自己認識方程式と志向性と形相/質料の関係について:1

自己認識方程式と志向性と形相/質料の関係について:1


テーマ:自己認識方程式(i)*(-i)⇒+1関係


ジョルダーノ・ブルーノを読んで、形相と質料のことが気になった。これは、先に、主体と他者を、心と身体とした問題と関係する。一番最近の検討では、主体も他者も心ないし志向性として扱った。
 結局、自己認識方程式i*(-i)⇒+1をどう把捉するのかということになるだろう。今、直観で言うならば、「我」とは、実は、身体なのではないのか。内臓思考に拠れば、頭脳が考えているというよりは、内臓(肚)が考えているのである。デカルトのコギトは、内臓(肚、肝)の思考ではないのか。これを、i とすれば、他者-iとの関係で、i*(-i)⇒+1は、実に明快であると思う。
 そうならば、問題は、身体と頭脳との関係にあるだろう。身体とは何か。頭脳とは何か。感覚とは何か。知性とは何か。ここで、以前の私の考え方に返ると、差異共振シナジーが、身体や認識を一如として発現させるのである。つまり、身体と頭脳は、差異の二元的発現なのであり、根源は、差異一元論である。差異一元論と、内臓思考論は、つながると言えるだろう。
 私は何が言いたいのか。私は、いわば、内的身体が本来の認識的主体であると、今、考えついたのである。つまり、内的身体は、思惟であり、且つ、延長である。あるいは、内的身体は、思考であり、かつ、身体である、ということである。だから、内的身体というよりは、志向性身体である。認識的身体である。知的身体である。そして、これが、(超越的に)内包されている差異共振シナジー様相ではないのか。つまり、「わたし」・個の原点・核心(個核)が、そこにあるのではないのか。そして、それが、自己認識方程式のiではないのか、ということである。換言すると、本来、個の原点に、差異共振シナジー様相、知即存在としての志向性身体があるということではないのか。心即身体と言ってもいい。そして、ここでは、感覚、感情、意志、欲望、倫理、知性、等々の主観性が渦巻いているだろう。カオスモスとしての主観性としての心即身体である。心身体と言ってもいいだろう。
 この心身体は、i*(-i)の様相であると言えるだろう。そして、認識を形成するときに、他者に対して、反感・反動的になると、i*-(-i)⇒−1となるだろう。この点を検討する前に、差異共振シナジー様相である心身体について、もう少し見ておこう。これは、本来、差異共振性、共感性をもっているのである。精神性と言ってもいい。そして、この心身体の認識は、外的他者に向うときは、当然、この様相が適用されるだろう。つまり、即非認識である。「わたし」は、「人」を認識し、それと同一であり、且つ、差異であるということである。ここには、本来、反感や連続的同一性はないだろう。コスモスとしての現象知覚である(これは、本来誰でももっているものである)。
 しかし、この個核(心核?)である心身体は、物質的身体・肉体となっている。この物質的身体(肉体)は、何だろうか。これが、連続的同一性化によって発現するものではないのか。つまり、i→-i⇒−1=心身二元論・物質身体化ではないのか。i*(-i)の即非態において、志向性が発生するとしよう。それは、iから-iへの志向性である。そして、これが、現象化であると考えられるのである。つまり、連続的同一性化である。そして、ここでは、他者である-i が否定されて、i*-(-i)⇒−1=心身二元論・物質身体の現象様態になるのである。だから、iが心となり、-iが身体となるのだろう。本来は、i* (-i)で、心身体(心身態)であったのである。そして、近代主義とは、正に、この連続的同一性化の最終態・終局態であると言えるだろう。簡単に言えば、現象化の最終態であり、差異の完全な喪失である。この現象化を、iと-iの分離、即ち、i⇔-iと表記してもいいだろう。
