女性と男性について:『嵐が丘』における悲劇から喜劇への転換につい

女性と男性について:『嵐が丘』における悲劇から喜劇への転換について:PS理論の視点から


テーマ:ジェンダー


どうも、左回転、右回転という考えを持ち込んだら、混乱してしまったので、それは、置いておきたい。

 混乱の原因は、⇒+1と⇒-1の考え方にある。私は、虚数軸が実数軸へ転換することを考えていたが、それが誤りだと思う。そうではなくて、虚数軸のiと -iとは、差異共振様相のときは、+1へと転化し、連続的同一性様相のときは、-1へ転化すると、単純に見ればいいと思うのである。つまり、軸の変換ではなくて、実数軸上の転換と見るべきなのである。

 では、それに基づいて考え直してみよう。すると、男性は、知性による連続的同一性、即ち、i*-(-i)⇒-1の傾斜があるとなるだろう。そして、女性は身体による連続的同一性化、即ち、-i*(-i)⇒-1の傾斜があるとしよう。

 -1は、差異的同一性の否定であるから、差異共振シナジー・エネルギーが抑圧されていると言えよう。とまれ、以上の作業仮説によれば、男性は身体を否定し、女性は知性を否定することになるだろう。少し異論もあるが、この線で考えよう。

 そう、問題は意識と無意識である。男性はiに傾斜して、女性は-iに傾斜しているとしよう。つまり、男性の意識はiに傾斜し、女性の意識は-iに傾斜していると考えるのである。

 そうすると、男性は-i=身体に無意識であり、女性はi=知性に無意識であるということになろう。

 そういうこととして、先の考察、すなわち、『嵐が丘』のキャサリンの考察をやり直そう。

 ヒースクリフとキャサリンは、男性と女性の典型かもしれない。ヒースクリフは、キャサリンを自我的に独占化する。キャサリンは、身体的に、ヒースクリフを同一性化する(「私はヒースクリフ」)。しかし、キャサリンは、やはり、身体的に、金持ちのエドガーと同一性化するのではないのか。否、違うだろう。エドガーに対しては、無意識的な知性が反応しているのではないだろうか。貧乏人のヒースクリフと結婚したら、一生貧乏のままであると、キャサリンの無意識の知性が考えているのではないのか。キャサリンの自我は、無意識的であり、同一性が欠落していると言えるのではないのか。無意識的な自我である。というか、非同一性的自我である。多元的非自我である。しかし、自我というよりは、半自我ではないだろうか。だから、非同一性的半自我ないし多元的半自我ではないのか。

 つまり、キャサリンの「自我」は未発達であり、いわば、多元分裂的である。ここには、差異はあるが、同一性はないのである。⇒+1がないのである。

 キャサリンの半自我について、明晰に理論化する必要があるだろう。それは、何か。男性の場合は、連続的同一性自我が形成される。女性の場合は、連続的同一性身体が形成される。では、女性の「自我」はどうなるのか。

 思うに、それは、とりあえず、半自我でいいのかもしれない。男性のような連続的同一性自我にはならない。やはり、多元分裂的自我ではないだろうか。連続的同一性身体が女性においては主導的であり、「自我」は、従的なのである。身体が主で、知性が従である。

 では、この従的知性ないし従的自我は何なのか。同一性ではないだろう。同一性は身体であるから。ならば、差異なのか。おそらく、差異の可能性はあるだろう。女性の知性は差異である可能性はあるのである。ただ、身体的同一性によって曇らされると言えよう。

 女性の勘が鋭いとはこのことではないだろうか。女性の知性は差異であり、自我観念同一性によっては曇らされてはいないということになるだろう。

 ここで、キャサリンを考えると確かに、キャサリンの思考には、鋭敏さを認めざるを得ないだろう。ヒースクリフと結婚したら、一生貧乏のままである。そして、エドガーと結婚することで、二人とも貧乏から脱することができる。倫理的ではない(他者がない)が、ここには、ある明晰さがある。

 しかしながら、キャサリンの知性は差異的同一性(+1)ではなく、差異的多元性ないし差異的分裂性である。これは、⇒∞であろうか。否、やはり、⇒-1 であろう。これは、連続的同一性身体を意味するのだから。そして、連続的同一性とは、半面で、多元的分裂性を帯びるのではないだろうか。キャサリンの場合は、知性的多元分裂であった。男性の場合は、身体的多元分裂ではないだろうか。

 身体的多元分裂とは何だろうか。感覚分裂ではないのか。感覚細部への偏執ではないのか。この細部感覚が多元分裂するということではないのか。パラノイアである。パラノイア的多元分裂である。

 ジェンダーについては、ここで留めるが、最後に、『嵐が丘』の結末を考えたい。ヒースクリフは、キャサリンの亡霊を見ることで、精神的に和解することになるのであるが、これは何を意味するのか。

 ヒースクリフの憎悪(ルサンチマン)が消えて、赦しの精神が現われるのである。これは、一見、ヒースクリフの連一性自我の肯定のように思われるかもしれないが、これは、亡霊との関係であるから、差異共振性ではないだろうか。差異的同一性ではないのか。生者ヒースクリフと亡霊キャサリンとの間には距離があるから、連続的同一性にはなり得ないのであるから、差異的同一性であると考えられるのである。

 そうすると、『嵐が丘』という凄絶なジェンダー的連一性悲劇が解体して、差異的同一性というある種の喜劇がここに発生したと言えるだろう。(ここで、喜劇は、ジャンル的に捉えないといけない。『神曲』が原題では、『神聖喜劇』であるが、この意味においてである。)

 結局、ヒースクリフが他者を確認したことになるだろう。キャサリンの亡霊が他者である。いわば、亡霊ということで、超越性がここにあり、その距離をもって、同一性を確認しているのである。だから、差異的同一性なのである。

 だから、『嵐が丘』は、喜劇に入るのである。近代的自我喜劇である。では、この悲劇から喜劇への転換のポイントは何か。

 そう、一種恩寵のような意味をもつ亡霊の出現であろう。やはり、超越性の出現である。i*(-i)の出現である。これが、⇒+1となったと思われるのである。超越界・叡知界・イデア界の出現である。これは、トランス・モダンの小説ということになるのかもしれない。