差異共振シナジー・エネルギーの発現の仕方:その3:地人類史におけ

差異共振シナジー・エネルギーの発現の仕方:その3:地人類史における-1の事象と+1の事象の相補性


テーマ:自己認識方程式(i)*(-i)⇒+1関係


差異共振シナジー・エネルギー、すなわち、イデア・エネルギーについてさらに考察を続けると、これは、デュナミス=ポテンシャル・エネルギー=可能態ないし潜在態である。これは、垂直的エネルギーである。

 これが、水平化するのが現象化である。思うに、±1の両極に現象化するのではないだろうか。そう、一般に生命体はそのようなものではと思う。おそらく、 -1が♂で、+1が♀である。しかし、これは、単極的ではなくて、双極性における傾斜である。すなわち、雌は、双極性における+1で、雄は、双極性における-1である。そして、双極性の力学は、+1と-1は牽引力が働くということだろう。これが、性的力であろう。これは、人類でも同じであろう。男性は、- 1から+1を志向する。つまり、イデア界を志向するのであり、女性は、+1から-1の現象界を志向するのである。これで、女性が外見にだまされやすいのがわかるだろう。女性は本来イデア界的存在なのであり、それが、現象化へと志向するのである。だから、自然現象的である(p.s.  思うに、女性の性的志向性は、二重であろう。外見と内面の両方向に魅かれる、あるいは、引き裂かれるはずである。外見の恋人と内面の恋人の二人を志向するのではないだろうか。性に関する達人であったD.H.ロレンスの『てんとう虫』を参照。そこでは、女性(ダフネ)の二人の恋人が出て来るのである。昼の恋人(夫)・バジルと夜の恋人・ディオニスである。)。それに対して、男性は本来現象界的であり、それでイデア界を志向するのである。しかし、連一性のために、世俗権力を志向してしまうのである(と思う)。

 さて、本論にもどると、垂直的超越エネルギーが水平的現象エネルギーに転化するのであるが、これは、本来、両極・双極・対極的であり、i*(-i)⇒± 1であると思われるのである。-1が物質であり、+1が精神である。だから、動物にも精神があるのである。人間の場合は、エネルギーの強度が他の動物よりもはるかに強いと思われるのである。そして、連一性(連続的同一性)に傾斜していると考えられるのである。だから、言語を作り出したと言えよう。
 
 即ち、人類は、エネルギーの現象的発出が-1に傾斜して、非対称的となっていると考えられるのである。だからこそ、智慧・叡知が必要なのである。これを賢者は太古から説いてきたのである。しかしながら、一神教的西洋文明は、-1の物質主義文明を構築して、ほぼ智慧・叡知を排除してしまったと考えられるのである。(現代日本はこの帰結を呈しているのである。欧米文明は、確かに、-1が強いものの+1を内包しているのである。個人主義の個がそうである。個主義と言おう。)

 思うに、人類の場合、自然の均衡秩序性から見て、相補性となるエネルギーが流入すると思われるのである。-1のエネルギーに傾斜しているので、+1のエネルギーの流入が必要なのである。これが、いわば、神の流入・参入である。「聖なる侵入」(P. K. ディック)である。端的に言えば、イデア界の参入(介入)である。

 そう、この相補的エネルギー事象が自然の均衡秩序ないしエネルギー保存則に適合していると考えられよう。西洋文明は、実に、この人類的傾斜の発現・顕現であり、帰結であると考えられるのである。そして、現代のような地球規模のカオス事象となっているのである。自然・宇宙秩序・コスモスの喪失があるのである。当然ながら、自然は、+1のエネルギーを介入させるのである。バランスを取るためである。これは、歴史的には、宗教的衝動となったと考えられるのである。例えば、鎌倉時代の土着的仏教の発生がそういうものであると考えられるのである。大地・草の根から生まれた仏教である。(ここで、なぜ、大地や身体が重要なポイントであるか解明する必要があるだろう。)あるいは、世界宗教の発生がそういうものだろう。あるいは、日本の民間宗教(大本教天理教等)の発生がそういうものだろう。(大乗仏教にしろ、キリスト教にしろ、イスラム教にしろ、本来、土着的な民間的宗教であろう。)

 ここに人類史の秘密・内奥のポイントがあるだろう。つまり、人類は、-1に傾斜しているので、「神」からの参入を必要としているということである。他の動物・生命体には、「神」は必要ないのである。彼らは、言わば、神的動物である。しかるに、人類は、反神的動物なのである。だからこそ、神的エネルギーの参入・介入・侵入が必要なのである。もっとも、知的に言えば、イデア界のエネルギーの参入である。超越エネルギーの参入である。

 とまれ、自然即神、即ち、自然秩序=エネルギー保存則秩序の視点から見ると、必然的に-1の人類の営為に対して、自然の+1のエネルギーが作用する事象が発生すると考えられるのである。

