差異共振シナジー・エネルギーの発現の仕方:その2:超人類への進化

先の考察とは、角度を変えて考察しよう。

i*(-i)の差異共振シナジー・エネルギー(以下、共振エネルギー)がある。これは、原点(0, 0)をメディア・ポイントとして、連続的同一性(以下、連一性)と差異的同一性(以下、差一性)の両極に展開しうると言えよう。両者、現象化であるが、連一性は、原点における連続性の層において形成され、差一性は、原点における不連続性の層において形成されるだろう。

 言い換えると、連一性は、連続して、現象界に限定されているのである。あるいは、物質界に限定されているのであるが、差一性は、不連続性の層にあり、確かに、現象化しているが、差異共振エネルギーを帯びているのである。換言すると、超越性を内包しているのである。イデア界に通じた同一性なのである。現象界にありながら、イデア界に触れているのである。

 比喩的に言えば、闇の同一性と光の同一性と言えよう。あるいは、物質の同一性とイデアの同一性と言えよう。

 この現象化の不連続な二重構造に注目しよう。原点=メディア・ポイントにおいて、連一性と差一性は、接しているが、通常の現象化では、連続性が強力なために、差一性は排除・隠蔽されていると言えよう。いわば、差一性は、「無」意識様態である。

 この点がきわめて重要な論点である。そして、PS理論の核心の一つである。連一性的現象化とは、原点を中心にして、差一性を排除隠蔽しているのである。そう、差一性は存在しているのであるが、それを否定して覆い隠しているのである。目隠ししているのである。存在するものを、無いものとして扱っているのである。つまり、連一性エネルギーが主導・優越的になっていると言えるだろう。しかし、エネルギーのバランスから見て、当然、エネルギー交替があって、差一性エネルギーが主導・優越的になる事態が発生すると言えるだろう。

 このとき、連一性が「頑迷固陋」であると反動化して、差一性エネルギーを阻止し塞止めると言えよう。これが、狂気・倒錯・錯誤・妄想・傲慢・暴力・犯罪等を生み出すと言えよう。そう、連一性のままだと、宗教に洗脳される恐れがあるのであるし、また、「アイロニカルな没入」となって、全体主義的になるのである。

 そうすると、共振エネルギーは、連一性エネルギーと差一性エネルギーを同時に生み出すのであるが、しかし、傾斜があって、前者に傾いたり、後者に傾いたりすると思われるのである。

 連一性エネルギーをマイナス・エネルギー(負のエネルギー)、差一性エネルギーをプラス・エネルギー(正のエネルギー)としよう。そして、共振エネルギーは、零度のエネルギーである。そう、ポテンシャル・エネルギーである。これが、マイナスとプラスの極性をもって変動するのである。

 近代主義は、本来、両極エネルギーをもっていたが、連一性エネルギーに傾いて、差一性エネルギーが排除・隠蔽されたである。近代合理主義、唯物論、近代的自我の発生である。
 
 しかし、エネルギー極性の変動によって、差一性エネルギーが賦活される。それが、トランス・モダンへの志向であると言えよう。しかし、連一性が強固であったので、ポスト・モダンのような中途半端の事象が発生したのである。それは、まだ、モダンに囚われているために、真にトランス・モダンに転換できなかったのである。

 そう、既に、差一性エネルギーが主導・優越的に賦活されているのであるが、連一性のフレームが強固のために、反動様態になっているのである。現代日本が正にその陥穽にはまっているのである。日本だけでなく、世界でもそうだろう。

 PS理論は、この差一性エネルギーの根源が、共振ポテンシャル・エネルギー=超越エネルギー=イデア・エネルギーであるのを確認しているのである。そう、この超越エネルギーをもつ差一性エネルギーを認識することで、モダン/ポスト・モダンの袋小路を脱することができるのである。

 ここには、mic*(-ic)⇒Eの強大なエネルギーが潜在していると言えよう。これは、近代的な心身二元論からトランス・モダンの心身共振論への変換とも言えよう。物質エネルギーから超越エネルギーへの転換と言えるのではないだろうか。

 このときも、連一性エネルギーは残っているだろうが、それは、劣位のものとしてあるのである。イデアが主であり、物質は従となると言えよう。

 とまれ、トランス・モダンの世界の到来となる。物質エネルギー中心から超越エネルギー中心へと転換すると言えるだろう。

 物質ヘの配慮をもちつつも、イデア・超越性への思慮が主軸になると言えよう。これは、人類の知的進化を意味しよう。

超越界・イデア界・叡知界が地球規模で回帰するエポックとなったのである。永劫回帰である。

超越人類への道が、開けたのである。ポスト人類・超人類の進化が始まったのである。

p.s. 連一性と差一性のエネルギー交替を時間過程的と見るよりは、エネルギー保存則の発想で見た方が的確なのかもしれない。もっとも、まだ、すっきりとしない。後で再考したい。