近代の「光」は暗く、陽光は明るい:モダンの闇からトランス・モダン

近代の「光」は暗く、陽光は明るい:モダンの闇からトランス・モダンの光へ


テーマ:ポスト近代的自我/ポスト近代合理主義


ここで、端的に、光とは何かを問題としたい。自己認識方程式から光を考えよう。
 i*(-i)⇒+1の左辺が、自己認識の「光」ではないか。左辺は、これまで、玄光・真如光・真光等と呼んでいるものである。差異共振シナジー即非態である。これを類似的に適用すると、太陽の光の定式もこれである。即ち、陽光も、i*(-i)で表現できるのである。
 しかし、問題は現象・物質化は、マイナス化である。即ち、i*-(-i)=i*i⇒−1である。すると、現象の光とは、−1となるのではないか。太陽光は、i*(-i)であると述べたことと齟齬することになる。この矛盾をどう解決するのか。(このことは、前々から、気にはなっていた事柄である。つまり、現象光・太陽光は、即非態なのか連続的同一性なのか、決めかねていたのである。)
 ここでも、直観で述べよう。私が、好きな景色は、海に近い川の土手の道の木立のある家の、晴天の光あふれる光景である。この光に感動するのである。これは、連続的同一性の光なのだろうか。物質としての光なのだろうか。これは、私の精神的視覚で捉えた光ではないのか。そうだと思う。単に肉眼で捉えた光ではないだろう。私の心身視覚で捉えた光であろう。これを、私は、コスモスの光と考えているのである。とまれ、i*(-i)の差異共振シナジー相としての光である。
 では、物質としての光はどういうことになるのだろうか。連続的同一性としての光は何処にあるのだろうか。ここで、量子としての光子を考えよう。それは、粒子と波動の相補性をもつと考えられている。量子とは、これまでの考えから見ると、メディア・現象境界上の「存在」である。というか、差異共振シナジー事象を現象界・物質界の視点から観察・把捉したものである。折衷的「存在」なのである。つまり、光と光子は異なるのである。光は、i*(-i)であるが、光子は、光を連続的同一性のスクリーンで把捉した様態となる。つまり、比喩的に言えば、光の影としての光子なのである。
 というように考えると、やはり、私の心眼で視覚した光はi*(-i)であり、それが、現象光・太陽光なのである。物理学で把捉した光は、光を連続的同一性・物質の視点から見たものに過ぎないと考えられるのである。そう、だから、物理学よりも、心眼の方が、太陽光を的確に捉えていると言えるだろう。そして、宗教上の光も、太陽光そのものと言えるだろう。阿弥陀如来の無量光、大日如来、御来光、天照、ゾロアスター教の光、聖書の光、等々は、太陽光そのものであろう。そう、太陽光は、正に、お天道様である。アポロである。この点は、今は、ここで留めたい。
 さて、では、何故、近代の理性・合理性は、暗いのか。これは、30年以上も前から思っていたことである。当時、直観的に、ニュートンガリレオの「光」は暗いと感じたのである。そう、近代合理主義の光は、暗いと、私は、長年感じてきたのである。ロマン主義の影響もあるが、「光は暗い」ともともと感じていたのである。それは、今から思うと病的な感性ではあるだろうが、近代合理主義の光は暗いということを示唆していた点では間違っていないと思うのである。近代合理主義は、これまでの検討から、物質的合理主義であり、連続的同一性の理性であるということである。これは、i*-(-i)⇒−1の倒錯なのである。これは、明日野氏が闇と定義したものなのである。明日野氏の定式から、近代合理主義の光は暗いことがわかるである。もっとも、それを光と呼ぶことが問題ではあろう。これは、啓蒙主義にも関係する。啓蒙の光は、明るかったのか。これは、暗かったのではないか。何故なら、近代合理主義と連続化していたからである。つまり、近代的自我と連帯していたから啓蒙主義は、暗いと言えるだろう。
 結局、近代合理主義とは、連続的同一性主義であり、現象物質主義であり、当然、差異を否定・排除・隠蔽しているので、暗いのである。光とは差異共振シナジーであるのに、近代合理主義は、それを否定して、光を物質化していいるのである。これで、本件の問題が解決されたとしよう。
 ここで、ダークエネルギーの問題について簡単に触れると、物質エネルギーは、連続的同一性の志向性である。それは、−のエネルギーである。しかし、光は、本来、i*(-i)⇒+1の差異的同一性のエネルギーである。つまり、現代物理学は、差異的同一性のエネルギー、+のエネルギーを捉えていないことになるだろう。これが、ダークエネルギーではないのか。もっとも、転倒しているのである。物質エネルギーは、闇であり、本当は、「ダークエネルギー」を呼ばれるべきである。そして、ダークエネルギーと呼ばれているものこそ、ライトエネルギーと呼ばれてしかるべきだろう。そう、結局、心眼で見ている太陽光を、近代合理主義は見ていないのである。
 最後に、D.H.ロレンスの黒い太陽、『老子』の玄牝、黒い聖母、等について少し考えてみよう。この「黒・玄」とは何か。以前の私の直観で言うと、イシスが闇で、オシリスが光である。イシスの闇からオシリスの光が生まれるのである。このイメージは今でも、否定しがたいものがある。私のイメージでは、闇から光が生まれるのである。夜明けを考えれば、わかるように、夜の闇から夜明けの光が誕生するのであり、そのイメージは崇高なものがあるだろう。この闇と「黒・玄」が関係すると思われるのである。
 ここでも直観で言おう。目映い(眩い)太陽を見ると、光が黒くなるだろう。この点では、黒い光になるのである。この目映さの黒さとは何か。盲目である。つまり、裸眼では、太陽を見つめることができないのである。盲(めしい)になるのである。これは、いわば、超光である。そう、この超光を指しているのではないだろうか。即ち、太陽光とは、超光ではないか。この超光を黒い太陽、玄牝、黒い聖母と呼んだのではないのか。だから、太陽光そのものである。この黒・玄とは、闇ではなくて、正に、超光であると思う。
 
初めに光ありき、それは、超光であった。そして、それは、即非ロゴスであった。(新ヨハネ福音書


参考:


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89

太陽光
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E9%99%BD%E5%85%89

原子核融合
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E5%AD%90%E6%A0%B8%E8%9E%8D%E5%90%88


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%99%B9

ゲーテの色彩論
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%86%E3%81%AE%E8%89%B2%E5%BD%A9%E8%AB%96

啓蒙思想
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%95%93%E8%92%99%E6%80%9D%E6%83%B3

ダークエネルギー
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%82%A8%E3%83%8D%E3%83%AB%E3%82%AE%E3%83%BC