特異点とメディア・ポイントMP:一般形式の虚偽と特異性の普遍的イデ

特異点とメディア・ポイントMP:一般形式の虚偽と特異性の普遍的イデア


テーマ:メディア・ポイントMedia Point


Kaisetsu氏のブログに以下の考察がある。

《◆◆もし、一般の認識事実と異なる認識事実を主張する事例が万の内に一つあれば、この『万の内の一つ』の認識こそ、真理を探究するためには重要な『事実』である可能性がある。科学認識の発展によって、「特異点」の存在が重要であることが認識されており、僅かな差異が、有る条件下では、劇的な事実の変化を起こしうるからである。つまり、極少数の立場、次元からしか見えない認識事実こそが、本来の『真理』を読み解く大きな手がかりとなることは、往々にして在ることなのである。by Kaisetsu》
「やっと出てきたトランス・モダン思考の主張」
http://blog.kaisetsu.org/?eid=526185

ここで述べられている『万の内の一つ』の認識とは、九鬼哲学では、『偶然性』に相当すると言えよう。

ここには、認識論の基礎問題があると言っていいだろう。

思うに、私事に触れるが、私の人生は、特異性singularityの肯定をどう妥当・正当に理論化するのかにあったように思う。初めは、私の《身体》にある社会との異和感に我ながらてこずっていたが、結局、それは、特異性というもので、一般的個別性や同一性では、処理できない、はみ出すものである。

この私の特異性は、いわば、永遠に特異性であり、他者と一致することはありえないだろう。しかし、ここに基づいて普遍性があり、この普遍性においては、他者と一致するのだろう。普遍的同一性、即ち、真理である。これは、Kaisetsu氏がアインシュタイン相対性理論光速度一定のもつ絶対的真理を説いていることと共通しよう。そう、特異性⇒普遍性であろう。

私は、長い間、今でもだが、一般的真理というものを疑っている。言語形式の一般性が、きわめて、胡散臭いと思っている。思えば、自分の《身体》にある《真実》と言語表現との乖離に悩んだものである。自分の特異性は、言語表現できないのである。言語表現によるコミュニケーションを胡散臭く感じたものである。もっとも、今では、言語表現は、表徴と見るべきであり、認識や身体性や実体を示唆するもの媒体として見ているが。

私が懐疑する一般性とは、正に、言語の一般形式である。これと一般的真理が結びつくので、一般性に対する懐疑があると言えよう。つまり、言語の一般形式とは、個の特異性とは無縁に形成・成立するものである。いわば、機械的なものである。この、いわば、言語機械のもつ真理は、一般的真理であり、個の特異性とは切り離されているのである。

だから、言語表現とは、言語行為とは、言語機械行為と個の特異性行為との乖離があるはずである。ここに言語行為の胡散臭さがあるのである。前首相の小泉氏の発話は、正に、この乖離が感じられたので、私は、パフォーマンス屋と直覚したのである。

言語行為によく注意すれば、観念だけでなく、音調等を知覚すれば、この乖離が感じられるものである。語調のフォース(力)の様態があるのであり、これを聞き取ればいいのである。また、表情や身振り等も重要である。ちょっとした、動きや間とが重要である。

さて、本件にもどると、言語行為は、言語機械的一般性と個的特異性との二元性を帯びるのである。前者は、表面・表層であり、後者が真相・真実である。

一般的真理は、結局、皮相に言語機械的一般性によって語られるのであり、そこには、個的特異性が欠落しやすいのである。

そう、オウムが反復しているようなものである。貨幣で言えば、交換価値である。

俗世間は、この皮相な言語機械的一般評価で動いているのであり、ここには、個的特異性の価値(=普遍性)が欠落しているのである。即ち、虚偽の俗世間である。

これは、PS理論的には、連続的同一性=一般性と言えよう。ここには、差異の否定・排除・隠匿隠蔽があるのである。

つまり、連続的同一性=一般性という「真理」は、差異・他者を否定したものであり、結局、自己欺瞞なのである。ここには、量的真理は確かにあるだろう。だから、唯物論や交換価値と結びつくのである。これは、言語機械-唯物論-交換価値の、いわば、三位一体ドグマである。換言すれば、近代主義である。近代主義の三位一体である。

では、この一般性ドグマと特異性とはどう関係するのか。あるいは、本論である、特異点やMPとどう関係するのか。

これは言わずもがなであり、一般性は特異性を否定するのである。なぜなら、一般性を固持する自我(利己主義)は、特異性が自我を否定するものであるからである。否定・隠蔽すべきものであるからである。

では、普遍性について言うと、なぜ、私は、特異性に普遍性を認めて、一般性には、虚偽を見るのだろうか。これは、極めて、ニーチェ哲学の問題であるが。

なぜなら、言語機械=一般形式性は、個から分離、浮遊したもので、根がないからである。根とは特異性であり、メディア・ポイントであり、さらには、イデア界である。

私が言いたいのは、言語機械=一般形式性とは、連続的同一性のシステム(俗世間システム)であり、ここでは、間主観(間主体)性ではなくて、言わば、間自我的価値が支配しているのである(阿部謹也氏のいう世間的価値)。より正確に言えば、連続的同一性共同体価値の反射が支配しているのである。換言すると、連続的同一性集合体の集合的自我が支配しているのであり、ここにあるのは、集合的自我であり、集合体の価値が動けば、集合的自我は、自我の価値観をそれに合わせて、流動化させるのである。つまり、集合的価値という相対的価値があるに過ぎず、普遍的価値、普遍性はそこにはないのである。

