光について:メディア・ポイントの同一性としての光と相対性理論:東

光について:メディア・ポイントの同一性としての光と相対性理論:東方神学から


テーマ:メディア・ポイントMedia Point


本件について再考したい。

ここでは、直観で考える。

メディア・ポイントで、正負の虚数が共振して、エネルゲイアが発生する。それは、また、同一性様態である。正確に言えば、即非的同一性様態である。

これが、⇒+1の意味であろう。

ここで、実数軸の意味を整理したい。これまで、ここは、連続性の様態と見たり、+1の場合を差異的同一性と見てきたが、これは、明らかに不整合である。

今考えられるのは、実数軸は、同一性軸であるということである。つまり、現象化とは、同一性化なのである。近代主義は、これを、連続性の概念で捉えてきたと言えよう。例えば、差異=微分である。しかし、これは、これまで呼んできたように、連続的同一性の見方である。

現象化=同一性化においても、不連続な見方があるのである。それが、差異的同一性の考え方である。即ち、⇒+1である。

差異即非共振シナジーの同一性化としての現象化という考え方である。

ということで、実数軸化とは、同一性化=現象化であり、+1が差異共振的同一性化であり、-1が差異連続的同一性化である。

さて、ここから、もう一度考えると、神のエネルゲイア(光のエネルゲイア)とは、+1のことであろう。これは、ここに差異共振性があるということであり、-1とは、差異連続性があると見ることである。

思うに、作業仮説であるが、古典力学は、-1の考え方であり、光の媒質として、エーテルを考えた。そして、相対性理論量子力学は、近似的に、+1の考え方と言えよう。

光速度一定とは何か。それは、差異連続性を否定して、差異共振性というか、差異不連続性を説くものではないのか。連続性の見方からすると、エーテルを想定するのである。しかし、観測は、エーテルを否定した。

それは、連続的現象観の否定である。不連続的現象観・自然観への道を開いたと言えよう。

端的に、光速度一定とは何か。

思うに、それは、メディア・ポイントにおける差異・同一性・差異の様相における同一性を意味するのではないのか。

つまり、特異性ないし特異点における同一性ではないのか。あるいは、さらに踏み込んで言えば、虚数軸上のメディア・ポイント、即ち、虚メディア・ポイントにおける、いわば、元同一性を意味するのではないのか。

この元同一性が実メディア・ポイントにおける同一性へと変換するということになると思われるのである。

ここは、まことに微妙、霊妙な領域である。

東方神学からすると、神のウーシア(本体・実体)とは、虚数軸の超越界を指すだろう。そして、神のエネルゲイア(=光)とは、メディア・ポイントを指すだろう。しかしながら、元同一性と同一性があり、この関係が重要である。

(思うに、神の子とは、同一性を指すのではないだろうか。そして、ロゴスも、これを指すのではないだろうか。精緻に言えば、元同一性がロゴスであり、これが、現象化したのが、神の子ではないのか。)

そう、元同一性と光との関係をどう見るのか。

こここそ、霊妙である。

元同一性は光のようであり、また、光のようではないのではないだろうか。

元光ではあるだろう。以前、呼んだように、超光としてもいいだろう。

Kaisetsu氏の考えによれば、白い光と黒い光の共振シナジーの「光」があることになる。

そう、この共振シナジーとしての「光」=超光=元光が、実メディア・ポイントとして、光現象となると言えるのではないか。

東方神学で言う、神のエネルゲイアは、ここの事象を指していると言えるのではないだろうか。即ち、共振シナジーとしての元同一性=超光=元光と同一性現象としての光の即非的一致ではないのか。

そして、神のウーシア(本体・実体)とは、差異共振様相のデュナミスではないのか。

ここで、イデア論を思うのである。超越的形相(エイドス)は、MPにおける元同一性且つ同一性であろう。ここが、また、先に述べたように、コーラである。

イデアと言った時、神のウーシアと神のエネルゲイアの両面があるだろうし、これをこれまで混同してきた向きがあるだろう。

とまれ、光とは、メディア・ポイント(=特異点)における不連続的差異即非共振同一性(エネルゲイア)事象であると言えるだろう。

相対性理論とは、このメディア・ポイントの事象としての光現象を捉えているだろう。光速度一定とは、同一性エネルゲイアのことを指していると言えるのではないだろうか。

換言すると、差異は、メディア・ポイントにおいて、すべからく、同一性エネルゲイア=光化するということではないのか。

光としての差異的同一性ではないのか。

これが、光速度一定の本質ではないのか。

言い換えると、差異と差異との同一性関係のメディアとしての光があり、メディアとしての光の同一性が光速度一定ではないのか。

同一性メディアとしての光があるのではないのか。

これが、自然界の基準となり、光速度一定を意味するのではないのか。

+1とは、現象時空間の単位ということであろう。

そして、この時空単位は、光速度cの同一性ということではないのか。

結局、光速度cは、実メディア・ポイントの同一性であると言えよう。そして、これは、端的に、虚メディア・ポイントの元同一性と関係しているのであるが、元同一性においては、icと-icの即非態の超越性をもっているのである。元エネルゲイアをもつのである。これが、Kaisetsu氏の言うmic*(- ic)⇒+1・Eの左辺のことではないだろうか。

つまり、光は、超越的エネルギーを包摂しているということではないのか。

ダークエネルギーであるが、それは、隠れたエネルギーととれば、この超越エネルギーのことではないのか。

さて、最後に、太陽を考えてみよう。

光現象をもたらす光源の太陽である。

端的に、太陽は、メディア・ポイントの同一性事象の中心と言えるだろう。

簡単に言えば、太陽はメディア・ポイントである。

宗教において、太陽ないし陽光が神となるのは、正しいのである。

大日如来である。天照大神である。

しかしながら、注意すべきは、これは、元知性と元身体との共振シナジーとしての太陽である。

つまり、太陽自体が差異即非様相にあるということである。

元知性を光とすれば、元身体は闇である。光と闇の即非同一性としての太陽となるのである。

私が思っているのは、エジプトのイシス・オシリス神話である。イシスが月であり、オシリスが日である。

だから、単純に、元知性がオシリスであり、元身体がイシスである。

しかしながら、イシスはある意味でオシリスを包摂しているのである。ここで、イシスが太陽となるだろう。天照的である。

思うに、古代人は、太陽を女性表象としたのである。処女生殖の問題とも関係するだろう。聖母マリア崇拝とも関係するだろうし、叡知ソフィアの問題とも関係しよう。

古代人は生み出す力、天地創造する力を女性表象したのである。

これは、差異共振シナジーのことである。そして、ここには、太極陰陽性があるのである。つまり、太母があり、また、陰陽的女男性があるのである。

イシスは、この両面を指すだろう。

そして、日本の天照もそうだろう。陰は月となるのである。そして、陽は日である。

3元論的になるのである。古事記の三柱の神もそうだろう。天之御中主神が、太母・太極であろう。そして、二人の神が陰陽であろう。

ここから見ると、一神教の神が解明されるだろう。それは、本来は、陰陽の陽の神が、太母・太極を簒奪したものであろう。

主体の連続的同一性が差異を否定して、自我絶対化したのが、一神教の神であろう。倒錯なのである。

因みに、大乗仏教であるが、それは、正に、メディア・ポイントの叡知学と言えるのではないだろうか。連続化を切断して、「空」という不連続性を明らかにしたと思えるのである。

「空」ないし「無」は、虚数軸・超越界と見ることもできよう。

思うに、「空」はメディア・ポイント、「無」は超越界と見た方が明快であるのではないだろうか。