心と身体:差異的志向性と内的身体

先に、内的他者を自己身体と呼んだ。また、そして、自己身体を内的身体とも呼び、外的身体と区別した。ここで、身体に関して、整理しよう。
 i を心、-i を身体と、私が考えるときの身体は、内的身体である。それは、単に視覚的に外部知覚する身体ではなく、内面的に知覚する身体である。とまれ、視点を明快にするため、志向性の概念を援用しよう。主体・心→他者・身体の→を志向性としよう。先に、また、主体・心←他者・身体の志向性もあると考えた。
 一番最後の考え方では、志向性が反動化して、他者・身体を否定するものであった。即ち、i →-(-i)である。これは、また、自己投影であった。そうすると、差異的志向性と反差異的志向性、あるいは、肯定的志向性と否定的志向性があることになるだろう。差異的志向性、肯定的志向性が、差異共振シナジーを形成すると言えるだろう。ここには、他者の肯定があるのであり、他者との共振的関係が生起するのである。それに対して、反差異・否定的志向性は、他者を否定して、連続的同一性によって、他者を支配すると言えるだろう。ここで、この2つの志向性を区別しておこう。即ち、言い換えると、+の志向性と−の志向性があるということになるだろう。
 このように見ると、外的身体とは、−の志向性が支配しやすいと言えるだろう。つまり、主体にとって、連続的同一性である身体である。つまり、外的身体とは、他者ではなくて、主体と同質のものとなるのである。
 私がいう内的身体とは、当然、他者、内的他者なのである。主体の+の志向性を身体に向けるのである。これは、視覚的、外観的ではなくて、内観的に、身体を志向することである。つまり、否定的志向性を防ぐことで、他者である身体と接することである。このとき、主体・心・i は、他者・身体・(-i) と「共振」するのである。このとき、身体感覚は、心化し、心は、身体感覚化するのである。心身一如化ないし心身融合化と言ってもいいだろう。つまり、心身融合領域が発生すると言えるだろう。つまり、心/心身/身体であるが、心身融合領域は、中間態である。(思うに、「気」とは、この領域にあるのではないだろうか。p.s. 心身融合とは、正に、太極陰陽の形成であると言えるだろう。また、これは、内的太陽ないし内的コスモスの形成とも言えるだろう。)
 では、身体とは、何か。それは、物質なのか。それは、差異であり、「イデア」である。物質としての身体(例えば、有機体としての身体)は、思うに、他者 →主体の否定的志向性によって、形成されるのではないだろうか。つまり、他者が支配する主体である。他者の連続的同一性が物質としての身体ではないだろうか。
 だから、身体は、本来は、他者である差異であり、あえて言えば、他者である主体である。言い換えると、心の主体と身体の主体の2つの主体が少なくとも存しているということになるだろう。一種二重人格性である。しかし、身体は、心よりも、はるかに多種多様であると考えられるので、多重人格性があるということになるだろう。つまり、多元論である。不連続的差異共振的多元論である。
 では、議論をさらに展開ないし敷延すると、他者・身体にも主体、多元的主体があるならば、主体・心、あるいは、物質の脳とは何かということになるだろう。このように考えると、夢野久作の『ドグラ・マグラ』の世界に近づくことになるだろうし、ロレンスの世界にも近づくのである。そう、臍下丹田道教の世界でもある。身体的多神教とでも呼べる世界である。「内臓」の主体があるということになるだろう。「内臓」が思考することになるのである。あるいは、「細胞」が思考することになるのである。思うに、この身体的思考を、通常の心は、認識できないと言えるだろう。闇の思考である。しかし、差異共振、心身融合、太極陰陽、即非性においては、光と闇が融合した思考が生まれて、心にとっても、身体の思考に触れることができるようになるだろう。ここで、飛躍的に言うと、占いとは、この心身融合領域の力学を何とか認識しようとする技術ではないだろうか。宇宙には、多元的差異があるのであり、それらが、内在超越的に、複合化していると考えられるだろう。
 ここで、脱線するが、以前、占星術のことを考えていたとき、宇宙と人間の両者に共通する原型のようなものを想定して、その原型が宇宙と人間を形成し、動かしているのではないかと考えたのである。ここで、「心」と「身体」の融合する差異共振シナジー・コスモスを考えると、これは、内在超越次元にあるのであり、これは、また、宇宙全体とも関係していると言えるだろう。つまり、内在超越コスモスが、心身と宇宙の両方を駆動させているということになるだろう。例えば、太陽系を考えよう。そして、太陽系の原型をプロト・太陽系としよう。すると、このプロト・太陽系は心身を形成し、駆動させていることにならないだろうか。この問題は、いつか、余裕のあるとき、検討したい。