同一性認識による「他者」排除の問題:陰陽の分離的同一性と陰陽の即

同一性認識による「他者」排除の問題:陰陽の分離的同一性と陰陽の即非的差異


テーマ:自己認識方程式(i)*(-i)⇒+1関係


先に、i を視覚認識、-i を触覚認識とした。とまれ、i は、認識衝動である。そして、それは、他者である-i へと向うのだが、他者に自己投影して、他者を排除して、反差異的同一性認識をするのである。このとき言語が手段である。他者-i を、Aと呼ぶのであり、Aは、一般的形式・記号である。
 とまれ、主体i は、主体の反差異的同一性で、他者を隠蔽するのである。i=iである。私は私である。他者は私である。これは、ヘーゲルの理性であろう。問題は、i の衝動によって、-i を排除する。これは、能動的暴力である。そして、当然、-i の反作用・反動が発するだろう。これが、反感、嫌悪、憎悪、ルサンチマンだろう。
 これは、いい。問題は、-i の認識である。これは、i と同様に、主体へと向うはずであり、主体を否定するだろう。つまり、-iによって、主体を隠蔽するのである。つまり、-i=-i である。他者は他者である。思うに、これは、身体、肉体の成立ではないだろうか。すると、i の認識による心と-i の認識による身体の心身二元性が生起すると言えるのではないだろうか。そして、両者の連続的同一性(-1)の間において、相互否定のエネルギーが発生するのではないだろうか。iの同一性は、-i の他者を否定し、-i の同一性は、i の他者を否定すると考えられるのである。この相互同一性的否定のエネルギーが、反動エネルギーであり、具体的には、反感、嫌悪、憎悪、嫉妬、ルサンチマン等であろう。
 ここで注意すべき点は、単に主体が他者を否定するだけでなく、他者も主体を否定するということである。一般に前者だけが考えられているようだが、理論的には、後者も同様に存すると考えられる。心の暴力と身体の暴力の相克の暴力があると言えるだろう。イジメは、前者で説明がつくだろう。では、身体の暴力とは何か。それは、心を否定する暴力である。闇の暴力である。非合理主義の暴力である。神秘主義もこれかもしれない。
 とまれ、ここには、光の同一性認識の暴力があり、闇の同一性認識暴力があるのである。同一性知性の暴力と同一性反知性の暴力である。これは、前者がi* -(-i)⇒−1であり、後者が(-i)*(-i)⇒−1で、両者-1で共通である。光の闇と闇の闇があるのである。この用語では、混乱するので、−1を、魔と呼んでおこう。即ち、光の魔と闇の魔があるのである。そして、近代主義とは、この二つの魔に捉えられた人類史上もっとも恐ろしい世界観と言えるだろう。明らかに、精神分裂症である。そして、近代科学は、この世界観の思想である。
 二つの魔に隠されるようにして、差異即非があるのである。これは、デュナミスではないのか。とまれ、私が指摘したいのは、差異認識の有り様である。私は、先に、触覚にも視覚があるのではないのか、と示唆した。つまり、それは、-i の視覚ということになるだろう。直観では、これが、ヴィジョン、イデア的ヴィジョンの源泉ではないだろうか。瞑想によるイメージとは、ここから発するのではないだろうか。あるいは、夢の映像の源泉ではないのか。触覚のヴィジョン、身体のヴィジョンである。そして、この触覚・身体のヴィジョンと視覚のヴィジョンが結びついて、美(術)的ヴィジョンが生成するのではないだろうか。
 ここで、精緻に言おう。夢は、この触覚的ヴィジョンだろう。しかし、瞑想や内的直観は、身体的ヴィジョンと視覚的ヴィジョンの交差するヴィジョンではないだろうか。私が頻繁に言う直観、ヴィジョン、等とは、この交差的ヴィジョンではないだろうか。
 例えば、イマジネーションの豊かな小説を読んでいると、その場面に没入しているような臨場感をもつ。このイマジネーションは、やはり、交差的ヴィジョンではないだろうか。そう、小説を読むとき、単に、視覚的ヴィジョンでは、読めないだろう。何故なら、登場人物を活かすには、内的に活動させなくては、生きた人物にはならないからである。(後で、アニマについて考えたい。)視覚的ヴィジョンだけでは、観念像になり、登場人物に魂を鼓吹することができないだろう。身体の光、触覚の光がなくては、登場人物は生き来ないだろう。小説の言葉は単なる観念となり、生命造形性がないだろう。
 そうすると、やはり、身体の光、身体の視覚があるということになろう。そして、プラトンイデアとは、あるいは、善のイデアとは、身体の光と心の光の交差に生起する「形相」なのではないだろうか。すると、プラトンイデア論は、心に傾斜していると思えるのである。イデアは、心と身体との交差にあると考えられるからである。これは、明日野氏の用語では、天i と地-i との交差となるだろう。ただし、ここで身体と言っているのは、内的身体である。おそらく、これが、「霊魂」(アニマ)に近いのである。内的身体と視覚との交差するヴィジョンが想像力であろう。
 では、近代主義によって抑圧された差異を認識するには、どうしたらいいのだろうか。二つの連続的同一性の縛り・拘束を解除しないといけないだろう。心と身体は、それぞれ、強固に分離しているのである。相互排斥的に分離しているのである。マイナスにマイナスを、プラスにプラスを提起して、反発していると言えるだろう。
