連続的同一性認識と差異共振認識:外界的他者連続的同一性と内界的他

連続的同一性認識と差異共振認識:外界的他者連続的同一性と内界的他者差異


テーマ:自己認識方程式(i)*(-i)⇒+1関係


私自身の認識の様相を考えると、明らかに、知的認識と心身的認識の相補性がある。前者を陽認識、後者を陰認識と呼ぼう。そう、おそらく、認識の両極があるのだろう。認識の陽極と陰極があり、陽極においては知性が、陰極においては直観・情動が作用すると思う。私が、ヴィジョンというのは、この両極の作用において生起する想像力である。そう、イメージと言う場合も、この両極において想起されるものである。共感性は、陰極の側にあるが、しかし、やはり、両極作用において見ないといけない。私は「愛」に懐疑的であるが、なぜなら、「愛」とは、実は実体がないからである。つまり、認識の両極性つまり、即非性における精神性であるから、相対的なのである。相対的にある精神性を、「愛」として実体化して呼ぶのは、真相に合わないだろう。とまれ、認識の両極・即非・相補性を、ここで確認しておこう。
 この観点から、連続的同一性認識、自我認識を見ると、それは、認識の両極性を喪失して、陽極に偏っているのと考えられるのである。自己認識方程式で言えば、i による連続的同一性認識しかないのである。真の認識は、i*(-i)⇒+1であり、i を陽認識、-i を陰認識とすれば、陽認識と陰認識との対極性において成立するものである。つまり、自己は、両極的な二重性をもたなくてはならないのである。つまり、自己両極性である。
 しかるに、連続的同一性認識・自我認識は、陽認識だけであり、陰認識を隠蔽しているのである。つまり、陽認識を光とし、陰認識を闇にしているのである。ここで、先の説明を活用すれば、主体が他者を認識するとき、二種類の位相がある。一つは外界的他者の認識の位相であり、一つは内界的他者の認識の位相である。前者は、陰陽結合の光において、反射・投影像を認識する位相であり、後者は、陰陽結合の光において、陰極を測深し認識する位相である。
 前者の反射・投影的認識は、i の自己反射であり、連続的同一性なのである。言い換えると、他者-i に主体i を投影しているのであり、他者-i を主体i 化するのである。これが、否定的連続的同一性化である。他者-i を否定して、主体的連続的同一性化するのである。ここで、作業仮説するに、陽極の連続的同一性があるのであり、この陽極の連続的同一性が光・視覚の連続的同一性であり、そのために、他者は連続的同一性化されると考えられるのである。換言すると、主体が、外界的他者を認識するときに、それは、陽極中心の認識となり、それが、陽極連続的同一性認識である。つまり、主体が内界的他者に向かうときは、陰極的他者ヘと向かうから、そこには、陽極と陰極との接点が形成されて、即非認識が形成される契機となるのであるが、主体が外界的他者へと向かうときは、それは、言わば、陽極的他者であるので、陽極的連続的同一性認識になるということではないか。外界的他者とは、いわば、内界的他者がそれへと投影されたものであると考えられる。つまり、陰極の陽極化である。-i のi 化である。即ち-(-i) =i 化である。つまり、外界的他者認識とは、陰極を否定し、陽極化した、陽極的連続的同一性認識であるということである。結局、外界的他者認識は、必然的に、陽極的連続的同一性認識、即ち、自我認識になるということである。そして、近代的自我とは、陰極、内界的他者の実在性を否定して、この外界的他者認識を原理化したということから成立するのである。
 これで、これまで検討してきたアポリア(難問)が解決したと言えるだろう。外界的他者認識は、つまり、内界的他者を無意識的に投影するようになるので、内界的他者を喪失するので自己盲目になるのである。つまり、仏教の無明であり、フッサールの自然的態度である。そして、近代合理主義、近代的自我は、これを唯物科学的に徹底化したのである。
 当然、この陽極/外界的他者連続的同一性認識は、陰極/内界的他者差異認識を喪失しているのであるが、後者を否定的に、前者に重ねて(-i=i)、差異を喪失しているが、それは、内界的他者-i の否定であるために、内界的他者-i の反動エネルギーを喚起していると考えられるのである。主体・陽極のもつ外界的他者への認識は、内界的他者に対する能動否定的エネルギーであり、同時に、否定された内界的他者-i の反動エネルギーを喚起しているのである。つまり、能動否定且つ反動のエネルギーが生じているのである。これは、錯誤・自己盲目であり、暴力であり、また、嫌悪・憎悪・嫉妬・悪意・邪気・ルサンチマンであり、さらに、妄念・妄想・狂気となると考えられる。西欧近代主義の観念的事件は、このことであり、人類破滅的な危機なのである。内界的他者、内界的身体の喪失であり、また、陰陽的即非認識の喪失なのである。唯物科学は、この結果生まれたのものであり、内界的認識を喪失しているのである。自己盲目なのである。それに対して、ロマン主義は、内界へと向かった。ロマン主義の感性とは、対極・即非的精神である。
 問題は、一般に外界的他者認識へと向かい、内界的他者認識を喪失したことである。【しかし、芸術は、後者へと傾斜したが、ある意味で、極端化した結果反転したと考えられるのである。それが、芸術のモダニズムを生んだと言えるだろう(T. S. エリオットの相関的客観物という発想が正にそうだろう)。つまり、モダニズムで、内界的他者をまた喪失したのである。(しかし、モダニズムの問題は複雑である。エリオットやパウンドのモダニズムヴァージニア・ウルフD.H.ロレンスのそれとは、まったく異なるのである。ジョイスの場合は、やはり、内界的他者を喪失していて、それが、言語観念遊戯化していると考えられる。)】そう、20世紀における群衆の問題、そして、フッサール現象学の問題は、これと関係しているだろう。また、ファシズム全体主義社会主義もこれと関係しているだろう。心眼・自己認識を失った人間の社会が発生したのである。これを私は、近代主義は狂気であるということで意味しているのである。Kaisetsu氏は愚民と言い、toxandoria氏は幼児性と述べているものと重なるのである。
 不連続的差異論は、不連続的差異としての内界的他者認識を取り戻したのである。そして、プラトニック・シナジー理論は、さらに、内界的他者認識が、差異共振性をもつことを発見したのである。