精神と物質:差異共振認識/連続同一性認識の二重構造の人間

精神と物質:差異共振認識/連続同一性認識の二重構造の人間


テーマ:自己認識方程式(i)*(-i)⇒+1関係


これまで、自己認識方程式i*(-i)⇒+1を、作業仮説的に転用して、存在方程式として使用している。そして、左辺にフッサール現象学の志向性を見ているが、また、志向性は、不連続的差異論から連続的同一性の志向性であると、これまで、また、作業仮説にして、考察・検討を続けている。そして、この連続的同一性志向性を、現実態(エネルゲイア)、即ち、エネルギーと考えている。つまり、認識/存在方程式の左辺i*(-i)を可能態(デュナミス)=潜在態(ポテンシャル・エネルギー)と見て、この賦活・活性化を現実態(エネルゲイア)と考えているのである。
 そして、連続的同一性志向性=現実態(エネルゲイア)=エネルギーが、現象・物質化であると、これも、作業仮説しているのである。自己認識・存在方程式の左辺i*(-i)は、即非態、対極(太極)態であり、デュナミスであり、零度エネルギーである。これは、虚エネルギーである。【問題は、連続的同一性志向性エネルギーをどう考えるかである。これを実エネルギーとしていいのか。それとも、虚エネルギーの変容と見るべきなのか。ここでは、第2段階の1/4回転が生起すると考えているのである。だから、連続的同一性志向性エネルギーとは、次元変換エネルギーでもあることになるのである。垂直の捩れをもたらすエネルギーである。そして、これは、現象・物質を発現するのである。だから、単純に見ると、これは物質エネルギーとなるだろう。ここは実に微妙な領域である。即非態は可能態・潜在態・零度エネルギーである。これが、第2段階の1/4回転で、連続的同一性エネルギーに転化するのである。このエネルギーの解釈は2通りある。一つは、虚エネルギーに属するというもので、一つは、実エネルギーに属するというものである。ここでは、実エネルギーに属するものとして考察していきたい。つまり、虚エネルギーから、次元変換を介して、実エネルギーに転換したとここでは考えたい。】この虚エネルギーが次元変換して、実エネルギーとしての連続的同一性志向性エネルギーになって、現象・物質が発現すると考えられるのである。以上が、これまでの検討の簡単な整理である。結局、認識即存在なのである。だから、現象界は、認識即存在に満ちていることになるだろう。換言すると、物質的認識・存在に満ちているということである。つまり、唯物現象界である。
 とまれ、ここで、心身二元論を考えよう。以上のように考えると、心即身体となるはずである。そして、これが、一般に生命体・生物の様態ではないだろうか。そう、動物の場合、心即身体が本能として作用していると言えるだろう。
 しかし、人間の場合は、これに当てはまらないと言えるだろう。認識と存在が即ではなくて、ズレ・間(あいだ)・亀裂、即ち、差異があると言えよう。つまり、動物や植物の場合は、認識即存在であるが、人間の場合は、認識即非存在である。確かに、動物・植物の場合、根源は、人間と同様に、即非態である。即ち、i*(-i)であると考えられる。しかしながら、連続的同一性化して、i→-(-i)となり、連続的同一性存在となる。いわば、動物・植物の「自我」になるのである。しかしながら、人間の場合は、連続的同一性志向性の結果は同じであるが、しかし、根源がおそらく異なるのである。即非態が動物・植物と異なるのである。この問題ついては、認識と連続的同一性の問題として考察していきたい。
 何故、人間において、他の生物と比べて、認識、意識、知が顕著なのだろうか。ゲノムを見たとき、生物間では、それほど相違がないように見えるのであるが、この明白な違いは何か。ここで、作業仮説というか、思考実験をするのであるが、問題の起因は、やはり、メディア界(メディア内在超越空間:メディア内超空間)にあると推測される。メディア界は、

差異1:差異2:差異3:・・・:差異n (:は即非共振の記号)

