近代的自我の形成について:内的他者である自己身体の反動性による自

近代的自我の形成について:内的他者である自己身体の反動性による自我形成:「近代」におけるプロト・モダンと近代主義との深刻な亀裂


先には、主体のプラス・エネルギーが連続的同一性のエネルギーであり、それが、他者を否定・排除・隠蔽して、自我を形成するというように考えた。これは、これで、明快な考え方である。しかしながら、私は、この自我の終極態である近代的自我の様相をより明確にしたいと思うのである。
 D.H.ロレンスの『チャタレイ卿夫人の恋人』の中で、知性(当然、近代的知性である)の生活の基盤には憎しみがあると語られているが、私は、この憎しみ(ニーチェルサンチマン)の様態構造を解明したいのである。この憎悪は、差異ないし差異共振性の否定から発していることはわかりやすいことである。
 ここで、i→-iと、-i→iを考えると、前者は、他者の否定であり、後者は、主体の否定である。主体を心、他者を身体とすると、前者は、身体の否定であり、後者は、心の否定である。この両者が自我形成の構造であるとするならば、前者が観念論であり、後者が唯物論であり、この二元論をもっているのが、近代的自我ないし近代合理主義と言えよう。デカルトのコギト哲学とは、実は、両者の統合であると考えられるだろう。我思う(心)即、我あり(身体)であるからである。つまり、心身統合論ないし心身統一論なのである。そして、スピノザは、これを能動・積極的に展開したと言えるだろう。つまり、我思うの領域を能動的観念化して、否定から肯定へと思惟・精神を転換して、身体との統一・統合をより積極的にしたのである。これは、プラトニック・シナジー理論から言えば、心と身体との差異共振シナジー化であり、コギト哲学の心身統一論を創造的に進展させたと考えられるのである。
 このデカルトスピノザ哲学の視点から、近代的自我の構造を見るとどうだろうか。自我の構造は、心と身体の二元性にあるのであり、主体は心において、他者を捉えるわけであるが、実は、自己身体という内的他者を介して、外的他者を知覚・意識・認識するのである。問題点は、内的他者である自己身体の認識様態にあると言えるだろう。ここで簡単に思考実験的に考察していこう。
 ある主体sが、外的他者oを知覚するとしよう。外的他者は、主体の内的他者である自己身体を介して、知覚される。そのとき、外的他者は、自己身体に対して、能動的であり、自己身体は、受動的であるから、主体は、感覚感情を外的他者に依存して、もつことになるのである。つまり、主体は、受動的な感覚感情をもつことになるのである。この受動反応であるが、当然ながら、能動的ではありえず、主体の受動的快感を欲望すると、受動的不快感をもたらす外的他者に対しては、反感(後の、ルサンチマン)を抱くことになるだろう。思うに、主体受動中心的快感性が中心になって、主体は、反感的に、即ち、反動的になっていくと考えられるのである。これは、正に、幼児的な主体=自我の発生である。不快感をもたらす他者に対しては、というか、受動反動的主体にとって、外的他者は一般に不快をもたらすものであるから、外的他者に反感的な態度をとるようになると言えよう。この反感が反動であり、さらには、反動攻撃性となるのは、見やすいことである。この受動的反感反動攻撃暴力性が、結局、自己身体と介して、心に発生すると言えよう。しかし、基盤は、内的他者の自己身体ではないだろうか。もっとも、問題は、もう少し微妙な気がする。おそらく、心身知覚というものがあるのではないだろうか。感覚は、同時に、知覚である。つまり、身体感覚は、同時に、心的知覚である。身体的感覚は、心的感覚である。
 しかしながら、外的他者の知覚において、主体は、視覚に頼るので、知覚の志向性が、内的他者(自己身体)から、外的他者へと向うのであり、内的他者の受動知覚に対して、無意識になりやすいと考えられるのである。自己身体あるは、主体的受動心身における反応が、外的他者に向けられることになるのである。受動的反感・反動攻撃性が、無意識のうちに、外的他者に向けられることになるのである。
 ここでは、何がポイントであろうか。自己身体ないし自己心身の反動性に無意識であることである。つまり、主体は、無意識のうちに、自己の反動性を、外的他者に投影していることになるのである。つまり、-iの否定としての、主体の認識である。つまり、i*-(-i)⇒−1である。これで、自我ないし近代的自我の形成の構造は解明されたと言えよう。
 問題は、差異ないし差異共振性の領域である。主体は、内観、内的認識、内的他者である自己身体認識が、少しでもあれば、差異を内包しているのである。だから、主体は、自己と他者との共存・並存であることが感得されていると言えよう。では、この、いわば、内的差異をどうしたら感覚、意識、知覚することができるのか。外的他者を反感的に知覚しないことが必要ではないだろうか。外的他者が、内的他者である自己身体ないし自己心身に歓喜をもたらすならば、主体において、反感性や単なる快楽主義は生起しないだろう。思うに、初めに、差異共振シナジー性=玄光があるならば、主体は、差異共振的外的他者に歓喜を覚えることになるだろう。おそらく、太陽に主体は純粋に歓喜するだろうし、また、善や美や真理に歓喜するだろう。正に、プラトニズムである。根源の差異共振シナジー性があるのであり、この内在超越性から、主体は、差異共振シナジーをもたらすものに歓喜するのである。だから、主体は、内包する差異共振シナジー様相によって、内的差異を感覚・意識・知覚すると言えるだろう。いわゆる、通俗に、「こころ」と言われるものは、このことであると言えよう。
