+1と-1について:知ー精神ー身体:i(知的認識衝動)*-i(身体的

+1と-1について:知ー精神ー身体:i(知的認識衝動)*-i(身体的感覚衝動)⇒精神的衝動


テーマ:自己認識方程式(i)*(-i)⇒+1関係


久しぶりに、最近亡くなった湯浅泰雄氏の著作に少し触れたが、この著書は著者も書いているように一般向けの哲学解説書であるが、思考を刺激する。
 ここで、思いついたことを展開してみよう。

 「魂」というのは、原点のことだろう。ゼロ・ポイントである。そして、ここには、iと-i、+1と-1が、十字に「結合」している。だから、「魂」は精神と同じであるし、ほぼ、「心」でもいいだろう。

 問題は、ゼロ・ポイント=原点において、イデア界と現象界が交差していることである。ここで、心身論問題が発生するのである。この問題が混乱するのは、「心」や「知」や「精神」等の意味の捉え方にあると言えよう。

 ここで、用語をより整合化するなら、ゼロ・ポイント=原点は、心身の原点でもあるということである。そして、これは、魂=霊性とも言えるのである。即ち、ゼロ・ポイント(原点)=心身の原点=魂=霊性である。

 思うに、この中心から、現象において、+1と-1が生起する。連続的同一性=物質性は-1であり、差異的同一性=精神性が+1である。この二重性が、いわば、人間現象に発現するのであるが、実際は、-1の「無明」・自我に覆われているのである。これは、唯物論であるし、素朴実在論でもある。近代主義である。(そう、近代主義は、いろいろな時代に発生したと考えられるのである。いちばんに近いところでは、西欧近代主義である。吉田健一の名著『ヨオロッパの世紀末』を参照。そう考えると、大乗仏教が、脱近代主義であることが自然に了解される。)

 つまり、-1の自我=無明が、+1の自己=精神を覆っていて、物質界に人間を閉ざしているのである。

 さて、iと-iについて考えると、iが男性性♂であり、-iが女性性♀ではないだろうか。道教で言うと、陽と陰である。(だから、太極とは、虚数軸の様相・位相ではないのか。)

 とまれ、そうすると、人間は、男性性と女性性の両極から成立しているのである。これは、ジェンダーであり、性とは関係ないだろう。物質的に、男性であっても、女性性の強い人もいれば、逆の場合が当然考えられるだろう。

 だから、iは能動性、-iを受動性と呼んだ方が的確だろう。私は、これまで、iを心的主体性、-iを身体的他者性と呼ぶことが多かった。そう、能動性/受動性、認識性/感覚性、等々とした方がいいだろう。そうすると、先に、何度も検討した、iと-iの関係問題がはっきりするだろう。

 即ち、i→(-i)はあるが、i←(-i)があるのかどうかという問題である。

 とは言え、やはり、問題がある。i^2と(-i)^2ともに-1である。だから、理論的には、i←(-i)がありえるのである。これは、受動性の能動性という矛盾した事態になってしまうだろう。

 やはり、i=知的認識性、-i=身体的感覚性とした方がいいのかもしれない。そして、両者に連続的同一性の志向性を認めるのである。そこで、i=知的認識性=男性性、-i=身体的感覚性=女性性と見ることにする。もっとも、これは、一般的様相である。

 ユング的に言えば、両者の「錬金術」的結合が+1であろう。そして、両者各々の連一性が-1ということになろう。そして、人間においては、両者が混淆していることになる。混合態としての意識である。

 自我は、iと-iを意識において共振させられずにいるのである。もっとも、無意識においては、共振性+1が存しているのではあるが。

 ならば、身体と心をどういうことになるだろうか。私は内的身体性と呼ぶものは、一般に外的身体・肉体とは異なる。思うに、内的身体とは、i*(-i)の空間のことである。知的認識と身体的感覚の中間態としての内的身体(=心身性)である。そして、思うに、メルロ=ポンティのいう身体もおそらく、この内的身体を含んでいるのである。つまり、メルロ=ポンティの身体とは、外的身体とその「内部」の内的身体の両者を混淆的に指しているのである。つまり、メルロ=ポンティは、混乱しているのである。物質と精神=心身性とを混淆しているのである。これは、ベルクソンに通じると思うのである。(そう、中沢新一の霊的唯物論という考え方も、これとほぼ共通だと思うのである。混濁した考えである。因みに、シュタイナーの霊=スピリットの考えだが、思うに、二種類の悪魔、アーリマンとルシファーをバランスとしてのキリストを捉えているが、アーリマンをi=知的認識、ルシファーを-i=身体的感覚として、キリストを+1とすれば、シュタイナーの思想はPS理論に通じるのではないのか。これについては後で検討したい。)