 しかし、このように考えると、自己矛盾する。先に、即非としての現象を述べたのであるが、それは、連続的同一性としての現象化と矛盾することになるだろう。即ち、即非としての現象と連続的同一性・心身二元論として現象の相矛盾する考えがここにはあることになるのである。この矛盾・齟齬は、発生論によって解消されるのではないか。即ち、現象化ないし物質化・心身二元論化とは、連続的同一性へのプロセスであると見るのである。だから、胎児や新生児においては、即非様相と連続的同一性様相との混淆態ないし中間態となっていると考えることができるだろう。つまり、一気に、連続的同一性化が発生するのではなくて、成長において形成されるのである。わかりやすく言えば、差異から連続的同一性へのプロセスとしての現象化である。そして、これは、人間において、完成態となったように思えるのである。即ち、主に、言語表現を介して、連続的同一性化が強化された考えられるのである。否、そうではなくては、人間のもつ類としての質が、連続的同一性化が強く、言語の発生を内包していたと見るべきではないだろうか。これは、「イデア」、形相の問題にも通じるだろう。また、実念論・観念論や「ロゴス」の問題にも通じるだろう。思うに、連続的同一性とは正に、原言語であると言えるのではないだろうか。主体iと他者-iとの連続的同一性の結節点としての言語ではないのか。あるいは、志向性の究極点としての連続的同一性としての言語ではないのか。つまり、志向性・精神から現象体・物質が形成されるが、連続的同一性志向性が、力であり、認識であり、且つ、原言語であるということではないのか。思うに、ノエシスノエマノエマが言語であると言っていいのではないだろうか。なぜなら、ノエマは、ノエシスが他者を志向したときの、他者像であると考えられるからである。しかし、あくまで、主体における他者像であり、他者自体ではないのである。つまり、自己投影としてのノエマであり、言語ではないのか。いちおう、これを作業仮説としよう。
 そうすると、人間だけでなく、生物、否、存在物は、言語の志向性をもつことになるだろう。鳥は鳥の言語をもつであろう。魚は魚の言語、虫は虫の言語をもつことになる。そして、無生物の岩は岩の言葉を、石英石英の言葉をもつことになる。これは、また、支配・統治を意味するだろう。力・権力である。また、暴力である。言語行為、発話行為とは、力なのである。パワーである。そして、この究極態が、近代主義、近代的自我、近代合理主義であると言えよう。
 力、言語行為、認識、現象化・物質化、心身二元論としての連続的同一性志向性ということになったのであるが、それは、発生論・過程論的である。つまり、差異から連続的同一性という発生・過程論なのである。
 では、起源の差異、差異共振シナジー性はどうなるのか。つまり、根源の心身態、知的身体はどうなるのか。つまり、内包されている「イデア」はどうなるのかである。そう、内包されている個核はどうなるのか。結局、根源(古代ギリシア人ならば、アルケーであろう)の心身態・知的身体(知身、知核?)から連続的同一性志向性が発生して、現象化したのである。このとき、当然、起源の心身態、つまり、即非態は、否定・排除・隠蔽されることになる。一種、自己隠蔽である。これに関しては、多くの哲学者が述べてきただろう。私の言い方では、差異がねじ曲がるようにして現象化が発動するのである。あるいは、後ろ向きになるようになるのである。連続面を形成し、差異を裏面に隠すのである。連続面が現象面であり、裏面が差異面、即非面である。そう、これは、不連続的差異論が生まれて間もない頃の発想である。(思うに、これは、XYZ立体座標を考えると、XZ面ではないだろうか。虚軸のY軸が隠されるのである。XY面をイデア平面とすれば、YZ平面は何になるのだろうか。これは、メディア平面ではないだろうか。ドゥルーズガタリの内在平面とは、このメディア平面に近いが、彼らの失敗は、メディア平面は、虚軸を含んでいること、つまり、内在超越平面であることを認識しなかったことである。)つまり、差異共振シナジー空間・即非空間から、現象空間、連続的同一性・二項対立・言語・支配・暴力空間が発現するということである。ここには、次元変換、虚次元から実次元への変換があるのあるが、これまで、述べてきたように、この次元変換は、内在超越的変換であることである。つまり、実次元は、超越的に、虚次元を内包しているのである。いわゆる、否定神学が生まれくる原因がここにあると言えるだろう。(参照:否定神学
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%A6%E5%AE%9A%E7%A5%9E%E5%AD%A6
