精神と物質 2:連続的同一性現象物質化と認識・精神・知性

精神と物質 2:連続的同一性現象物質化と認識・精神・知性


テーマ:自己認識方程式(i)*(-i)⇒+1関係


 先の思考実験は、人間の認識形成構造についてであった。即ち、人間は、他の生物とは異なり、差異共振シナジー様相・即非様相が認識衝動となっていて、連続的同一性様態という現象・物質に対して認識を形成するというような考え方をした。他の生物は、ほぼ、差異共振シナジーがほぼ連続的同一性現象に転化すると考えられ、即非様相(認識衝動)が乏しいために、人間のような認識衝動が欠落すると考えられるのである。
 そうすると、身体の物質的構造を形成する領域が必要なように思えるのである。そこで、不連続的差異論に返って考えてみたい。そこでは、メディア界/MP 境界/現象界という構造をもっていた。メディア界を差異共振シナジー界ないし即非界とし、現象界を連続的同一性の世界とすると、身体の物質構造の原型、遺伝子ないしゲノムは、境界にあると考えられるのである。この境界構造をどう捉えるかである。これは、単純に見て、構造主義の構造である。そして、本稿では、生命体の構造である。精神から物質へと変換される領域である。ここは、思うに、エネルゲイア(現実態)の領域ではないだろうか。つまり、i→-iの→ の領域である。つまり、志向性、連続的同一性志向性エネルギー領域である。この結果、現象における生命(終局態・エンテレケイア)が発生すると考えられるのである。
 では、このエネルギー領域の構造をどう定式化するかである。i→-iの→は、主体iの志向性であり、これをとりあえず、+の志向性・エネルギーとしよう。そして、i←-iの←を−の志向性・エネルギーとしよう。この+と−の志向性・エネルギーをこの領域はもつと考えられるだろう。だから、差異1±差異2である。これは、差異1+−差異2、差異1−+差異2の二つの場合を考えられる。この極性がエネルギー領域の構造ではないだろうか。
 そうすると、

