光認識は、何故優位になったのか:3:陽光と陰光の出会いが真如光を

光認識は、何故優位になったのか:3:陽光と陰光の出会いが真如光を生んだ:二つの闇の均衡としての光


テーマ:プラトニック・シナジー理論


本件の問題は、以前に、なぜ、近代的自我が発したのかという問題と本質的には、共通であるアポリアである。なぜ、光認識に傾斜しているのか、ということである。あるいは、視覚的認識に傾斜しているのか、である。しかし、闇認識・身体認識とは、単に聴覚的認識というわけではない。平たく言えば、みぞおち辺りで直感する認識である。私が、なにかおかしいと感じるところがここである。たとえば、人の話を聴いていても、このみぞおち意識は持続していて、いわば、本能的に反応するのである。まぁ、そういうものとしての闇認識・身体認識である。そう、直感・本能的認識である。
 さて、本件に関して、検討を続けよう。私は、先に、二つの光があると行った。現象の光と闇の光である。肉眼で見るのは、当然、前者であるが、後者は、わかりやすく言えば、夢を見ているときの光と考えればいいだろう。それは、現象光ではありえないだろう。また、私がいうヴィジョンというときの光は、やはり、この光だと思われるのである。すると、イデアのヴィジョンの光も、これになることになるだろう。たとえば、小説を読んでいて、作品世界をイマジネーションでヴィジョン化するが、そのヴィジョンの光も、これになるように思えるのである。真如の視覚とは、両者の交差にあるのではないだろうか。闇の光と現象の光とを交差させた視覚空間にそれがあるのではないだろうか。私が、何かを見るときは、この行為を行っている。自然を見るとき、絵画を見るとき、人を見るとき、そして、さらには、音楽を聴くときも、同質の知覚行為を行っているように思うのである。内覚と外覚との交差感覚である。
 私が、今日のような晴れた日の光に感ずるものは、当然、現象の光であると同時に、闇の光の混じりであるように思うのである。
 とまれ、近代は、闇の光を抑圧していると考えられるのである。外的な光とは、=+1の光だと思うのである。それに対して、陰陽の光とは、⇒+1の光だと思うのである。つまり、前者は単に同一性の光であり、後者は差異的同一性の光である。それに対して、自己の光がiであり、他者の光が-iではないだろうか。−1は、反差異・連続的同一性のことであろう。
 用語的に錯雑化しているので、整理すると、零度差異共振シナジー様相が発する光は、原光・玄光・真如光である。それに対して、構成要素的光があるということである。iの光であり、-iの光である。陽光と陰光としよう。陽光*陰光⇒真如光である。そして、近代主義は、真如光を陽光のみで見て、陰光を否定しているのである。つまり、陽光中心主義で、真如光を見て、真実在を歪めているのである。陽光の同一性で見ているのである。これが、物質形式を作ったのである。もし、真如光を把捉していたならば、物質ではなくて、陽光*陰光、即ち、i*(-i)の真如光である「生命」である「魂」・「霊魂」を捉えていただろう。だから、科学は、「魂」・「霊魂」の科学となったであろう。iの同一性、即ち、iの反差異・連続的同一性を数量化して、物質形式を作り、唯物科学を生んだのである。結局、+1が、−1になっているのである。陽光科学である。+1が真如光であるから、−1は、裏返しと言えるだろう。つまり、光の背中を見ているのである。ここで、D. H. ロレンスの「われわれは、本当の光の背中を見ているに過ぎない」とういうような言を理解できるだろう。唯物科学は、近代科学は、真如光の背中を見ているに過ぎないのである。正に、影・陰・翳を見ているに過ぎないのであると言えよう。
 さて、以上のように整理したので、再び本件の検討を続けよう。陽光*陰光⇒真如光の図式を使用すると、近代主義は、陽光中心で、陰光を否定・排除・隠蔽して、真如光を反転させていると考えられるのである。では、なぜ、陰光を否定したのか。無化したのか。これが最大のポイントである。デカルトは、明晰で判明な観念を追求したとき、明らかに、陰光を否定・排除したと考えられるのである。なぜなら、陰光とは、身体情・感情に関係するからである。情動と言ってもいいだろう。あるいは、力動と言ってもいいだろう。そう、端的に言えば、エネルゲイアと関係するのである。ドゥルーズの用語では、強度であろう。では、陽光には、強度はないのかということになるだろう。