)つまり、現象空間(おそらく、現象平面)は、内在超越的に、即非空間ないしメディア空間を示唆しているのである。(そのために、芸術で、象徴主義が生まれるのだろう。現象から即非メディアへの示唆が象徴となると言えるだろう。また、カミュの言った、郷愁というのも、差異即非への回帰衝動と言えるだろう。)簡単に言えば、一元論から二元論への次元転換である。
 では、この次元転換後の現象空間おいて、自我様態において、この即非空間はどういう力学にあるのだろうか。つまり、有り体に言えば、現象空間にあって、自我は、どうして、差異共振性に気づくのかである。それは、発生・過程論で説明がつくだろう。先に、胎児・新生児には、差異共振シナジー様相・即非様相・メディア空間が存していると述べた。そして、ここから、連続的同一性志向性によって、心身二元論的成長をすると考えたのである。差異から連続的同一性への発生・過程があるのであるが、志向性の終着点である連続的同一性は、確かに、他者を否定し、自己統一した(正に、ヘーゲル弁証法は、純粋連続的同一性哲学である)。志向性は終着点を支配したが、しかし、起点、始点、原点自体は否定できないと言えるだろう。つまり、「我思う」・コギトである。デカルトがいみじくも言ったように、懐疑精神は、懐疑する自己を懐疑することはできないのである。iというコギトがあるのである。連続的同一性志向性自体は、それ自体を否定できないということである。そして、これこそ、差異なのである。あるいは、差異共振シナジー様相なのである。即非様相なのである。コギトの起点は、差異なのである。ここで、明日野氏が、iを即非と述べていたことを想起すべきである。
 そうだからこそ、連続的同一性による他者否定、心身二元論的自我が発現しても、差異が残るのである。言わば、三つ子の魂いつまでも、である。コギト哲学は、正に、自己即差異であるということであるが、デカルトは、自己・差異から連続的同一性的合理主義、即ち、近代合理主義の考えを発生させてしまったと言えるだろう。また、スピノザは、コギトをより発展させて能動的観念による差異共振シナジー認識を展開させたと言えよう。
 ということで、何故、連続的同一性自我においても、差異・自己が存するのかを解明できたこととしよう。では、問題は、以前の謎にもどることになるのだが、何故、近代的自我は、差異を否定しようとするのかである。差異がありながら、どうして、自我は差異を否定しようとするのか。つまり、連続的同一性志向性中心となり、差異が無視されるのか、である。何故、個核(特異性、単独性、不連続的差異性)が無視されるのか。この問題の要因は、やはり、劣弱な差異と後期な差異に差異の質にあるのかもしれないが、近代において、これが顕著になった説明にはならないだろう。西欧中世においては、主体i は弱く、キリスト教精神-iが支配していたので、言わば、iと-iが受動的に共振していたと考えられる。中世美術や古楽を考えるといいだろう。(バッハの得意としたポリフォニーも、差異共振シナジー精神と関係するだろう。そして、近代は、ポリフォニーを否定したのである。そう、ケルト紋様も、差異共振シナジー精神であり、以前述べたが、ビートルズケルト的差異共振シナジー精神・ポリフォニーの復活であろう。文学の意識の流れとは、やはり、差異共振シナジー精神の表現であろう。モダニズムは、実は、トランス・モダンでもあった。)
 確かに、差異を否定するというのは、弱さと関係を否定できないだろう。ニーチェは、辛辣に、賎民と呼んだのであるが。現代日本の、敗残者である「愚民」も、これである。劣弱な差異である、確かに。また、群れの問題である。群衆の問題である。あるいは、劣化・退化の問題かもしれない。私は、サル人類と呼んだが。
