精神と物質 5:光、認識、現象・物質化とは何か:その2:プラトニ

精神と物質 5:光、認識、現象・物質化とは何か:その2:プラトニック・シナジー・サイエンスの成立


テーマ:精神と物質:即非態と連続的同一性態


ここでは、主に、本テーマの光について検討したい。
 先の考察(精神と物質 4)から、連続エネルギーが連続的認識と物質化をもたらすと言えるだろう。人間以外の存在は、差異共振シナジー性が未分化(未成熟)であると仮説したのである。
 では、光をどう把捉したらいいだろうか。ここで、一つの作業仮説を立てて思考実験したい。光は、連続化しないという作業仮説である。つまり、光は、差異共振シナジー様相のまま、剥き出しであるということである。つまり、光においては、共振空間、虚次元空間そのままであるということである。つまり、永遠空間のままであるということである。ここには、本来、現象界の連続時空間の尺度は適用できないはずである。しかし、人間の知覚・認識・観測装置は、連続的同一性形式である(カントの超越論的形式)。ここに光を観測するときの根本・原理的矛盾があると言えるだろう。無限速度であるものを、有限連続時空間形式・尺度で観測するとは、完全な齟齬があるのである。これは、結局、結局、唯物科学の問題・限界である。
 とまれ、光の観測に関する脱近代科学(トランス・モダン・サイエンス)の第一歩は、当然、アインシュタイン相対性理論である。光速度一定とは、結局、有限時空連続態の固定枠から見た無限速度の光の速度ではないのか。マイケルソン&モーレーの実験は、エーテルを否定したのである。つまり、連続的媒体の否定である。とりあえず、そういうこととしよう。
 さらに、量子力学になるとこのことがさらに明瞭になると考えられるのである。光は差異共振シナジー様相ないし事象である(作業仮説)。ここには、差異とその零度共振シナジーが成立しているのである。それを、連続的時空間的に観測すると、粒子と波動の二重性をもつということになるのである。あるいは、両者の相補性を説くのである。また、非局所性が成立するのである。
 粒子について言えば、それは、唯物的アトム主義から発生していると言えるだろう。そして、波動は、粒子の振動ということで考えているのだろう。つまり、唯物科学観に拠るのである。しかるに、差異共振シナジー様相が量子の真相であると作業仮説から敷延できるのである。ここは、きわめて重要なポイントで、両者を絶対に混同してはならないことをいくら強調しても強調し過ぎることはないだろう。差異共振シナジー様相とはイデア様相であり、量子とは、それを物質科学から観測した像、連続的同一性像に過ぎないということである。
 ということで、差異共振シナジー様相i*(-i)における差異を物質化して、粒子ないし微粒子としているのであり、シナジー様相を物質化して、波動として観測していると考えられるのである。しかし、差異共振シナジー様相であるから、差異とシナジー相は分離できないない不可分なものなのである。即非態である。相補性とは、この即非態を物質科学的に説明する概念であると言えるだろう。また、非局所性であるが、それは、当然ながら、差異共振シナジー様相の無限空間を指していると考えられるのである。
 以上簡単であるが、ポスト唯物科学、ポスト相対性理論、ポスト量子力学、トランス・モダン・サイエンスとして、プラトニック・シナジー・サイエンスPlatonic Synergy Scienceが成立すると考えられるのである。
 そう、私が先に、心眼で捉えた光は、即非態であると言ったが、それが、この論考により、解明されたと言えよう。光は、即非態・即非相として剥き出しであるということである。太陽光即お天道様即大日如来阿弥陀如来即天照即アポロ即アフラ・マズダである。
 では、ニーチェが唱えたディオニュソスとアポロとはどう捉えたらいいのだろうか。そう、同じものであろう。差異共振シナジーによる差異的同一性がアポロで、シナジー様態がディオニュソスだろう。そして、これは、両者でコスモスである。そう、D.H.ロレンス等、多くの作家、芸術家、詩人が説いたコスモスとは、このアポロ且つディオニュソスとしての差異共振シナジー様相のことであろう。光の「浄土」である。古代人、中世人、ルネサンス人等は、まったく正しかったのである。近代人が狂っているのである。


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