 さて、このように考えたとき、自我、とりわけ、近代的自我、近代合理主義は、どういう意味をもっているのか。内的他者、差異、とりわけ、差異共振シナジー性をもっているならば、近代的自我、近代合理主義はありえないはずである。なぜなら、内的他者、差異、差異共振シナジー性が、近代的自我・近代合理主義の成立を阻害(倫理的抑制を)するからである。
 だから、以前述べたように、近代的自我が形成されるには、内的他者、差異、差異共振シナジー性の喪失がなくてはならないだろう。以前の検討では、それを、中世的価値観の崩壊にそれを見たのである。西欧を問題にしているのであるが、中世のキリスト教的差異共振シナジー精神が瓦解したことに、近代的自我の形成の原因を見たのである。シェイクスピアの悲劇で言えば、『リア王』に中世的位階制度の崩壊と近代的自我(エゴイズム)の成立を確認できるのである。思うに、ここにあるのは、差異共振シナジー精神の堕落・衰退・崩壊・瓦解の過程における近代的自我の発生である。一言で言えば、精神的秩序、倫理的秩序の崩壊なのである。換言すれば、内的ヴィジョンの衰退・喪失である。西欧の場合は、中世キリスト教的精神の衰退・崩壊・解体の結果であると考えられるのである。古代・中世的コスモスの崩壊である。内的他者の精神の衰退・解体において、近代主義が発生したのである。そして、これは、主体iの新たな発動と言えるだろう。そして、ルネサンスが勃興し、デカルト哲学、スピノザ哲学、等々が生まれたのである。そして、プロテスタンティズムも、この一環と言えるだろう。即ち、iの時代であり、新たに、-iを探求する時代なのである。
 近代は、結局、このiによる-iの追求という意味を喪失するようにして、近代合理主義を突き進めたと言えるだろう。もっとも、天才たちは、この追求を進展させたのである。つまり、プロト・モダンと近代主義の分裂が近代には起ったのである。前者は、「ポスト・モダン」、トランス・モダンである。結局、近代の亀裂、乖離が、悪夢のように人類を悲劇的状況に陥れているのである。新たなiの発動による、新たな-iの探求が、プロト・モダンにおいて、発動したのだが、結局、それが、失敗する形で、反動主義のまま、進展してしまったという事態が近代には起ったと言えるのである。プロト・モダンの反動化、ここに、近代の悲劇・悪夢・悲惨があるのである。これは、人類絶滅の危機である。とりわけ、現代日本は、反動的近代主義に落ち込んでいて、亡国の崖っぷちになっているのである。プロト・モダン、ポスト・モダン、トランス・モダン、内的他者との差異共振シナジーを探求せよ、ここに、未来がある。
 さて、最後に、近代的自我による、差異的他者への攻撃性について考察しよう。近代的自我は、内的他者である自己身体の反感・反動様態の状態となっているが、このとき、外的他者、あるいは、差異共振的他者に対して、攻撃・暴力的になるのであるが、この力学構造を考察しよう。これは、ほとんど問題にならないのかもしれない。なぜなら、近代的自我は必然的に外的他者を否定するからである。これでおしまいである。ホッブズ社会思想である。もっとも、もう少し丁寧に見てもいいだろう。結局、近代的自我は、内的他者である自己身体を否定しているのである。この内的他者である差異との共振シナジーを構築することができないのである。というか、内的他者である自己身体との差異共振シナジー形成を避けるのである。なぜなら、それは、主体に苦を与えるからである。(ここに近代的自我が、没倫理的であることが理解されるだろう。)主体に苦を与える内的他者を否定することで、主体は、快としての優越(自我優越)性を形成するのである。つまり、内的他者・自己身体の苦の否定としての反動的主体主義なのである。内的他者を取り込むには、主体は、自己否定して、-i化しなくてはならないのである。もっとも、単純な自己否定ではなくて、主体をゼロ度ないし無にするようにして、内的他者-iを取り込み、i*(-i)を形成することである。
 ということで、近代的自我は、とりわけ、差異的他者を否定することがわかるのである。なぜなら、差異的他者は差異共振シナジーの「エネルギー」を発しているからである。これは、零度エネルギーであろう。あるいは、虚エネルギーであろう。この零度エネルギーは、近代的自我のもつ否定・反動エネルギーを否定するので、近代的自我主体にとっては、不快なのであるから、差異的他者に対して、攻撃・暴力的になるのである。おそらく、イジメや差別は、このような自我の反動暴力的傾斜に拠る面があると思えるのである。