 結局、整理すると、人類は、イデア界のエネルギーを内包(超越的内包)しているが、-1に傾斜しているので、当然、自然秩序均衡から見て、+1のエネルギーが作動すると言えるのである。これが人類の本性の秘知である。-1のエネルギーの作動にバランスを取るために、+1のエネルギーが作動するのである。これは、反作用・反動とは違うものである。-1に捩れているので、それが、零度に回帰するために、+1へと志向するのである。即ち、差異共振シナジーへと回帰するのである。ここでは、零度イデア界への回帰と⇒+1の現象(差異的同一性)は、同一の事象を意味すると言えるのである。

 結局、根本に考えると、人類には、-1の志向性と+1の志向性の発生にズレがあるのが判明するだろう。他の動物・生命体においては同時発生であるが、人類は、-1に傾斜しているので、それに遅れて+1の志向性が発生すると考えられるのである。そして、今や、ポスト西洋文明として、トランス・モダン文明が発動していると考えられるのである。それは、女性的文明となるだろう。新母権的文明となるだろう。新イシス文明である。新東洋文明である。

 では、最後に、上記の宗教の大地・身体性について考えてみよう。鈴木大拙は『日本的霊性』でこのことを明確に説いている。なぜ、大地なのか。ニーチェも説いている。コスモスの作家のロレンスも大地を説いているのである。そう、ロシアの文豪も大地的である。(ロシア文化は大地とコスモスと宗教の強度をもつと言えよう。)

 そう、私は、これについて不思議に思っていたのである。つまり、霊性が地に宿ることを不思議に思っていたのである。本来、反対のものであるはずなのに。つまり、天こそ、霊性にふさわしいと、普通は考えられるだろうが、大地に霊性が宿るのである。

 先に述べたように、人類は-1、即ち、連続的同一性に傾斜しているのである。これは、i^2 or (-i)^2⇒-1を意味しよう。これは、人工である。世俗社会である。自然を排除した世俗社会である。自然は、±1であるが、+1の差異共振シナジー・エネルギーを内蔵しているのである。この+1のエネルギーは、原点のエネルギーでもある。それは、知と身体の共振するエネルギーである。知を天、身体を地とすれば、これは、天地共振エネルギーである。そう、この天地共振エネルギーは、当然ながら、天地を貫くエネルギーである。それは、また、当然、大地を貫くものである。これが、大地志向の意味であろう。霊性(天地共振エネルギー)は、大地のエネルギーをもつのである。(このように考えると、ロシア文化とは、天地共振エネルギー文化であることがわかるだろう。ロシアは東洋的なのである。)-1の俗世間文化社会に対して、大地の霊性が発動するのである。

p.s. D.H.ロレンスの性の哲学は、思うに、原点のエロースであり、プラトンのエロースと究極的に一致すると思われるのである。前者は、一見肉体を強調しているようだが、その肉体には、霊性があるのである。イデア界があるのである。そして、プラトンのエロースは一見肉体がないように思われるが、肉体という基盤の上からイデアへのエロースが進展するのである。ただ、方向が逆なだけであると考えられる。
 
 先にモームの『月と六ペンス』に関して述べた身体的霊性は、正に、これと同じである。では、この肉体・身体は、何なのか。これは、大地と関係すると思う。これは、(-i)^2⇒-1の倒錯した物質的身体ではないのである。これは、i*(-i)⇒+1の様態における身体であると言えよう。つまり、二つの身体・肉体があるのである。連続的同一性の身体と差異的同一性の身体があるのである。これらを区別する必要があるのである。とりあえず、物身体と魂身体と呼んで分けよう。身体的霊性と言うときの身体とは、魂身体である。すると、大地に関しても、同様の区別ができよう。物大地と魂大地である。
 
 とまれ、ロレンスの説く性的エロースとは、正に、原点のエロースである。それは、現象界とイデア界の両面をもっているのである。ロレンス自身、近代化された誤ったプラトン理解をもっていたので、プラトニズムを否定したが、実は、20世紀の真正なプラトニストだったのである。これは、実に重い皮肉である。日本の司法は、真正のエロースを猥褻と判決したままなのである。日本の公的倫理観は倒錯しているのである。日本の司法の考えが猥褻なのである。

p.p.s. もう少し、身体・大地の内蔵するイデア性について精査してみよう。これは、『起信論』では、如来蔵である。この意味を緻密化したい。観念的連続的同一性は、身体を排除する。これは、正しくは、原身体-iの排除である。そして、また物質身体的連続的同一性は、知性を排除する。これは正しくは、原知性iの排除である。結局、排除されたi*(-i)の差異共振シナジー・エネルギーはどこにあるのか、である。

