。だから、陽光界を精神界と呼ぶのは、問題がある。陽光界は、知性界であろう(カント、ヘーゲルなら悟性界であろう)。だから、超光界を精神界と呼ぶ方がいいだろう。陽光界は、現象界であり、ほぼ物質界と呼んでいいだろう。すると、

陰闇界⇒身体界

陽光界⇒知性界

超光界⇒精神界(心身界・霊魂界)

となるだろう。思うに、アニミズムシャーマニズム多神教は、陰闇界・身体界の観念だろう。そして、一神教は、それを排除して、超光界と陽光界の観念を形成したのだろう。陰闇界の排除・隠蔽があるのである。この否定された陰闇界が悪魔、魔女、妖精、精霊、等々と呼ばれたのだろう。(トールキンのファンタジーは、この陰闇界の存在を表象しているのではないだろうか。)
 というように発生的に見ると、一種の流れがあることに気づくだろう。(これを進化と呼ぶかどうかはおいておこう。)とにかく、超光的存在は、「神」であり、人間も本来「神」的である。このことが、諸宗教や諸神秘思想で述べられているだろう。ユダヤ神秘思想のアダム・カドモン(カダモン)は、超光界の神=原人の表現であると考えられるだろう。そう、最古の文学と呼ばれる『ギルガメシュ叙事詩』(紀元前1200年前頃?)に出て来る英雄ギルガメシュは、半神半人である。神の子・イエスとは、正に、神人を意味しよう。そして、人間とは、陰闇界と陽光界を両面を内包結合した、きわめて、多様不思議な存在である。陰闇であり、陽光であり、超光であるのであるから。例えば、妖精性があったり、天使性があったり、科学性があったりするのだから。
 結局のところ、超光界・精神界・神人界から、陽光界・知性界・現象界へと人類、とりわけ、西洋文明人類は、傾斜したと考えられよう。内観から外観へと傾斜したのである。超光から、現象光へと傾斜したのである。(思うに、アインシュタイン相対性理論は、現象光が本来、超光であること意味しているのだろう。E=mc^2のエネルギーとは、超光のエネルゲイアを物質化ないし数値化したものだろう。ここで、超光と現象光を区別しないといけない。あるいは、超光と量子を絶対的に区別しないといけない。量子は、メディア界と現象界との境界領域事象であると考えられるのであるから。)
 これをどう考えるのか。発生論的に考えていいのか。発生論的に考えるときわめて簡単である。つまり、原宇宙の太極力学があり、陰陽結合において、陰へ傾斜したり、陽へと傾斜したりすると考えられるからである。つまり、西洋文明人類は、太極力学(易経力学)によって陽へと傾斜した力学・ダイナミクスをもつ文化民族であったと言えることになる。これが、一番、平明な簡単な説明である。私は、以前からこの太極力学を考えているのではあるのだが。そう、結局、 i*(-i)とは、太極力学を意味しているのである。つまり、易経力学である。そうならば、発生論的人類史は成立するのである。つまり、陰闇界(陰極)と陽光界(陽極)の差異共振(即非)によって、超光界・太極界が創造される。精神界・神界・神人界である。しかし、易の力学は、おそらく、捩れて、螺旋的に、回転して、例えば、陰から陽へ、陽から陰へと回帰するのである。そして、陽光界への傾斜、西洋文明への傾斜とは、陰から陽への力学に拠ると言えるだろう。つまり、陽エネルギーの発動である。それに対して、太極界はバランス・均衡を取る為に、陰エネルギーを発動させるのである。ポスト・モダン運動とは、この陰エネルギーの発動と考えられるだろう。つまり、ポスト・西洋文明の運動なのである。
 ここで、1/4回転を考えるのだが、最初の1/4回転は、零度を形成する。つまり、超光界を形成する。そして、二番目の1/4回転i^2は、−1となる。これが、西欧近代主義である。そして、三番目の1/4回転では、i^3で、-iとなる。これが、ポスト・モダンではないのか。そして、四番目の回転 i^4では、+1となり、これが、原初への螺旋的回帰ではないのか。おそらく、これは、一種ニルヴァーナ(涅槃)ではないのか。
 この考えを思考実験的に敷延すると占星術的宇宙史観の説明になるのではないだろうか。プラトン年は、432×60=25920年である。これを一回転とすると、1/4回転は、6480年である。とまれ、12等分すると、2160年である。これが、一星座文化期である。そして、今や、-iに近づいているということだろうか。そうすると、起源は、蠍座になるのである。ゼロ度は、獅子座と水瓶座になるのである。根源的イデア界をZ軸にすると、六次元となるだろうし、原点を入れると七次元となるだろう。
 とまれ、妥当な線では、最初に+1と−1の太極があったのではないだろうか。それが、1/4回転して、陰陽対極性・超光界が形成されたのではないのか。+1が陽光界であり、−1が陰闇界となるだろう。それが、零度共振シナジー化して、i*(-i)の超光界を形成するのである。このとき、エネルゲイアの対極性が形成されるのである。ならば、±1がデュナミスであり、±iないしi*(-i)がエネルゲイアである。しかし、1/4回転の力学は、エネルゲイアとは異なる力学であろう。それは、デュナミスの力学ではないのか。「静力学」ではないのか。そして、エネルゲイアが「動力学」ではないのか。この点は、後で検討したい。
 −1を陰闇界、+1を陽光界としたのだから、+iと-iの世界を別に呼ぶ必要があるだろう。ここで、用語を変更したい。−1を原闇(元闇)界、+1を原光(元光)界、+iを陽光界、-iを陰闇界と呼びたい。そして、i*(-i)は、やはり、超光界ないし陰陽界である。問題は、太極性である。二つの太極性があることになる。しかし、±1を太極界、i*(-i)を超光界・陰陽界と呼び分けた方がいいだろう。±1は加法になるのではないのか。+1+(−1)=0ではないのか。ならば、1#(−1)を太極界としようか。
 そうすると、ガウス平面がイデア空間(イデア界)となる。そして、ガウス平面=イデア空間に垂直に直交する形で、現象空間が形成されるのではないのか。イデア空間=メディア空間である。そして、虚軸とZ軸の形成する現象空間とは、虚軸において、イデア空間=メディア空間と交差していることになるだろう。だから、内在超越性があるのである。
 今は、ここで留めたい。


p.s. 占星術的宇宙史観であるが、一回転をプラトン年としたが、そうではなく、1/4回転を一星座文化期と見ることもできるのではないだろうか。つまり、1/4回転=2160年である。すると、一回転が、2160年×4=8640年である。そして、三回転で、8640年×3回転=25920年(プラトン年)となる。つまり、三回転で、大回帰するということだろう。(これが、三つの輪の意味なのだろうか。あるいは、三つ巴の意味? )

 そうならば、一回転は、小回帰であろう。