メディア界:差異m*差異n:差異共振シナジー即非

メディア/現象境界:差異m±差異n:エネルギー領域

現象界:連続的同一性物質領域:物質領域


となる。思うに、メディア/現象領域は、差異m・同一性・差異nとも表記できるのではないだろうか。あるいは、この境界(MP境界)では、iの虚次元の可能態・潜在態(デュナミス)から±の実次元の現実態(エネルゲイア)へと転換するのであるから、i・-(-i)と-(i)・(-i)と表記できるだろう。そして、結果の⇒−1が現象物質界となるのである。
 ということで、境界構造は、i・-(-i)と-(i)・(-i)、簡略化して、-{i*(-i)}となる。これが、遺伝子やゲノムのイデア構造だと思われるのである。
 では、これに対して、メディア界の潜在態はどういう関係を人間においてもつのだろうか。端的に言えば、認識と物質態との関係はどうなのかである。これまでの考え方では、人間においてはメディア界の潜在態・差異共振シナジーが認識衝動として作用しているということであるから、連続的同一性の結果、人間という身体、人体(終局態・エンテレケイア)が発現しても、それ以外のデュナミスが作用しているということになる。胎児、新生児、あるいは、小児においては、潜在態と終局態が併存しているのである。永遠と有時間、無限と有限が同時存在しているのである。これをどう公式化したらいいのだろうか。つまり、人間の場合、i*(-i)の即非態が、現象界にも存在するということを、どう公式化・構造化するのか。
 これは、意外に簡単に公式化・構造化できるのではないだろうか。即ち、境界構造に注目すると、それは、-{i*(-i)}である。つまり、メディア界・即非態・潜在態・デュナミスのi*(-i)から現実態の-{i*(-i)}に変換したのである。この最初の-に注目したい。つまり、連続的同一性化・現象化とは、マイナス化なのである。(このマイナス化をどう見るのか、問題であるが、これまでの検討のラインで考えると、これは、第2段階の1/4回転を指しているように思える。これについては、後で検討したい。)ということは、当然、作用・反作用、あるいは、エネルギー保存則から見ると、プラス化が生起するはずである。あるいは、同時に、マイナス化とプラス化が対生成しているはずである。
 この線で考えると、人間の場合、プラス化が強く生起していると考えられるのである。他の生命体の場合は、なんらかの原因で、マイナス化に閉鎖されているように思えるのである。とまれ、マイナス化が連続的同一性志向性エネルギーならば、プラス化は、差異共振志向性エネルギーとなるのではないだろうか。前者が下降エネルギーならば、後者は上昇エネルギーである。あるいは、超越エネルギーである。ここで、作業仮説として、マイナス化とプラス化の順序があるとしよう。最初は、マイナス化・連続的同一性化が進展するのである。その後、プラス化・差異共振シナジー化が進展するのである。この力学をどう考えたらいいのだろうか。これは、力学的には、人間だけでなく、他の生命体でも同様であろう。
 人間の場合の特異性は、言語使用にあると言えるだろう。もっとも、類人猿やその他のホ乳類も使用するが、人間ほど顕著ではない。人間以外の生命体においては、連続的同一性は、本能となり、個体ないし群れと環境が連続化していると言えるだろう。しかし、人間の場合、連続的同一性とのズレが発生しているのである。つまり、主体と対象(連続的同一性)にズレが生じているのである。このズレ、間隙を埋めるのが言語ではないのだろうか。言い換えると、即非相と連続的同一性様態とは矛盾し、齟齬の様相となっていて、人間主体は、連続的同一性様態を認識する必要が生じるのではないだろうか。何故なら、即非態とは、全知の様態であり、認識衝動なのであるから、当然、この、未知の連続的同一性様態=現象態を認識する必要があるのであり、ここで、言語が創造されると考えられるだろう。もっとも、最初は、絵文字や音声言語であったろうが。
 これで、人間の精神における即非態と連続的同一性様態との亀裂が、言語形成によって、いわば、隠蔽されると言えるだろう。そう、これはズレ・乖離・亀裂の解消ではなくて、隠蔽であり、疑似的連結である。つまり、言語行為・発話行為とは、即非態と連続的同一性様態の絶対的矛盾の疑似連結・隠蔽・糊塗行為であると言えるだろう。この差異を無視するのが、連続的同一性自我、近代的自我なのである。虚偽・欺瞞・詐欺的人格なのである。近代以前は、人間は、この差異を意識していたと考えられる。宗教、神話、民話等は、即非態の認識表現である。(しかしながら、近代では、これが、近代的連続的同一性=近代合理主義によって否定されるのである。この原因は何なのか。後で考察しよう。)とまれ、以上の検討から、人間精神における、即非相と連続的同一性様態との亀裂に対する言語認識形成の意味を明らかにしたこととしよう。
 では、本論の、何故、人間において、即非相が強く作動しているのかということを検討しよう。一つ考えられるのは、遺伝子ないしゲノムにおいて、物質化されないものが多くあるという事実から、この遺伝子が人間の即非認識衝動と関係しているのではないかという推測である。これはおいておこう。