と図式化され、即非共振している様相である。問題は、この諸差異、複数差異の、連結である。例えば、差異1と差異2が連続化するとしよう。しかし、この連続化に対して、差異3がそれを認識するとしよう。すると、差異3:(差異1=差異2)という図式となるだろう。(尚、=は連続化である。)この考え方を敷延すると、差異全体の即非総体があり、それに対して、差異の連続化=現象化という事態があり、いわば、即非認識様相と差異連続様態の二重性・二層性がここに想定できないのかと思われるのである。端的に言えば、メディア界と現象界の二重・二層性である。原認識界/現象界(認識=存在)の二重・二層性である。ここで、二点について、説明しないといけない。一つは、メディア界のもつ認識性についてであり、一つは、人間と他の生物の違いについてである。
 先ず、メディア界の認識性についてであるが、これは、永遠界であり、いわば、全知の世界である。ここでは、志向性は、連続的同一性ではなくて、差異共振的志向性であり、差異と差異は相互に他者を理解しているのである。では、このメディア界の認識とは、存在とどう関係するのだろうか。ここでは、知即存在である。だから、現象界の認識=存在と似ているのである。しかし、質が異なると考えられるのである。メディア界の認識とは、差異共振認識であるのに対して、現象界の認識とは、連続的同一性認識であるのである。そして、また、メディア界は、永遠界であり、また、無限界であるから、現象界の時空性は超越しているのである。いわば、超時空としてのメディア界・メディア空間なのである。ということで、メディア界的認識は、超時空的認識、差異共振的認識であることがわかった。
 次に、人間と他の生物の相違であるが、人間は、メディア界認識を他の生物に比べて、決定的に恵まれているのである。つまり、一般に生物では、メディア界から現象界への転化の場合、差異の連続化が発現して、生命体となり、差異自体は、いわば、連続的同一性に同化され、飲み込まれているのである。しかし、人間においては、メディア界が過剰に存しているのであり、差異が連続・現象化しても、すべて差異が連続・現象化するのではなく、連続・現象化されない差異(メディア界・差異共振界・即非態)が賦活されているのである。この連続・現象化されない差異が、人間の認識衝動であると思われるのである(作業仮説)。そうすると、この連続・現象化されない、不連続的差異の共振作用の動態を表す用語が必要なように思われるのである。零度エネルギーでいいのかもしれない。あるいは、虚エネルギー。とまれ、認識エネルギーを意味する用語が必要なのである。確かに、連続的同一性志向性エネルギーは、認識即存在であるが、それは連続性認識エネルギーなので、ここには当てはまらないのである。つまり、差異認識エネルギーの用語が必要なのである。あるいは、即非認識エネルギーの用語である。
 少し角度を変えて見ると、連続性認識エネルギーは身体・肉体になるのである。人体である。そして、十分に言うなら、連続性認識をもった身体・肉体である。これは、動物的身体である。しかるに、この動物的身体を形成しない不連続性認識のエネルギーが人間にはあると考えられるのである。そして、これが、人間本来の認識衝動であると考えられるのである。創造衝動、宗教衝動、芸術衝動も、この認識衝動に入ると考えられる。これが、人間を他の生物から区別するメルクマールと言えよう。そして、これを精神と呼んでいいのである。私が心身体と呼んだものも、ここに入ると言えよう。そう、人が「愛」と呼ぶのは、やはり、ここを指していると見るべきである。しかし、「愛」とは、実は、連続性とつながっているので、不適切であると私は考えている。共振倫理、共倫とでも言うべきではないかと思われるのである。共感性と呼んだものも、ここを指すのである。また、私がリリシズムと呼ぶものもここを指しているのである。(現代のポップスは、このリリシズムが消えている。連続性・自我の似非音楽になっているのである。)とまれ、差異即非認識動態を意味する用語として、シナジーないしシネルゲイアを暫定的にあげておきたい(日本語では、共振態か?)。すると、人間は、シナジーとエネルギーの二重ダイナミクスをもつのである。そして、これは、シナジー認識/エネルギー認識の二重性である。
 以上から、人間の特異性、即ち、差異認識性と連続性、あるいは、シナジーとエネルギー、共振態と連続態の二重・二層性が明らかになった。これは、伝統哲学では、無限と有限、永遠と時間、等々のパラドクスとして延べられてきたものである。キルケゴールがこれを的確に把捉していると言える。そして、ジョルダーノ・ブルーノも、その内在超越的一性の哲学で、これを説いていると考えられよう。
 最後に、以上の視点から、近代化について考察してみよう。直観で言えば、近代主義は、以上の二重性認識の混同があるのである。即ち、差異共振認識と差異連続認識の二つが本来あるのに、近代は、後者の認識を前者にも適用して、結局、連続認識中心主義になり、差異共振認識を否定・排除・隠蔽したのである。これが、近代合理主義であり、唯物科学主義である。近代の「理性」とは、連続的同一性の「理性」に過ぎず、また、カントの超越論的形式に過ぎず、結局、それをヘーゲルが手品的に、精神の衣装を与えて、弁証法的合理化したのである。ヘーゲルの精神とは、差異共振認識衝動を連続化して、それを連続認識に統一したものと考えられる。それは、反動的全体主義認識である。ファシズムである。そう、ナチズムの思想的淵源は、ヘーゲルだろう。


p.s. ナチズム以上に人類の災厄であるマルクス主義社会主義共産主義の思想的淵源もヘーゲルであるのである。唯物史観の原型がヘーゲルの世界史、絶対精神・世界精神の歴史である。
 ところで、予定的歴史観を後で考察したい。これは、黙示録的歴史観にも、当然、関係する。