文理統一理論としてのPS理論:現象学と構造主義と内在超越的原点

文理統一理論としてのPS理論:現象学構造主義と内在超越的原点


テーマ:プラトニック・シナジー理論


クザーヌスの『学識ある無知について』を読んでるが、これは、天才と鬼才の中間のような人の著書である。http://ameblo.jp/renshi/entry-10024871114.html
また、ほとんど読んでいない、メルロ=ポンティの『眼と精神』を読んでいる。
 メルロ=ポンティは、現象学の理論家の一人であるが、フッサールハイデガーの中間のような現象学のように思える。身体的現象学である。
 私のイメージでは、メルロ=ポンティの「存在」とは、イデア界=心界と呼ぶといいのではないかと思った。しかし、よく考えると、身体がいわばメディアになっているのである。身体を介しての存在を説いているようだ。だから、思うに、身体内存在である。ハイデガーの世界内存在とは異なる。
 私は、先に、身体は、イデア界=心界を内包していると述べたから、身体内存在という思想とは重なるだろう。ただし、これも直感だが、メルロ=ポンティの「存在」は、ハイデガードゥルーズ的に、内在論ないし連続論だと思うのである。フッサール的超越性を否定しているような向きを感じるのである。
 思うに、超越論という術語が、いわば、曲者である。これは、曖昧な言葉なのである。カントの超越論性は何なのだろうか。それは、構造性である。では、構造性とは、何なのか。
 私は、内在的超越性(内超性)と言うが、これは、虚数性を指しているのである。単に超越論と言ったときは、構造性だけではなく、内在的超越性を指し得るだろう。ここに混乱が生じるのである。言葉ではあいまいだが、プラトニック・シナジー理論では、まったく明確である。
 
 さて、ここで構造性としての超越論性を考えてみよう。内在的超越性は、虚数軸であり、現象軸は実数軸である。では、構造=超越論空間はどこだろうか。それは、虚数軸Y軸⇒実数軸X軸の変換内にあるのではないだろうか。それは、ある意味で原点(0, 0)ではないだろうか。原点が構造=超越論空間ではないだろうか。
 しかし、ここは、内在的超越性の契機ポイントでもあるだろう。これをどう考えたらいいのだろうか。原点を構造空間と見ていいのではないだろうか。そして、ここから、垂直に、超越化する虚数軸が本来の内在的超越性の超越性であると言えると考えられるのである。つまり、内在的超越性とは、出発点として、原点=構造性を含むのであり、それから、飛躍して、つまり、脱構造化して、虚数空間化したものと考えられるのである。
 
 以上のような考えが成り立つなら、原点と虚数軸の関係が問題になるだろう。これを連続と見ると、ドゥルーズの哲学のように内在論になってしまうのではないだろうか。だから、原点を特異点と見るのが正しいのではないだろうか。そう、不連続点である。そう見ると、不連続的差異論となり、さらには、PS理論となると考えられるのである。

 しかし、原点は、実数軸上にあるから、連続性を持ちうるのである。だから、原点は、特異性と連続性の両義性をもっていると言えよう。ここは、正に、メディア・ポイントと言うべきものではないのか。即非性であったり、また、連続的同一性であったりするだろう。だから、イデア界と現象界の境界である。イデア/現象境界としての構造=超越論性となるだろう。
 
 結局、ドゥルーズ哲学は、この原点(ゼロ・ポイント)の様態を反映した哲学であったと言えよう。つまり、特異性と連続的差異=微分を混淆させた哲学であったと言えよう。思えば、ドゥルーズ自身の構造主義の説明を読んで、私はポスト構造主義の説明と感じたものである。このような混淆が生じるのは、このことを考えれば、明白である。そう、構造主義は、必然的に、不明晰に、トランス構造主義、トランス・モダンを示唆するのである。それが、ポスト構造主義/ポスト・モダンなのである。有り体に言えば、構造主義ポスト構造主義=ポスト・モダンなのである。

 では、現象学は何なのだろうか。以上の考えからすれば、現象学構造主義もほとんど共通である。特に、ハイデガー/メルロ=ポイントの「存在」は、原点=構造を指していると思えるのである。ただし、フッサール現象学は、原点を超越していたと考えられるのである。現象学的還元、エポケーとは、連続性の超越であり、虚数軸空間への飛翔であると思うのである。