 とまれ、理論的考察に徹しよう。志向性によって、主体である差異は、連続的同一性という観念を「纏(まと)う」、「身に着ける」と考えられる。自我・仮面・パーソナリティ・ファッションである。自己投影像である。自己陶酔・ナルシシズムである。慢心・傲りでもある。俗物性・虚栄でもある。 toxandoria氏のいう幼児性でもある。(思うに、これは、主に、男児的幼児性であろう。女児の場合は、差異があると思う。ママゴトは、差異的であると思う。母親を演じるのは、醒めている遊戯であろう。男児が玩具に一体化するのは、正に、連続的同一性化であろう。おもちゃやプラモデルの飛行機や船や機関車に夢中になるのは、これであろう。)この連続的同一性の投影は、自然発生的で、明瞭なものであろう。リンゴはリンゴである。リンゴはミカンと異なる。実に、明快である。そして、主体の秩序が形成されるだろう。連続的同一性論理学の秩序である。明晰な秩序である、実に。対象と言葉が、一対一対応するのである。古典的である。しかし、例えば、事象として、怪我の功名や、塞翁が馬等がある。穴に落ちたので、金貨が見つかったのである。ここでは、善悪二元論は崩壊するのである。脱構築である。連続的同一性・二項対立秩序は解体するのである。しかし、連続的同一性の自我は、これを無視するのである。ここには、不誠実・虚偽・欺瞞があるのである。事実を無視するのである。例えば、自己の行為を振り返って、愚かな行為をしたと反省するのは、誠実さであるが、連続的同一性自我は、それを無視して、自分は利口・賢いと自惚れるのである。愚かなのに賢いと思いたいのである。この自我による不誠実な事象は、連続的同一性の知識が快感となり、事実は不快となるから発生するのだろう。そう、快・苦である。事実は苦である。自分の愚かさは苦であるから、連続的同一性自我としては、認めたくない、認められないのである。いわば、能天気な自我は、自己の真実・真相を認めるのが、苦痛なのである。(フロイトのエロスとタナトスは同一だと思う。それは、連続的同一性志向性のことと考えられる。)この点、古代ギリシア人は偉大であった。汝自身を知れ。ヒュブリス(傲り)を戒めるギリシア悲劇
 近代的自我の発生は、これまで述べたように、中世の倫理的秩序の崩壊によって、連続的同一性志向性が野放しになったことに因るだろう。他者の喪失である。iの傲りである。そして、これが、今日、日本を狂わせているものである。(そして、連続的同一性志向性は、他者がないので、不毛である。創造性がないのである。他者の発見と他者との共振シナジーが、独創・創造である。)
 とまれ、この連続的同一性中心主義の力学をさらに考察しよう。これは、個核がないので、空虚である。空っぽである。現代日本人は空っぽである。この数十年日本は空っぽである。他者、差異、個核の苦を回避しているからである。倫理を避けているからである。思考・認識を避けているからである。精神的劣弱者である。
 何故、差異が無視されるのか。それは、近代において、連続的同一性の社会が形成されたからではないのか。中世共同体は、共同体の道徳・掟・コードが他者となっていたが、西欧においては、キリスト教精神の衰退とともに、産業の進展とともに、これが崩壊したのであり、そのために、連続的同一性志向性が優勢となり、それが、支配的になり近代社会を形成するようになった。この連続的同一性自我の社会の形成が、差異を無視させる要因ではなかったか。つまり、社会となると、連続的同一性自我の反射が相互に為されて、そのために、自我は社会的保証を得て、安心することになるのではないのか。では、何故、自我の相互反射が保証となるのか。日本で言えば、世間の目であるが、何故、外部の目を恐れるのか。それは、根源的恐怖心や不安に拠るのではないだろうか。つまり、問題は、確信の有無となる。あるいは、信のことである。確かに、連続的同一性は力ではあるが、信がないのである。何故なら、根源の差異が覆われていないからである。連続的同一性の仮面を纏うものの、差異は存しているのであるから、亀裂があるのである。これが、根源的不安・恐怖の根因である。しかしながら、連続的同一性志向性を相互に反射することで、いわば、自我確認が生じるだろう。自分と同じであるという安心である。つまり、相互に連続的同一性が確認できるならば、それが、社会・世間の真理であるということになるだろう。水平的真理である。しかし、これは、本来は、似非真理なのであるが。とにかく、連続的同一性という「真理」をコミュニケーションして、安心(慢心)するということになると考えられるのである。そして、このために、個核の存在が忘却されて、無視されるようになるのである。これで、連続的同一性自我や社会の完成である。これが、現代日本なのである。近代主義の帰結なのである。これで、何故、差異が否定されるかが、解明できたこととしよう。
 では、本テーマの一つである形相と質料についてであるが、記述が長くなったので、改稿して検討したい。