視覚と認識:近代初期の視覚認識の連続的同一性による近代合理主義の

視覚と認識:近代初期の視覚認識の連続的同一性による近代合理主義の発生


テーマ:プラトニック・シナジー理論


英語では、I see. は、当然ながら、「分かった」という意味である。しかし、基本は、「私は見る」である。見ると分かるとの共通性は何なのであろうか。
 以上は枕である。問題は、i*(-i)⇒+1とi*-(-i)⇒−1のことである。差異的同一性認識と反差異・連続的同一性認識のことである。
 ここでも、直観で検討しよう。差異的同一性認識とは、同一性個体に光と闇の二重性、対極性、即非性を見る認識である。具体的に言えば、眼前に、バナナがあるとしよう。このバナナは、確かに、バナナである。つまり、バナナという同一性である。しかし、このバナナは、特異性でもある。これ以外のいかなるバナナでもないのである。つまり、このバナナは、一般的同一性であると同時に、特異性である、ということである。つまり、このバナナは、バナナという一般的同一性ではないということになるのである。そう、光と闇という視点で言えば、一般的同一性としてのバナナは、光であり、特異性としてのバナナは闇であろう。
 ということから、反差異・連続的同一性個体としてのバナナとは、一般的同一性である。そして、これは、言語観念ないし言語観念形式であると言えよう。そのように考えると、言語観念形式が、マイナス・エネルギーをもっていると言えるのではないだろうか。つまり、他者である-iを否定して、-(-i)とすると考えられるように思うのである。そう、主体i自体の投影としてのマイナス・エネルギーではないだろうか。ここでも直観で言えば、主体と対象との一体化において、発話行為が為されて、対象-iが、反差異化されて-(-i)、iとなるのである。つまり、主体と対象(他者)との即非ではなく、一体関係において、発話・言語行為が為されて、対象(他者)が反差異・連続的同一性化されると考えられるのである。
 問題は、この一体化である。これは、いったい何か。思うに、これは、i*iの事態が、一体化ではないだろうか。本来-iであった他者がiとなり、主体i=「他者i」ということではないだろうか。
 では、この一体化をどう理論化するのか。これは、先に思考実験したことを参考にすれば、主体→他者を+エネルギーとして、主体が他者と一体化する志向性であるとしよう。つまり、主体中心の他者一体化である。それに対して、他者→主体を−エネルギーとして、他者中心の一体化する志向性であるとしよう。前者は、攻撃性であり、後者は被害者意識ではないだろうか。どちらも、−1となるのである。倒錯や妄想等である。ここにあるのは、分裂様相である。iであるか、それとも、-iであるかの乖離様態である。主体中心主義か、他者中心主義かであり、真正な自己認識はない。【ここで、想起するのは、ロレンスの「王冠」の哲学である。「父」と「子」との対極性があり、それを、「聖霊」が均衡させるのである。「父」が主体中心主義であり、「子」が他者中心主義であろう。そして、「聖霊」が、真正・正当な自己認識であろう。では、「聖霊」の作用の様態はどういうものか。簡単に言えば、即非様相である。主体は他者であり、また、他者は主体であり、且つ、主体は主体、他者は他者である、ということだろう。思うに、プラスとマイナスとの統一において、ゼロ度が生起するのではないだろうか。プラス+マイナス=ゼロではないだろうか。±エネルギーを相即させたときに、即非様態が生まれるのではないだろうか。そして、これが「聖霊」と考えられるのである。】
 以上のように考えてみると、言語行為は、主体中心の反差異・連続的同一性表現であり、言語形成によって、他者-iを連続的同一性化i化すると言えるのではないだろうか。つまり、すべて、主体的同一性iに変化させるのである。画一化である。
  では、このとき、視覚と認識はどういうことになるのだろうか。結局、差異的同一性の視覚-認識と反差異・連続的同一性の視覚-認識との二種類に分かれるのだろう。前者が自己の視覚-認識であり、後者が自我の視覚-認識である。前者がポスト・モダンの視覚―認識であり、後者が近代主義の視覚-認識である。