 では、志向性とは何か。それは、自己から他者への志向性であり、正に、i*(-i)⇒+1であろう。つまり、フッサール現象学は、PS理論の現代的先駆と言えるのである。

 問題は、原点において、iと-iとが対峙するが、初めは、原点は、特異点であり、iと-i とが即非共振様相となるのである。そして、これが、現象化して、+1となるのである。では、-1はないのかということになるだろう。

 思うに、特異点として原点においては、⇒+1となるが、連続性としての原点においては、⇒-1となるのではないのか。だから、現象界は二重なのではないのか。特異性、不連続性、即非性の視点から見ると、個体は、+1である。即ち、差異的同一性である。しかし、連続性の視点から見ると、個体は、-1で、連続的同一性となるということではないのか。もし、そうなら、それは、何を意味しているのだろうか。

 そう、やはり、二つの現象界があるのである。そして、二つの世界があるのである。不連続性の世界と連続性の世界である。これは、視点・認識の違いとも言えるが、思うに、聖書で言う「光の子」と「この世の子」の違いではないのか。とまれ、現象に即して考察しよう。

 直観では、原点を介して(メディアとして)、+1と-1との両者が成立するのである。では、+1の現象、-1の現象とは何だろうか。自我の現象と自己の現象である。無明の現象であり、叡知の現象である。意識の現象と「無意識」身体の現象である。これは、自然の二重性・二元論であろう。西洋の二元論とは、 -1から生じたものであろう。思惟と延長の二元論は、ここから発生したのだろう。i中心が思惟となり、-i中心が延長となったのだろう。これは、倒錯・転倒である。

 そして、東洋文明は、+1を保持したと言えよう。陰陽性である。-1が二項対立・弁証法性である。西洋文明である。そうすると、-1が父権制、+1が母権制と言えよう。男性と女性である。火星♂と金星♀である。ここで思いつきで言うと、不連続性の原点が太陽であり、連続性の原点が月ではないだろうか。そう、原点で、太陽と月があるのである。太陽原点と月原点である。

 以上は、認識の相違に関して区別したものだが、より現象自体に即すとどういうことなのだろうか。つまり、より身近な現象でいうと何だろうか。思うに、精神エネルギーが+1で、物質エネルギーが-1ではないのかと思うのである。

mc^2{i*(-i)}⇒mic・(-ic)⇒mc^2⇒+E
mc^2{i*-(-i)}⇒mic・-(-ic)⇒-mc^2⇒-E

である。二つのエネルギー、正負エネルギーがあることになる。

 もし、連続性が不連続性よりも、強ければ、負エネルギーの方が多いことになるだろう。これが、ダークエネルギーなのか。

 とまれ、二つのエネルギー、正負エネルギーが現象界にはあり、それらが、いわば、相克しているのではないだろうか。正エネルギーは生成であり、負エネルギーが破壊ではないのか。ネゲントロピーとエントロピー? 共振エネルギーと破壊エネルギー? 

 思うに、量子の波動とは、正エネルギーであり、粒子とは、負エネルギーではないのか。正負エネルギーが量子を構成しているのではないのか。つまり、量子は、一性(いつせい)ではなく、即非性であろう。異なるものが、不連続に、重なっているのではないのか。

 また、歴史的に言うと、ルネサンスは、+1であったが、近代は、-1の近代合理主義が主流となった。もっとも、正確に言えば、±1の相克が近代である。民主主義は、+1である。自由主義も、+1であるが、自我的になると、-1と重なる面が出て来るだろう。

 そう、当然、唯物論は、-1である。社会主義も-1である。資本主義は、唯物論的には、-1である。

 以上のように見ると、二つのエネルギー現象が現象界にあると言えるだろう。そして、特に人間の場合は、近代になり、-1が+1を圧倒するまでになったのであり、現代日本は、この極致である。

 -1の破壊エネルギーが世界を満たしているのである。+1の共振エネルギーを復活させないといけないのである。

 しかし、±1の様態の変化の発生の力学は何なんだろうか。一種の陰陽力学ではないだろうか。あるいは、陰陽的捩れの力学ではないだろうか。つまり、螺旋的力学である。i>-i、あるいは、-i>iだと−1へ傾斜する。しかし、±1は、同時存在しているのである。

 このように考えると、西洋文明は、i>-iによって-1へと傾斜したのである。しかし、陰陽力学は、揺り戻しがあり、おそらく、1/2回転して、再び、零度へと復帰するのである。これが、+1である。これが、新東西統一文明ではないだろうか。

 今は、ここで留めたい。