 ここで少し角度を変えて考えよう。身体情・感情・情動・力動・エネルゲイアであるが、これは、正確に言えば、陽光と陰光との交点・接点に発生するものだろう。つまり、真如光がもつものではないだろうか。単に陽光、単に陰光だけでは、デュナミスではないだろうか。両者が共振して、エネルゲイアとなるのではないだろうか。そうすると、陽光中心主義とは、真如光のエネルゲイアを、いわば、塞き止めていると言えるのではないだろうか。本来、発生しているエネルゲイアを陽光デュナミスは塞き止めていると思われるのである。つまり、反動である。陽光の反動である。自閉しているのである。だから、真如光のエネルゲイアに襲われることになるのである。反復強迫となるのだと考えられるのである。それで、陽光は、暴力・攻撃・凶暴・狂気的であると考えられるのである。これが、近代西欧の狂暴さの起源であると考えられるのだろう。陽光は、ジキル博士であり、塞き止められた真如光が、ハイド氏である。私は、先に、陰光の反動が暴力であると述べたが、というか、ずっと、そのように考えてきたが、そうではなくて、本来の真如光の反発が暴力・狂気であると考えられるのである。差異共振シナジーというエネルゲイアの反抗が暴力・狂気であると考えられるのである。
 では、問題の、なぜ、陽光は、陰光を否定・排除・隠蔽するのかである。これは、結局、意外に簡単の問いではなかったのか。灯台下暗しではなかったか。つまり、陰光は見えないから、自然に無化し排除するのではないのか。これは、実に単純である。陽光を見えるのであり、陰光は見えないのである。不可視の光なのである。闇の光なのである。そういうことではないのか。目に見えないものは、見えない、分からないということになるのだろう。見る、videoのvi は、知る、wissen, wise等と通じるのではないだろか。百聞は一見に如かず。I see.は、理解するである。見るは分かるであろう。味を見る。やって見る。こころみる。探ってみる。結局、人間の基本的認識構造が光認識構造となっているから、陽光認識に傾斜するということになるのである。つまり、陽光同一性認識に人間の認識構造が傾斜しているという自然の事実があるということである。だから、近代主義が出現したということになるのである。これは、人間であることによる必然であるということになるのである。だから、デカルトの合理主義は、必然なのである。ある意味で正直なのである。
 では、そうならば、この傾斜に対しての均衡的補償行為があるはずであり、それが、叡知であったと言えるだろう。たとえば、「無知の知」とはそのようなものだろう。簡単に言えば、陽光認識とは、自己中心主義、傲慢の認識なのであるから、自己盲目なのである。ギリシア悲劇はこの陽光認識の自己盲目の傲慢さを諭すものでもあるだろう。デルフォイアポロン神殿の「汝自身を知れ」とは、正に、叡知の言葉である。アポロン神殿、太陽神の神託であるから、なおのこと、意味深長である。そう、イカロスの墜落も、同様であろう。古代ギリシア人は、賢者なのである。人間は、いわば、光の洪水によって盲(めしい)になっているのである。目をつぶしたオイディプス王は、意味深長である。また、予言者テレイシアスも盲目である。瞑想の意味、mysticismの意味を人はかみしめないといけない。
 さて、最後にイデアは、どういう光なのか。最初は、陰光であると考えたが、そうではなくて、陰陽光であろう。太極光であろう。すると、ヴィジョンも太極光である。瞑想のヴィジョンもそうである。初めに、ヴィジョンありき。それは、陰陽光・真如光であった。そう、さらに展開すると、私が考える闇から生まれる光とは何であろうか。それは、陽光が陰光と出合った時に、「光」・真如光が生まれるということだろう。つまり、陽光単極だけでは、あるいは、陰光単極だけでは、闇なのである。二つの闇が出あって、光が生まれるということではないだろうか。ならば、陽光、陰光、ともに闇なのである。私は、これを、根源的闇と考えたい。零度差異共振シナジーエネルゲイアにおいて、真如光が生まれるのである。キリスト教の無からの創造も、このように考えられるだろうし、仏教の絶対無もこの根源的闇と考えられるのだろう。つまり、原初、二つの闇ありき、である。それから、二つの闇が出会い、光を発するのである。光あれである。光は、奇蹟であるが、陽光という闇は光が見えないのである。また、陰光という闇も光が見えないのである。
  後で再検討したい。


p.s. 二つの闇と言ったが、陽光は、やはり、一つの光であり、陰光は、闇であると見る方がいいだろう。真如光は、繰り返すが、陰陽光・太極光である。私が言う叡知光は、これである。(toxandoria氏の説くオランダの光もこれと共通するだろう。オランダも一つの東洋であると思う。)晴れた日の天に感ずる「光」は、単に陽光だけではなくて、真如光・太極光・叡知光であろう。コスモスの光である。大日如来もこれである。すると、キリストの光も本来、これであったろう。仏陀の光もキリストの光も共通である。正に、真如光・太極光・叡知光であろう。ゾロアスターの光もこれである。万教帰「光」である。


p.p.s. 光認識に認識が傾斜しているから、光認識が優位になったということになったが、では、何故、西欧近代にこれが集中したのか、という問いには答えていない。これは、やはり、何度も既述したが、ルネサンスという差異の発動が原動力であり、それが、西欧によって、陽同一性認識へと捩じ曲げらたからということになると思う。初めに、プロト・モダンありき、である。それは、差異共振シナジーの新たな発動なのである。