検討問題:光と特異点:メディア・ポイント上の光と現象界

検討問題:光と特異点:メディア・ポイント上の光と現象界


テーマ:メディア・ポイントMedia Point


Kaisetsu氏の、特異性(特異点)に基づく相対性理論の説明が実に興味をそそる。

★引用開始
アインシュタイン相対性理論を考案したモチーフは、マイケルソン・モーレーの実験結果を率直に認めて、これを前提に世界認識を再構築しようとしたことと考えられる。

マイケルソン・モーレーの実験
出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』
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マイケルソン・モーリーの実験(Michelson-Morley experiment)は、アメリカの物理学者、マイケルソンとモーリーが行った有名な実験。
当時、宇宙に充満していると考えられていたエーテルの存在を確かめるために、1881年に行われた。
同じ光源から出た光をハーフミラーを使って二つに分け、違う方向に何度も鏡で往復させてから再び一つに戻して干渉させる。干渉により干渉縞が観測される。もしエーテルが存在し、実験装置がそれに対して運動しているとしたら、実験装置の向きを変えると干渉縞の位相が変化するはずであるが、そのような変化は観測できなかった。
その後も精度を上げ今日まで何度も同様の実験が繰り返されたが、干渉縞の位相の変化が観測されることはない。
この実験はしばしば相対性理論光速度不変の原理の根拠の一つとして引き合いに出される。



 つまり、地球上で任意に行った実験では、かならず、必然的に、地球の自転、公転、地球の球としての膨らみ等の影響を何らかの形で受けるはずであるが、その後も精度を上げ今日まで何度も同様の実験が繰り返されたが、干渉縞の位相の変化が観測されることはない、のである。

 ここに、「光速度」の特異性という認識が生まれるのである。そうして、この「事実」は、特異であること、そのことによって、新しい「神秘性」「神の摂理」「超越性」を人間に感じさせるのである。

 これが、アインシュタインに「神はサイコロを振らない」という信念を生み、一般人の認識からは非常識と考えられる結果であろうとも、一般認識を超越する世界構造を認識する方向性を求めさせるのである。

 つまり、超越性を信じる、ということである。

◆だから、普遍性とは、個、即ち、特異性にしか、存しないと言えよう。

 アインシュタインが「光速度」の特異性、超越性、神秘性を認識し、その認識を了解した時に、次に進むのが、「普遍化」であり、一般化であり、数的な整合性である。
 つまり、一般の常識的な世界では、ありえない状況を一般化するためには、一般常識を超越した理論、方法論、世界認識を提示する必要があり、これを可能にしたのが、高度に洗練された数学の方法論であった。
 まず、特殊相対性理論において、アインシュタインは、
光速度一定を中心的事実として、アインシュタインは、一般共変性原理(いっぱんきょうへんせいげんり, principle of general covariance)、つまり、『「物理法則は、すべての座標系において同じ形式でなければならない」あるいは「一般座標変換によって物理法則は不変である」という原理』を仮定している。
 つまり、光速度一定という事実を一般化する認識として、『一般共変性原理』を仮定するわけである。
 特殊とは、光速度等に限定しているわけである。(まっすぐ一様な(等速の)回転のない運動)
 つまり、特異なもの、超越したもの、から一般性を予知し、自己認識を再構築して、まず、限定的に全く新しい世界認識を「一般化」「真理」として高度な数学的処理を道具として提示するのである。
 その後、アインシュタインは、一般相対性理論に進むのである。》
★引用終了

特異点、超越性、メディア・ポイント』
http://blog.kaisetsu.org/?eid=526502


今は、簡単に触れるが、特異性としての光の現象が現存するということである。これが、重要なポイントである。つまり、不連続性を超越界=イデア界から、メディア・ポイントMPを介して、連続性の現象界へと展開するということであるが、しかし、一般の現象と異なるのは、一般の現象は確かに、メディア・ポイントを介してはいるが、メディア・ポイントを隠蔽するように連続的同一性化していると思われるのである。

それに対して、光の現象は、メディア・ポイント=特異点を介するが、これを隠蔽していないと考えられるのである。ここに、光の特異性の一つの様相があると言えるのではないだろか。つまり、光は、連続的同一性化しないで、差異的同一性化しているのである。i*(-i)⇒+1である。

連続的同一性が、i*-(-i) or -i*(-i)⇒-1 である。これが、一般の現象であるように思えるのである。物質現象と言っていいだろう。自我も当然、ここに入るのである。

光は、+1の現象なのである。特異な現象なのである。

つまり、特異点であるメディア・ポイントを開放系として光現象はもっているということではないのか。その他の現象がメディア・ポイントを隠匿してして、閉鎖系となっているのである。

これは何を意味しているのだろうか。

とまれ、+1の現象と-1の現象があるということであろう。

メディア・ポイントが開いているというのは、イデア界に接触しているということであろう。つまり、虚数軸の原点と実数軸の原点が交差して、両軸の世界が交差しているということと考えられるのである。

つまり、光とは、イデア界・超越界・叡知界の光であると同時に、現象界の光であるということではないのか。

宗教的に言えば、無量光(阿弥陀如来)であり、かつ、知覚される現象光である。

形而上的光であると同時に、現象光である。

そう、端的に言えば、超越界を現象界から見た科学的理論が、相対性理論ではないのか。

mic*(-ic)⇒mc^2=+1・E

である。当然、虚数軸が超越界である。そして、実数軸が現象界である。

ここで、思いつきながら、+1が天の方向で、-1が地の方向ではないのか。つまり、上方と下方である。

とまれ、ここでは、光は、連続化せずに、差異共振のまま、現象しているのであると作業仮説しておこう。

この差異共振としての光は、超越界の光とも言ってもよく、これが、現象界から観測すると光速度一定となるのだろう。

そのように考えると、素粒子、量子の本体・実体も差異共振的イデアと言えるのではないだろうか。

そう、差異共振シナジーとしての光である。光を介して、人間は、超越界・イデア界・叡知界・神界・霊界に接すると言えるのではないか。

御来光である。

後で再考したい。