 ここで、何故、視覚と認識が結びつくのか、考えてみよう。それは、iが基本的に光的であるからであろう。他者-iは、基本的に闇であり、認識できないのである。あるいは、iを心、-iを身体と言ってもいいだろう。おそらく、-iは、触覚と言ってもいいだろう。だから、視覚と触覚となる。おそらく、視覚は触覚を恐れるのである。光は闇を恐れるのである。つまり、視覚認識は、他者を同一化して、他者を支配するように自我形成を行うのではないだろうか。正確に言えば、視覚認識は、他者に、自己投影するのである。自己映写であろう。他者に対して、自己映写するのである。つまり、i*iである。そして、他者-i を、無化するのである。問題は、他者-iの存在である。結局、他者-iは否定・排除・隠蔽されるが、潜在しているのである。そして、-iは、iを否定するのであるから、主体は否定されるのである。無意識の不安を喚起するだろう。そう、これが、反復強迫となるだろう。他者から否定が喚起されて、主体は、自我同一性を攻撃・暴力化するのではないだろうか。
 問題は、視覚認識が触覚認識を排除することである。おそらく、現象化とは、両認識の分化、あるいは、主体と他者との分化を意味するだろう。つまり、プラス・エネルギーとマイナス・エネルギーとの分化である。おそらく、i*(-i)である差異共振シナジーとは、エネルゲイアではなくて、デュナミスであり、現象化がエネルゲイア化である。+エネルギーと−エネルギーに分化して、現象界を形成されているのである。前者が思惟ないし心となり、後者が延長ないし身体となるのである。そして、前者は視覚認識を形成し、後者は身体的触覚認識を形成するのであるが、両者は、心身二元論的である。
 問題は、この心身二元論において、差異共振シナジー様相が排除されることである。二つのエネルギー分化は、それ以前の即非・対極デュナミスないしデュナミス・エネルギー(虚エネルギー?)を排除すると考えられる。つまり、視覚認識と触覚認識にとって、潜在する即非様相は、異質なのであり、否定対象となるのである。なぜなら、視覚認識と触覚認識は連続的同一性であり、即非様相とは、差異ないし差異共振相であるからである。二つの反差異・連続的同一性は、差異・差異共振シナジー様相を排除するのである。前者は、後者を理解できないのである。つまり、現象化は、二元論化であるとして、そのときの連続的同一性の認識にとって、メディア界の即非・対極性認識は異質なものである。それは、デリダの言う痕跡でであろう。あるいは、差延である。これは、連続的同一性認識にとて闇である。そう、連続的同一性認識は、現象界の認識であり、光の認識である。言語観念形式同一性認識である。
 問題は、どうして、近代において、徹底して痕跡・差延が排除されたのかである。西洋中世においては、差異共振性が神となり、信仰されていたと考えられる。しかし、これは、認識ではなくて、信仰である。しかし、中世の衰退とともに、教会の権威が喪失されて、差異共振性を喪失して、連続的同一性が強化されることになった。しかし、イタリア・ルネサンスが生まれる。これは、差異共振性の意識化と言えるだろう。ここには、世俗化と同時に異教の復興があったと考えられるのである。つまり、ポスト中世において、キリスト教的差異共振性の喪失と、異教的差異共振性の復興があったと考えられるのである。世俗化と異教的差異共振性の復興との並存があったと考えられる。個的差異の生起である。あるいは、剥き出しの《個》・差異の生起である。この原初の《個》・差異の様態において、デカルトは思索したと考えられる。端的に、コギト哲学の創造である。コギト(我思う)の「我」とは、連続的同一性=自我ではなくて、差異的同一性=自己である。しかるに、何度も述べたように、デカルトは、これを基盤にして、合理主義を形成するのである。つまり、差異的同一性=自己を基盤にして、連続的同一性である視覚認識を形成するのであるが、この視覚認識の連続的同一性の合理主義によって、基盤自体が否定・排除・隠蔽されるのである。いわば、捻られるようにして、原初の《個》・差異である差異的同一性=自己が、視覚認識の連続的同一性の合理主義に下に、「抑圧」されるのである。ここに作用しているのは、一種世俗化である。そして、これも繰り返しだが、スピノザが、この「抑圧」された《個》・差異の様態を、能動的観念の方法で掬いだすのである。即ち、視覚認識のi*-(-i)の-(-i)の最初の-をさらに否定して、-{-(-i)}⇒-iに変換するのである。これで、根源の《個》・差異が復帰するのである。
 ということで、結局、ポスト中世・近代初期(近世)において、キリスト教的差異共振性の崩壊によって、世俗化が生起して、また、ルネサンスの異教的《個》・差異が発動するなかで、後者に基づくコギト哲学と、連続的同一性である視覚認識に基づく、連続的同一性の合理主義が、デカルトによって構築されたのである。そして、連続的合理主義によって排除された異教的《個》・差異をスピノザが、能動的観念等の方法によって、掬いだしたと考えられるのである。結局、世俗的視覚認識への傾斜が、差異の排除をもたらしたことになるのである。