 解除方法は、簡単に言えば、スピノザの能動的観念の方法、フッサール現象学的還元(エポケー)の方法、そして、東洋的身体瞑想があるだろう。ここで、私なりに言うと、身体ないし触覚の視覚ないし意識を活性化させないといけないのである。身体意識、内的身体意識の覚醒である。これは、実は、危険なことではある。東洋身体論的に言えば、これは、チャクラの覚醒であろう。ここには、エネルギーがあるから、明確な知的認識をもたないとこのエネルギーに囚われて、悟達したと思うであろう。魔境である。(オウム真理教等の問題の一つはここにあるだろう。)明晰な知的認識をもたなくては、これは、危険である。闇の光に呑まれて、光の光がわからなくなるからである。そう、簡単に言えば、神秘主義の問題である。身体の闇に囚われるのである。そう、闇の光である。ロレンスの黒い太陽とはこのことなのか。しかし、確かに、闇の光、黒い太陽はあるのである。この黒い太陽と白い太陽を調和・均衡させる必要があるのである。これが、東洋的身体論の意味であろう。
 とまれ、トランス・モダン(超越・近代)として、内的身体の意識化が必要である。つまり、-i の認識を意識するということである。言わば、闇の認識である。これが、脱自我である。自我の解体である。道元の身心脱落である。これは、言わば、楕円的自己形成だろう。近代的自我は、心中心であるが、トランス・モダン的自己は、心と身体の二中心があると考えられるからである。換言すると、身体的人格を認めるということである。つまり、身体の他者性を認めることである。私は私であり、且つ、他者である。
 では、この力学は何か。これは、身体側からはできないだろう。何故なら、身体は、闇の様態にあるからである。光である視覚を身体へ、内的身体へと向けなくてはならない。これは、数式ではどういうことなのか。それは、i → -i ではないだろうか。否、i ⇔-i ではないだろうか。一種、卒啄同時である。単に、i の場合は、自己投影になり、他者を否定した。自己投影とは、視線を外界に向けること(外向)である。しかし、内的身体へ向けること(内向)は、視線を内界へ向けることである。光を闇に向けることである。自己投影は、光を光に向けることである。内的身体への測深は、光を闇に向けることである。そう、瞑想である。そして、光が闇に出会ったときに、真如の光が生まれるのである。即ち、i*(i)⇒+1である。私が、快晴の青空に見る光は、これではないだろうか。あるいは、かつて、夜の並木道の上部に感じた光は。そして、この真如光は、コスモスであろう。虚空間である。近代主義の実空間主義からは、認められない空間である。精神空間と言ってもいいかもしれないが、これは、心身一如の空間なのである。これは、神的空間でもある。ギリシア神話の神々は、この空間から生まれたのだろう。そして、これは、神道八百万の神々の空間でもあろう。そして、また、仏教空間、即ち、空の空間である。また、キリスト教神の国の空間であろう。万教帰一の空間であろう。そう、アッラーの空間でもあろう。
 思うに、光と闇、陽と陰との即非結合によって、真如光が生まれたということは、コスモスの生成であり、宇宙創造、天地創造を意味するだろう。そう、こう見ると、聖書の創世記の冒頭の水の上を霊の息吹が流れた、というような表現の意味がわかるだろう。水とは、陰のことであり、霊の息吹とは、陽のことであろう。陰と陽との結合が、天地創造であり、《光》=真如光の創造であろう。思うに、現象界には、この真如光が満たしているはずである。この真光を、普通の人は見ないのである。大日如来阿弥陀如来は、この光であるが。御来光もこれであるし、御水取りの《火》もこれであろうし、当然、ゾロアスター教の火もこれであろう。そう、天照の光もこれであろう。トルストイが言った光もこれであろう。キリストの光も本来、これであろう。
 では、単なる現象光とは何か。それは、i の光であろう。陽の同一性の光であろう。だからこそ、陽光に対して、陰闇が生起するのだろう。もう少し精緻に考えよう。差異共振シナジーである真如光が発生する。しかし、現象化とは、陰と陽との二元論的分離的同一性化である。つまり、陰が「物質」となり、陽が現象光となるのではないのか。つまり、i*iが現象光ではないのか。そして、(-i)*(-i)が「物質」となるのではないのか。(E=mc^2とは、このことではないのか。mは(-i)*(-i)であり、cがi*iではないのか。)つまり、現象界とは、−1の世界であるということであり、+1の世界とは、フッサールの生活世界であろう。つまり、差異共振シナジーを成就する現象界であろう。近代は、−1の徹底した世界であった。まったき闇であった。確かに、「げに恐ろしき」世界戦争が二度もあったのである。そして、現代、ポスト近代=トランス・モダンとして、+1の世界へ向かいつつあると言えよう。真如光の世界へ向いつつあるのである。(日本は、どす黒い闇にあるが。)何故か。
 現象化の力学に関係するだろう。つまり、現象化というエネルゲイアの発動に対して、脱現象化というエネルゲイアの反作用があるからではないだろうか。現象化が+エネルゲイアならば、脱現象化として、−エネルゲイアが作用するはずである。つまり、メディア空間のゼロ度のデュナミスと関係すると思うのである。ゼロ度のデュナミスから+エネルゲイアが発生する。そして、次に(同時に?)、−エネルゲイアが発生して、零度に回帰すると考えられるのである。この −エネルゲイアが、現代、ポスト近代=トランス・モダンではないだろうか。
 今は、ここで留めたい。