 これは、まったくの作業仮説であるが、人間の出生の身体的未熟性に関係するのではないだろうか。よく、頭脳は発達しているが、身体は未熟であると言われる。しかし、身体が未熟ということは、頭脳も未熟ということと考えられる。つまり、遺伝子のエネルギー様態において、それが、完全に連続的同一性化されて、出生するのではなくて、不完全な様態で出生するということである。即ち、i*(-i)と-{i*(-i)}の中間態で出生するのではないかと、推測されるのである。他の生命体では、いわば、完全に-{i*(-i)}の様態で出生するのであり、だから、連続的同一性現象として、環境と連続的生存を営んでいるのである。
 しかるに、人間の場合は、即非相と連続的同一性様態との中間態・過程様相で出生するので、即非相のもつ認識衝動が他の生命体にはありえないほど優勢なのだと考えられないだろうか、と考えられるのである。これについては、後で、さらに検討したい。
 最後に、何故、近代において、即非相が否定されたのか、という問題を考察しよう。この問題は、私のトラウマみたいなものであるが、本稿の視点から考察するのである。明白なのは、近代化とは、連続的同一性化が支配・優勢的になったことである。言い換えると、唯物化である。そう、プロト・モダン(原近代)は、コギト主義に収斂するだろう。差異的同一性自己なのである。これが、空前の決定的革新である。つまり、何度も既述したように、中世キリスト教精神の崩壊・瓦解・解体が生じたのである。つまり、抑圧的ではあったが、道徳・倫理を規定していたキリスト教カトリック教会)が崩壊して、新たに主体精神の発動があったのである。それが、また、ルネサンスである。つまり、差異が発動したのである。中世においては、主体精神は、キリスト教によって抑圧されてきたのである。つまり、-i*(-i)⇒−1の様態であったのである。ここにおいては、主体iは否定されて、連続的同一性は、没主体的な他者(神・教会)の連続的同一性であったと言えるだろう。
 しかるに、キリスト教精神の解体によって、主体iが発動したのである。ルネサンスであり、コギト主義である。しかしながら、コギトとは、パスカルを見てわかるように、個体にとって、恐怖のような不安、実存的不安を引き起こすのである。優秀なライプニッツでさえ、予定調和という連続性を想定してしまったのである。そう、即非態とは、個体にとってまったくの孤独であり、不安、恐怖なのである。正に、単独性なのである。これは、凡人や劣弱な精神には、正に、耐えがたいものである。そう、不連続な主体、特異性であることは、耐えがたいのである。《自由》は耐えがたいのである(『カラマゾフの兄弟』の大審問官の話)。このことは、既述済みであるが、やはり、近代において、この即非態がむき出しとなり、そのために、個体は、連続的同一性中心主義になり、即非態・不連続的差異・特異性・単独性を否定・排除・隠蔽したと考えられるのである。もっとも、西欧は、即非態と連続的同一性の緊張関係があり、それが、西欧の個人主義や民主主義を形成してきたと言えるだろう(参照:toxandoria氏が説くオランダやベルギーの自律した民主主義)。
 しかし、問題は、絶望的に残念ながら、日本である。とりわけ、戦後である。あるいは、ロンヤス関係後の日本である。即非態と連続的同一性の緊張関係を喪失して、もっぱら、後者中心に堕落・腐敗してしまったのである。そう、動物・植物・鉱物化である。脱人間化である。サル人間化である。退化である。まったく、怯懦の日本人となったのである。
 この政治・社会問題は、日米関係にあるだろうし、日本の政治家の資質、そして、日本人の民度の問題である。ここでは、たくさんの問題があるが、一言ここで言うと、森田実氏に賛同して、日本人の独立不羈の精神の欠落が要因である。日本人の精神の問題なのである。本来、日本文化は、差異共振シナジー文化であるが、それが、解体してしまったのである。これは、日本の近代化に拠るだろう。とりわけ、戦後である。排仏毀釈は、国家神道・国家ナショナリズムを生み、日本人の精神を連続化したのである。神仏習合とは、差異共振シナジー精神によるものである。明治近代革命によって、日本人本来の精神が偏頗なものになってしまったのである。


Return to Singular Japan!
Resuscitate the dead country!
Make Exodus out of Modern Insane Japan!
Win Independence from USA!


コメント


■共振元と自己撞着元⇒シナジー空間における諸元の関係

海舌
http://blog.kaisetsu.org/?eid=498387
Theories for the Platonic Synergy Concept.
http://theory.platonicsynergy.org/?eid=441513
共振元と自己撞着元⇒シナジー空間における諸元の関係

『指し示し』(支配・被支配)の数学
by 明日野甘頓
kaisetsu (2007-01-01 03:05:52)


p.s. toxandoria様

新年おめでとうございます。

TBができないので、このページからTBします。よろしくお願いします。後同様です。
後でコメントします。
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20061228/p1
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070102