精神と物質 4:光、認識、現象・物質化とは何か

精神と物質 4:光、認識、現象・物質化とは何か


テーマ:精神と物質:即非態と連続的同一性態


この問題は、プラトニック・シナジー理論の根幹の一つであろう。おそらく、これから、思考実験が何度も繰り返されることだろうが、近代的自我の検討の反復のようなことはないことを望んでいる(おそらく、そんなことはないだろう。近代的自我、近代合理主義の解明は、もっとも難しかったものであると考えられる。)
 先ず、認識と連続的同一性と物質化について整理しよう。私の仮説は、認識即存在である。志向性が存在を形成するというものである。これは、フッサール現象学の中に、ハイデガー存在論を包摂させていると言えるだろう。
 だから、連続的同一性志向性は、連続的現象・存在の形成である。この連続現象体は、当然、心身をもっている。つまり、知覚をもち、身体をもっている。これは、当然、人間だけでなく、動物・植物にも当てはまるし、また、奇妙に、怪しく感じられるかもしれないが、鉱物・無機物にも、当てはまると思える。つまり、鉱物・無機物にも、なんらかの知覚と身体を想定するのである。(これについては、別のところで検討したい。)
 シロクマは、シロクマの知覚をもち、身体をもっているし、スズメは、スズメのそれらをもっている。これは、異論がないだろう。これらの知覚/身体は、連続的知覚/身体と呼ぶことができるだろう。
 問題は、即非態とこの連続的知覚/身体との関係である。これまで、人間以外の動物・植物(・鉱物)には、即非態・差異共振シナジー態DRSを認めなかったが、ここで、考え直したい。一般的に、動物には、「母性本能」が強いと言えるだろうし、正しくは、言わば、「親(おや)性本能」・「母父性本能?」が強いのだろう。これをどう見るかである。これは、差異共振シナジー動態ではないのか。今、言えることは、それは、差異共振シナジー動態に何らかの関係をもっているということであろう。しかし、そのものとは言えないだろう。何故なら、差異共振シナジー様相とは、認識、自己認識を意味するからである。動物には、自己認識はなく、ただ、本能として、差異共振シナジー様相に似た結果が発現するということのように思えるのである。そう、思うに、動物の場合は、差異共振シナジー様相まではいかなくて、主客と他者とが未分化のように考えられるのである。猫は、主客と他者とが未分化であると思うのである。だから、動物には、差異共振シナジー様相は存在しないと考えることができるだろう。ただ、未分化的な相関的な様相はあるとは言えるのである。(思うに、ペットを飼うというのは、疑似差異共振シナジー様態を味わっているのではないだろうか。)
 では、この未分化な主客連続化の様態をどう定式化するのか。内在的連続化の記号を〜とすれば、i~(-i)と記述できるのではないだろうか。暫定的にそうしておきたい。
 では、人間の場合について、本テーマを追求して行こう。問題は、即非態と連続的同一性態との関係構造である。(明瞭にするため、即非態を共振態ないしシナジー態、そして、連続的同一性態を連続態ないし同一性態と呼んでもいいだろう。態の替わりに、相でもいいだろう。共振相・シナジー相、連続相・同一性相である。)
 人間が出生して、現象・物質化するとき、共振相が、連続相に転化する。虚次元・虚軸から実次元・実軸へと変換する。このとき、帰結的には(終局態・エンテレケイア)、連続態・同一性態としての人間が発生する。しかし、実際のところ、共振相が完全に連続相になったのではなくて、生成過程にあると考えられるのである。つまり、連続相への生成過程としての人間整形である。端的に言えば、言語獲得である。つまり、出生後、新生児は、言葉を憶えることになるのである。勿論、それ以前に、身体知覚経験が研ぎ澄まされるのであるが。
 結局、出生後、連続相への生成過程であるから、共振相/連続相の二重構成をもつと言えよう。あるいは、共振相⇒連続相のプロセスである。これは、連続的同一性志向性と呼んだものである。そして、成長し、言語獲得するときに、このプロセスは、共振相を否定して、連続相中心・優勢になると考えられるのである。つまり、主体/他者の関係で言うと、主体が他者を連続化して、他者を支配しようとする傾斜である。そして、これが、自我形成である。そして、この帰結として近代的自我が成立する。
 問題は、この連続相形成過程における共振相の意味合いである。当然、連続相形成過程においては、共振相は、連続エネルギーへと転換している。つまり、共振相潜在態(デュナミス)が連続相現実態(エネルゲイア)へと転換しているのである。だから、共振相自体としては、認識されずに、連続相・同一性相認識・自我認識を形成されると言える。
 では、問題は、共振相は、連続エネルギーへの転換で消滅する、又は、消費されるのかということである。ここで、作業仮説するのであるが、共振相は原則として零度であるから、連続エネルギーをプラスのエネルギーとすると、保存則的には、マイナスのエネルギーが作動するはずである。これは、比喩的には、潮の満ち引きのようなものであろう。つまり、連続相化に対して、脱連続相化のエネルギーが作用すると思われるのである。図式化すれば、
