見るとは何か:光とイデア界

見るとは何か:光とイデア


テーマ:プラトニック・シナジー理論


先に、見ることは信じることSeeing is believingと言った。しかし、大乗仏教の考えでは、言語分節される知覚は、妄分別になるのである。つまり、主客分離型知覚・認識は、無明に入るのである。この点をどう考えたらいいのか。

 現象は、イデアの展開であると見ることができるだろう。ただし、不連続的展開である。目に見える世界、可視界は、不可視界・超越界・イデア界のある展開である。そう、だから、単に感覚の目ではなく、知性の目で見なくてはならないのである。視覚は、この点で、現象界に限定される。知的視覚があるのである。それは、精神的知覚とも言えるだろう。神秘家なら、霊的視覚と言うだろう。

 そう、イデア界の視覚があるのだろう。直観というのは、これを含むことができるだろう。知的直観。イデア的直観。

 連続的同一性的現象・物質的視覚とイデア的視覚があるのだろう。心眼とは当然、後者である。そして、近代的自我は、後者を喪失しているので、ものが見えなくなっているのである。無明である。

 つまり、i→(-i)⇒-1の連一性自我の視覚は、他者-iを否定するので、差異即非の様相=イデア的様相を知覚・把捉できないのである。ここに近代の狂気・愚鈍・悲劇等があると言えよう。人間は、堕天使となったのである。これが、神の死でもある。

 私がコスモスの光というのは、このイデア界に通じる光のことだろう。原点という内在的超越ポイントを介して、差異即非イデア界の光・原光を指しているのだろう。そう、現象において、確かに、イデア界の光はあるのであるが、人は、それを認識しないのだろう。

 ならば、光とは何か、である。というか、現象とは何かである。『大乗起信論』がやはり正しくて、現象とは、イデアのある位相変換ではないだろうか。しかし、内在的超越的ポイントである原点を通して、現象からイデア界をなんらか感知することが可能ということではないだろうか。コスモスの光とは、現象の光を介したイデア界の光のことではないのか。原点がメディア・ポイントになっているというこだろう。

 問題は何故、光が例外的な直截なメディア(いわば、聖霊的なメディア)なのだろうか、ということである。思うに、イデア界の本質は光・原光(無量光)であり、原光のデュナミス/エネルゲイアが充溢していると考えられるのであり、おそらく、それが、天体的には太陽や恒星となって、発光しているのである。簡単に言えば、イデア界は太陽として現象しているということである。

 では、イデア界の原光と現象光の関係はどうなのだろうか。先に思考実験的に、陰陽原光子(双極原光子とでも言おうか)という考え方を提示した。それを使えば、それが現象光に変換するのである。ここで、さらに思考実験して、陰陽ないし双極原光子の差異的同一性化が光としよう。だから、光には、内的にはイデア界が潜在していると言えよう。光を仲介することで、つまり、光を内的に知覚することで、すなわち、原点的に、内在的超越的に視覚することで、イデア界の原光に触れることができるのではないだろうか。

 どうもそのように思える。光の内部には、イデア界が超越的に潜在しているのである。だから、特に、光を介して、イデア界を直感できるのである。御来光、大日如来阿弥陀如来、アフラマズダ、天照大神卑弥呼(日御子、日見女)は、正当な精神的視覚(霊的視覚)と言えよう。また、この日の御子(「天皇」)とは、現象の太陽のことであろう。

 では、ついでに、月とは何かと考えると、それは、直感では、身体である。物質である。そう、-1である。月読み、ルナティクス、かぐや姫、フィービー、アルテミス、等々。それは、処女生殖に関係があるだろう。聖母マリア、大地母神。そう、大地である。ガイアである。月と地球の結びつき。-1? 後で再考したい。