 ここで、先に内的身体と呼んだものを想起するといいだろう。これは、原点の身体である。正しくは、原点の心身性、魂性、精神性である。連一性の自我は、いわば、頭脳であるから、頭の局所性をもち、連一性の身体は、外部的である。ここで、原点はどこに顕現するかと考えると、頭部以外の内的身体であると考えられるのである。これは、本来は、心身・魂・精神であるが、頭部を連一性観念が占めるので、それは、内的身体を占めると考えられるのである。そう、内部身体あるいは内臓的身体が心身・魂・精神の空間である。これは、正に東洋身体論そのものである。(如来蔵の蔵という考えは、身体的である。)

 結局、内的身体とは、内臓的身体なのである。臍下丹田である。肚である。さて、これで身体・内・イデアメルロ=ポンティの身体現象学は、これを示唆しているのではないだろうか。p.s. メルロ=ポンティの身体現象学は、以下で述べる身体=大地霊性論と共通するのではないのかという予感・予想があるのである。彼の「存在」とは、イデアと見ればいいのである。身体・内・イデアとなる。)の説明が済んだが、では、大地論はどうなるだろうか。ここで、二項対立論hierarchical binaryを考えるといいだろう。

 それは、脱構築理論でよく知られたように、優劣二元論であり、天を優位に、地を劣位に置くものである。この場合、天が理性であるが、この理性とは、実は、連続的同一性知性である。そして、劣位の地(大地)とは、実は、否定された差異共振シナジー性=精神・魂・イデアを見るべきなのである。先に父権神話について言及したが、女神が差異共振シナジー性であり、それが否定されて怪獣とされたのである(フンババやティアマト)。そして、勝ち誇った父権的英雄が退治した怪獣から天地を分化的に創造するのである。そして、天を優位に地を劣位に置くのである。このヒエラルキーは、実は、対称・連続的ではなく、不連続的、質的差異があると考えられるのである。つまり、天は、連続的同一性であり、地は差異共振シナジー性である。そう、正確に言えば、地は、二重化されているのである。一つは、連一性の天と相補する地であり、一つは、差異共振シナジーイデアないし天地共振のイデアである。

 だから、大地とは、連続的同一性化=物質化された地という意味をもつが、しかし、この連一性化された地は、連一性化された天と等価である。だから、もう一つの地、すなわち、差異共振シナジーイデアとしての地であると見ることができよう。これが、『日本的霊性』で鈴木大拙が述べた大地性の意味であると考えられるのである。つまり、大地は本来は、天地共振シナジー空間であるということである。イデア空間である。

 女神とは、地に落とされたわけだが、この地=大地は、本来、天地共振様相なのである。もう一度説明すると、初めに差異共振シナジーの女神が存している。これが、連一性的父権化によって、二元化されるのである。そして、父権的価値観は、天を優位に、地を劣位にする。そして、滅ぼされた女神の身体は地へと落とされる(しかし、考えたら、女神の身体が天と地に分けられるのだから、天も女神的なのである、本来)。天地二項対立が発生し、女神や女性は劣位に置かれる。つまり、差異共振シナジーイデアが劣位に置かれるのである。否定・排除・隠蔽されるのである。

 そう、天地の二項対立とは、天を優位、地を劣位にするが、それは、逆も真である。これは、地が優位、天を劣位という二値論理に過ぎないだろう。結局、ここには、第3項が排除されているのである(参照:今村仁司氏の排除論)。第3項とは、本来は、第一項である。あるいは、第ゼロ項である。つまり、第ゼロ項 ⇒二値論理(二項対立・二元論)⇒第3項であろう。

 ここで、身体論に即して考えると、頭部=天となり、物質的身体=地となる。しかし、差異共振シナジーイデアは、宇宙空間的には、天になく、地にもなく、地中にあるはずである。これが大地の意味であろう。そう、大地とは、地中ないし地下の意味であろう。これが、内的身体に対応するものであろう。内臓的大地である。これで、明確に、精緻に、『日本的霊性』の大地霊性論が解明されたであろう。そう、法華経で地湧というのは、正しいのである。また、地蔵という考えも正鵠を射ているのである。また、折口信夫が『死者の書』で最後の場面で、地から湧き出す菩薩を示唆しているのも正しいのである。大地・地中・地下とは、原点=メディア・ポイントのことなのである。

 ここで、思考実験だが、垂直方向、鉛直方向とは、Z軸ではないのか。虚数軸と実数軸に直交するZ軸の方向ではないのか。マイナスZ軸が鉛直線方向で、プラスZ軸が垂直上方方向ではないのか。それぞれ、地と天の方向となるだろう。上下である。では、左右は、実数軸ではないのか。前後は虚数軸ではないのか。後で検討したい。