主体→他者、i→-i(→は連続相化)から、主体←他者、i←-iへの「相転移」ではないだろうか。これは、これまで、他者の同一性化と見たが、そうではなくて、共振相への回帰と考えられるのである。(先に、優越/劣等の二項対立について述べたが、それは、連続相化で十分説明がつくだろう。即ち、主体→他者の連続相化とは、他者を同一性化することであり、そこには、他者の力を受容するので、感受性的には、優劣感情が発生すると言えるだろう。)つまり、連続エネルギーのカウンターとして、脱連続・共振エネルギーが発動するのではないかと考えられるのである。これを仮説として、検討を進めよう。
 だから、結局、人間の認識においては、連続相・同一性認識と共振相・差異認識が併存することになると言えよう。そう、より正しく言えば、自然発生的には、両者が未分化として、あるいは、連続態として、併存している、ないし、混合していると考えられるのである。なぜ、未分化・連続態かと言うと、脱連続・共振エネルギー(差異エネルギー)とは、連続相・同一性認識の内に、内部に、発生するからだと考えられるのである。ここは、正に、不連続的差異論のブレークスルーの領域である。連続相・同一性相認識において、脱連続・共振相・差異認識が発生するので、両者が、未分化・連続化しているのである。言い換えると、両者が弁証法関係・否定関係にあるのである。そして、フランスのポスト・モダン、乃至、ポスト構造主義とは、この両者の未分化・連続態から脱出できなかったと言えるのである(後期デリダは除く)。つまり、差異の連続化、連続的差異=微分をここに仮説してしまうのである。また、大澤真幸氏のアイロニカルな没入もこの未分化・連続態で説明がつくのである。ここにあるのは、反動形式なのである。連続・同一性相という構造の彼岸は、差異ではなくて、未分化・混淆界であったのである。即ち、メディア/現象境界である。これが、ポスト・モダンの領域なのである。
 さて、ということで、脱連続・共振エネルギーが発動するが、それが、連続相・同一性相認識と未分化・連続態を形成するというポスト・モダンの様相を確認した。ここで、先に進む前に、近代的自我の反動様態について触れておくと、それは、ポスト・モダン様態になったときの反動態であると考えられるのである。連続相・同一性相・自我認識が中心化して、脱連続・共振エネルギーを否定・排除・隠蔽するのである。これは、暴力且つ狂気なのである。精神病化である。今日の自己愛性人格障害は、これで説明がつくだろうし、また、パラノイア化や統合失調症(「精神分裂症」)もこれで、おおよそ、説明がつくだろう。
 ここで、不連続的差異論のブレークスルーに関係するが、それは、以上の未分化・連続態を切断して、共振エネルギーを不連続化し、独立させたのである。連続相・同一性相とは不連続な、差異共振シナジー様相、差異共振シナジー相認識、即非認識、共振認識を確認したのである。これはどういう力学なのだろうか。完全な脱連続化である。そう、内在的超越化である。虚次元・虚空間化である。そして、それを明日野氏は、卓越的に、i*(-i)⇒+1と簡潔簡明に数式化したのである。これは、差異的同一性の公式とも言えるのである。そして、これこそ、差異共振シナジー様相と連続的同一性様態との共生・棲み分けである。ここには、差異共振シナジー的合理性、連続的同一性合理性の共創・共存があるのである。共生・共立である。簡単に言えば、差異理性と同一性理性との不連続な共立である。(カントは、この内在的超越的差異理性を捉えることができずに、物自体としたと言えよう。あるいは、実践理性としたのである。フッサールはこれを志向性や間主観性として把捉したと言えよう。)
 では、これはいったい何を意味するのか。零度への回帰、永遠回帰、内在的超越界への回帰とは何を意味するのか。結果的には、連続化の終焉である。自我、近代的自我の終焉である。近代合理主義の終焉である。モダンの終焉である。ポスト・モダンの超克でもあるトランス・モダンの開始である。人類のリセットである。これまで、宗教や神秘主義の領域であったものが、合理化されたのである。というか、宗教や神秘主義の純粋化と言ってもいいのである。これまで、それらは、連続態によって、反動化していたのであるから、プラトニック・シナジー理論によって、純粋化したのである。超宗教・超神秘主義でもあるのである。(これは、諸宗教の反動暴力性を解除して、共生的宗教へと変容させると考えられるのである。)
 そう、これは、やはり、一つのサイクルの終焉と見るべきではないのか。即非態から連続エネルギーが発生して、また、脱連続エネルギーが発生する。その終局が、零度への回帰である。私は、これをずっと西洋文明の終焉と見ているのである。あるいは、一神教・父権的文明の終焉と見ているのである。そういうことだと思う。エネルギー力学からそう言えると思うのである。
 さて、序論的部分を含み説明が長くなったので、本テーマの一つの光については別稿で論じたい。


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