 そう、外的身体・物質的身体とは、-i*(-i)⇒-1のことであろう。だから、内的身体をそれとは明確に区別する必要がある。これは、また、スピノザ哲学の問題とも関係する。スピノザの心身平行論の問題があるのである。

 内的身体とは、やはり、両義的原点である。不連続性と連続性の両義性があるのである。だから、混淆態なのである。+1と-1の両面がもつのであり、メルロ=ポンティの身体は、内的身体であり、同時に外的身体=物質的身体と精神性(心身性)の両義性をもつのである。

 だから、内的身体という言葉は要注意である。だから、両義的身体と言った方がいいのかもしれない。そう、メルロ=ポンティの身体は両義的身体と考えよう。

 そこで、スピノザの心身平行論を考えると、先にも触れたが、スピノザの心は、精神となっているのであり、知性と混淆しているのである。歓喜や悲しみの感情をスピノザは、精神・心に入れているのである。しかしながら、精神的感情を、知の側に入れるのは、少し問題である。当然、それを、身体的感覚に入れるのも問題であろう。精神的感情とは、知的認識と身体的感覚の中間で発生すると見るべきである。つまり、心身態としての精神的感情である。歓喜とは、知と身体とが共振化したときの、精神的様態であり、悲しみとは、知と身体とが不共振であるときの精神的様態と見ることができるのではないだろうか。

 スピノザ哲学には、第三の様相が欠けているのである。精神=心身様相が欠けているのである。スピノザ哲学的に言えば、第三の属性である精神=心身様相が欠けているのである。というか、実際はあるのであるが、それを、知と混淆させているいるのである。すると、知ー精神ー身体という三相様相が発生することになるだろう。(p.s. 精神はコスモス的様態でもあるだろう。精神=コスモス様態=イデアであろう。)

 ということで、内的身体とは、精神と外的身体の混淆相である。そして、メルロ=ポンティの「存在」とは、精神=イデアのことと言えるだろう。

 以上から見ると、ユング心理学の個性化とは、陰陽共振シナジー性認識のことと言えよう。これは、仏教の脱自我と同じである。ただし、ユング自身は、混乱していて、自我と自己の統合と言う。脱自我としての自己認識の形成と言うべきである。

 最後に、+1と-1の関係を考えてみたい。ここで思考実験だが、iと-iが斥力の関係にあるとき、-1となり、引力の関係のときに +1になるのではないのか。斥力が反共振性であり、引力が共振性である。この斥力・引力の両極が現象に発生すると思うのである。人間で言えば、自我と自己の発生である。そして、近代的自我は、自己を否定・排除・隠蔽しているのである。

 そう、言及するのを忘れていたが、水と火の結合ということは、-iとiとの共振化を指していると見るべきだろう。そして、聖書の天地創造の前に、神の霊が水の上に流れていたというのも、同様のことであろう。神の霊がiであり、水が-iであろう。火=iであり、水=-iである。そして、-1が自我/物質身体であり、+1が自己/精神ではないだろうか。簡単に言えば、物質と精神である。

 思うに、物質エネルギーが-1であり、精神エネルギーが+1ではないだろうか。そうすると、問題は光とは何かとなるだろう。ここで、仮説として、斥力が弱い力、引力が強い力、そして、重力が-1、光が+1である。即ち、
mci・ci⇒-E、m(-ic)(-ic)⇒-Eであり、mci・(-ci)⇒+Eである。

ここで、父権制母権制について、修正しておくと、これらは、対称性をもたない。父権制は、知的認識衝動の過度のものであり、暴力となる。母権制は、知的認識と身体的感覚とのバランスをもつものである。これは、また、女性の霊性である。巫女である。

 現代の心性の問題であるが、知的認識の連一性化と反動としての身体的感覚の連一性化があるのではないだろうか。前者が唯物科学であり、後者が物質的欲望ではないのか。男性は、知的認識の自我的暴力に染まり、女性は、身体的感覚の自我的暴力に染まるのではないだろうか。近代的合理主義暴力と近代的反合理主義暴力である。後で、再検討したい。


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哲学の誕生―男性性と女性性の心理学
(京都)人文書院 (2004-07-31出版)

・湯浅 泰雄【著】

http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4409040685.html

参考
http://smbs.gr.jp/main/modules/xfsection/index.php?category=5