イデアから現象への変換について:同一性化と連続化

イデアから現象への変換について:同一性化と連続化


テーマ:プラトニック・シナジー理論


結局、問題は、認識の問題である。自己と他者の間の認識問題である。i→(-i)⇒-1とし、(-i)→iはあり得ないと先に考えたのである。それ以前は、後者もあり得ると考えたのであるが。この点を再検討したいのである。

 iを内的自己、-iを内的他者としていいだろう。これが、即非様相を形成しているのが、イデア界である。i*(-i)である。確かに、論理的に言えば、双方向の連続性が考えられるだろう。i⇔(-i)である。しかしながら、ここで考えなくてはならないのは、iとは、心であり、認識志向性であることであり、-iは、身体であり、被認識志向性であるということである。つまり、自己にとって、他者の認識性をもつことができるのか、ということを考えると、それは、不可能である。他者は、他者であり、基本的には、不可知である。-iのもつ認識をiはもつことは不可能である。だから、そう考えると、(-i)→iはあり得ないとするのが妥当なように考えられるのである。

 とまれ、問題は、そのような心的連続的同一性-1が発現する以前の現象化である。即ち、i*(-i)⇒+1の現象化である。これは、ある意味で実に不思議な事象であろう。イデア界がほぼそのまま現象化しているような事象のように思えるからである。しかし、当然、厳密には、イデア界事象ではありえない。この即非的現象化をどう見るのか。

 ここは、いわば、心身一如のような様相である。D.H.ロレンス、その他の作家が言うコスモスの様相と言えるだろう。大乗仏教では、如来蔵である。まだ、阿頼耶識までは、展開していないのである。そう、無意識ないし純意識ないし原意識である。ここでは、自己と他者とが差異でありつつ、同一性化するのである。つまり、即非的関係が形成されているのである。(思うに、D.H.ロレンスの『無意識の幻想曲』の「無意識」の様相は、正に、これを指しているように思う。)

 問題は、この即非様相の意識とイデア界との関係である。つまり、+1とi*(-i)との関係ということになるだろう。

 ⇒+1となるには、イデア界において何かがあったのである。イデア界の出来事によって、⇒+1という結果(エンテレケイア)が発生したのである。

 ここで、思考実験だが、やはり回転事象が起因ではないだろうか。すると、虚数軸をイデア界として実数軸を現象界とすると、原点を中心にして、左回転が生起したとしよう。すると、±1が発生するのである。+1だけでなく、-1が発生するのである。

 とまれ、|1|を自己的個体(自己体)の発生としよう。思うに、現象自己体における即非様相とは、原点(0, 0)における様相なのではないだろうか。イデア界においては、原点において、iと(-i)とが即非共立共振していたと考えられるだろう。それが、1/4回転して、±1を発生させる。しかし、原点(0, 0)は、現象界にあっても、イデア界の通じているということになるのではないだろうか。つまり、大乗仏教で言えば、如来蔵に当たるのが、この原点(0, 0)ではないのか。

 そうすると、±1とはどういうことになるのだろうか。それは、意識の現象化を意味するのではないだろうか。意識の原点は正に、(0, 0)の如来蔵であるが、成長するにつれ、そこから離れて、±1を形成するということではないだろうか。そう、+1が正当な自己認識であるが、-1が倒錯した自己認識、即ち、自我認識ではないのか。『起信論』で言えば、阿頼耶識(アーラヤ識)が、±1を指すのではないだろうか。そして、+1を喪失して、-1 へと展開するのが、自我認識=無明(むみょう)であると言えるのではないだろうか。

 何故、-1へと展開するのかと言えば、人間の心的自己認識性の傾斜に拠ると言えよう。つまり、i→(-i)という他者に対する自己の連続的同一性志向性傾斜に拠ると言えよう。

 ここで、先に、(-i)→iはあり得ないと言ったことに関連させて、もう一度考えてみよう。現象化初期における±1の-1とは何だろうか。これは、i→ (-i)という連続的同一性志向性のことではないのか。傾向である。ならば、+1は、i*(-i)⇒+1という差異的同一性志向性ないし傾向であろう。

 ここで、原点(0, 0)と差異的同一性志向性+1との関係を考えたい。原点は、如来蔵である。しかし、これは、おそらく、前意識である。自己においては、「無」意識である。しかし、+1によって、前意識・「無」意識を真に意識化する作業に入るのではないだろうか。コギト(我思う)である。そう、原点(0, 0)では、コギトにならないのである。それは、前意識的即非様相である。先天的涅槃・真如である。これは、いわば、天然に付与されたものであり、誰にもある天才性であるが、それは、意識というか、自己意識を欠いているのである。

 といういことで、+1によって、前意識即非様相=如来蔵は、自己意識的即非認識へと進展すると言えるだろう。

 そのためには、-1を克服していかないといけないのである。そう、ここに人間の矛盾があるのである。現象生活において、+1と-1の両極的様相が生起していき、とりわけ、連続的同一性の自我様態性-1を強く帯びるようになるのである。無明=根元的無知に汚染されるのである。

 ここで、「教養」や知性涵養等の意味があるのである。そう、哲学や宗教の意味である。これが、+1の差異的同一性、自己的即非性への志向性を人間に目覚めさせると言えよう。しかるに、近代主義においては、+1の知性を否定する近代合理主義と近代資本主義が発達して、世界は、大カオス状態に陥ったのである。(現代日本の衰退ないし衰滅の原因はここにある。)

 ⇒+1の消滅、これが、近代文明であり、現代日本が、この典型である。欧米は、-1に対して、+1の知を維持してきたのである。個人・自由主義がそういうものである。

 そう、結局、⇒+1の知・叡智とは、『起信論』的に言えば、如来蔵・真如・「心」への回帰を意味すると言えよう。つまり、これは、原点の回帰であり、また、超越界への回帰なのである。原点は、この場合、内在的超越性の原点となると言えよう。つまり、実数軸と虚数軸の直交座標性をもった原点であるということである。

 この+1による原点回帰、垂直性をもった原点回帰(内在的超越性)であるが、これは、幾何学的には、さらなる、回転を意味するのではないか。現象化が、1/4回転ならば、新原点回帰とは、1/2回転の事象ではないのか。

 とまれ、-1が物質領域、+1が精神領域と言えそうである。では、問題は、現象の光をどう見るのか、である。

 そう、光とは何か、の問題がある。先に述べたように、±原光子ないし陰陽原光子の結合が光であると考えられるのである。白い光と黒い光の結合・合一としての現象光である。-1の光と+1の光があるのではないだろうか。ここでは、主観的述べよう。

 夜明けの光の精神的力、また、コスモスを感じさせる白い光、それらは、いわゆる、光子の光ではない。+1の光ではないだろうか。

 内界の光もある。それは、原点を介したイデア界の光ではないだろうか。

 では、光合成における光とは何か。
http://www.kagaku.info/faq/photosynthesis000403/index.htm
mic・(-ic)⇒Eだから、やはり、+1の光ではないのか。問題は、-1の光とは何かである。ic→(-ic)=ic*-(-ic)⇒-c^2である。だから、−のエネルギーである。それは、何か。暗い光?。ロレンスの説いた黒い太陽だろうか。

今は、ここで留めたい。