二元論的現象化と潜在的差異性:現象化の帰結として近代合理主義とト

二元論的現象化と潜在的差異性:現象化の帰結として近代合理主義とトランス・モダン化する現代


テーマ:プラトニック・シナジー理論


以下は、次の記事の後記を独立させたものです。「視覚と認識:近代初期の視覚認識の連続的同一性による近代合理主義の発生」
http://ameblo.jp/renshi/entry-10021286063.html
______________________________________

以上の説明は、不明瞭というか、少しやや混乱している。簡単にここで、整理すると、メディア界において、i*(-i)という差異共振シナジー事象があり、ここから、現象化が成されるのである。現象化とは、本来は、i*(-i)⇒+1である。つまり、差異的同一性の形成、これが、現象化である。人間においては、自己認識の形成である。しかるに、人間において、認識衝動が強い。これは、iの強烈なエネルギーと言えよう。そして、iとは、視覚・言語的差異認識衝動である。そして、-iとは、触覚・身体的差異認識衝動である。つまり、i*(-i)とは、《視覚・心・光・陽》*《触覚・身体・闇・陰》共振事象である。これが、現象化(差異⇒同一性)すると、前者は視覚的同一性、後者は触覚的同一性に転化して、二元論化が生起すると考えられる。しかしながら、現象化とは、本来は、差異的同一性化であるから、この二元論化においても、差異性が潜在しているのである。つまり、いわば、三元論として、現象化が生起するのである。言い換えると、顕在的二元論と潜在的一元(即非・対極)論の併存である。
 そして、ポスト中世・近代初期において、キリスト教的差異性が衰退して、新たな現象化(三元論)が生起するのである。そして、ここにおいて、デカルトがこれを新たに定式化したと言えよう。即ち、新たな潜在的一元論がコギト哲学に、新たな顕在的二元論がデカルト合理主義として確立されたと考えられるのである。しかし、デカルトは、この二つの哲学を統一することはできなかったのである。いわば、分裂のままであったのであり、これを受けて、スピノザが、両者を統一する哲学を打ち立てたと考えられるのである。先に述べたように、デカルトスピノザ哲学が、真のポスト中世/プロト・モダンの哲学である。
 しかし、近代主義は、スピノザ哲学を継承せずに、デカルト哲学の分裂のまま、二元論的合理主義を展開して、近代合理主義、近代科学・技術・産業、唯物科学・技術・産業を発達させたのである。結局、顕在的二元論において、視覚認識が、反差異・連続的同一性認識となり、これが、唯物論となり、また、触覚認識は、単に感覚となり、また、身体・肉体・物質体となったのである。思惟と延長の二元論である。
 結局、これまで、検討を重ねてきた近代的自我の反差異性であるが、それは、視覚認識の徹底の結果であると言えるだろう。現象化は、差異⇒同一性という方向性をもつのであり、近代的自我の反差異的同一性とは、この最終的帰結(終局態・エンテレケイア)であるということである。
 この現象化、顕在化の究極が、近代主義なのであり、潜在する差異(即非・対極性)が否定・排除・隠蔽されたのである。簡単に言えば、現象化・顕在化という事象のために、差異が否定されて、連続的同一性が発生したのであり、近代合理主義、唯物科学が誕生したのである。つまり、不連続的差異の1/4回転は、零度差異共振シナジー事象を発生させ(イデア/メディア空間)、そして、それが垂直に捩れて、現象顕在空間を発生させるのである。つまり、現象空間は、イデア/メディア空間を内在超越的に内包していることになる。現象空間は、二元論(心と身体、思惟と延長、時間と空間)であるが、それは、イデア/メディア空間という内在超越性を内包しているのである。ただし、現象空間においては、イデア/メディア空間は暗示・示唆されるだけであり明晰には認識できないと言えよう。ただ、理念的に仮説できるだけであろう。まさしく、イデア界・理念界なのである。
 ということで、近代的自我、近代合理主義は、現象化の徹底的帰結であるということになったのである。だから、ポスト・モダンとは、トランス・モダン、超越(内在超越)モダンである。第四次元への超克である。そして、それは、また、総体では五次元である。
 とまれ、垂直の捩れとしての現象界とは、Z軸である。X軸を実軸、Y軸を虚軸にすると、X軸が原イデア界、Y軸がメディア=イデア界(差異共振シナジー界)であり、Z軸が現象界である。時間軸ないし時間空間とはY軸・虚軸(第四次元)であると考えられる。(すると、XY平面がイデア・メディア平面であり、YZ平面がメディア・現象平面となるだろう。そして、XYZ立体が、イデア・メディア・現象立体であろう。)
 最後に、近代主義の問題である。これは、差異を必然的に隠蔽するのであるが、しかし、近代主義の源泉は差異なのであるから、差異への志向性自体(「郷愁」)があると言えよう。これは、否定できないだろう。現象界に存する人間は、「自分は何か」と大いに疑問を感じるのである。現象界自体には、答えはないのである。ただ、起源・源泉への「郷愁」があるのである。それを、宗教的に、神と呼んだり、神秘主義的に、超越的根源と考えたりするのである。自然唯物科学は、それを否定して、物質を究極な単位にしたのである。
 なぜ、「郷愁」が生じるのかと言えば、それは、源泉であるからである。源泉が内在超越的次元にあるとは言え、源泉はそれなりに漠然・暗然と感じられるからである。それを、これまで、様々な人間が探求してきたのである。ポスト・モダン運動はそれを目指しつつ、デリダを除いては、頓挫してしまった。そして、不連続的差異論/プラトニック・シナジー理論がこれを徹底的に理論化して整合化したのと考えられるのである。
 この差異への志向性を否定しているのが、近代主義、反動となった近代主義であり、これが、現代日本を占めていて、狂気・暴力・倒錯の社会を形成しているのである。現代は、世界的にトランス・モダンの様相へと転移している。政治・経済的には多極化である。日本は、近代主義、近代唯物科学を乗り越えて、トランス・モダンへとエクソダスする必要があるのである。