すなわち、言語機械=一般形式性=連続的同一性は、集合性・集合的自我性と連続し、きわめて、流動的であり、不定なのである。群衆や烏合の衆の世界なのである。

自我と他我との相互反射の世界であり、鏡像の世界であり、個としての自己はここにはないのである。つまり、言語機械=一般形式性=連続的同一性=集合性は、端的に、俗世間的権力・暴力(差別を含む)であり、一定の価値がないのである。ここは、正に、相対流動的な価値しかないのである。そう、正に、流行の世界である。群れの世界なのである。

リーダーらしきやトレンドが、あっちを向けば、烏合の衆は、あっちを向くのである。魚群である。鳥群である。無定見・無見識の世界である。

以上から、一般性とは、信用できない胡散臭いということが証明できたと信ずる。つまり、集合性によって、一般性は動いてしまうのである。

だから、普遍性とは、個、即ち、特異性にしか、存しないと言えよう。個ないし特異性は、集合性とは無縁であり、ひたすら、個の認識に実直である。

これは、消極的理由である。積極的に、どうして、個ないし特異性は、普遍性であるのかと言うと、ここで、本題の考察に関わることになるが、個ないし特異性とは、メディア・ポイントと結びついていると考えられるのである。そして、Kaisetsu氏の言及する特異点とも関係すると思うのである。特異点とは、メディア・ポイントのことであると、作業仮説しよう。

個ないし特異性がなぜ、メディア・ポイントと結びついているのかと言えば、それは、ほとんど自明に近いと思うが、連続的同一性=自我は、差異(=個・特異性)を否定するのに対して、個・特異性は、連続的同一性=自我に対して、批判的距離をもつからである。つまり、人間が出生してから、初期においては、メディア・ポイントは開いているのである。メディア・ポイントの開放系が本来的にあると考えられるのである。これが、個・特異性ないし特異点なのである。ここから、成長過程において、連続的同一性=自我(=無明)化が進展するのである。(p.s. メディア・ポイントが、連続的同一性自我によって、閉じられてしまうのである。)

つまり、メディア・ポイント=個・特異性・特異点の否定としての連続的同一性=自我=言語機械=一般形式性=集合性の展開が俗人の成長であると考えられるのである。

そして、メディア・ポイントは、イデア界に接触している(内在的超越性をもっている)ので、個・特異性は、普遍性に関わると言えるのである。これで、本稿の証明が済んだと言えよう。

ただし、メディア・ポイントは、不連続性・虚数軸と連続性・実数軸とが交差する複合的原点なので、大半の哲学や理論は、不連続的差異論、ないしPS理論による理論的な明確な区分や分離をすることができずにいて、錯誤や混乱を生んだと考えられるのである。

とまれ、一般形式は虚偽であり、個・特異性こそ普遍性であるという命題が証明されただろう。正確に言えば、個・特異性こそ普遍性を志向する、である。

思えば、ニーチェが、これをあの正に特異な哲学で説いたと言えるのである。ニーチェは、一般形式すべてを否定したのである。連続的同一性を絶対否定して、特異性の強度を説いたのである。

ここで、民主主義について言うと、一般形式に囚われる愚民が多いと、衆愚政治となるのであり、真に民主制を成り立たせるのは、個・特異性にほかならないと言えよう。

そう、民主主義には、哲学が、現代的イデア論が必要なのである。PS理論が、トランス・モダン・デモクラシーの理論的根拠を与えると言えよう。

プラトンは、哲人政治を唱えたが、今日でも、同じである。

哲学なき民主主義は、衆愚政治である。全体主義ファシズムを生むのである。亡国となるのである。

思えば、古代ギリシア直接民主制は、奴隷制の上に成立したものであり、いわば、貴族的民主制であった。貴族とは何であろうか。

貴族とは、本来は、物質的豊かさを意味するものではなく、やはり、ニーチェが『道徳の系譜』で説いたように、高貴である精神性・魂に基づくと考えれるべきである。

つまり、高貴な民主制である。思うに、古代ギリシア人は、天才的であり、イデア界に通じていたと思えるのである。あの思想性、芸術性、政治性、等々は、イデア界・叡知界からの精神に基づくと考えるべきであろう。

日本の亡国の原因は天皇制にあるのではなく、俗世間的連続的同一性にある。個であること、特異性であることを恐れる怯懦にある。

この怯懦はどこから生まれたのか。

叡知の喪失からである。どこで、叡知を日本人は失ったのか。それは、二つの近代からではないのか。とりわけ、戦後ではないのか。後で、検討したい。

p.s. 九鬼周造の『偶然性の問題』を読み進めているが、《・・・定言性と目的性とは不離の内的関係に立っている。一般概念はそれ自身目的として妥当するものと見ることが出来ることは、その反省判断的課題的普遍性に照らして明らかである。「論理的秩序、すなはち諸事実を概念へ従属せしめる作用は恐らく内的理性または目的因の自発的活動を隠匿してゐる。概念は目的因の論理的記号に過ぎないであらう。斯くして諸々の個体はその存在理由を種に於いて有ってゐるのであらう」とブートルーも言っている(・・・)。》(p. 64)というような箇所を読むと、ここで、述べられている「一般概念」とは私がここで述べた一般形式=連続的同一性と共通すると思う。

さらに、重要なことは、目的因である。一般形式=連続的同一性には、目的因があるのである。それは、個体の盲目の生存という目的因ではないかと思われたのである。

連続的同一性を狂気であると、私はこれまで、数えきれないくらい繰り返し述べてきたが、これを盲目の生存・欲望という目的因をもっていると考えると、その意味が明快になるように思えるのである。

有り体に言えば、動物的欲望・衝動・暴力である。これは、他者を殺戮し、食し、同一化しようとする欲望ではないだろうか。ただ、人間の場合は、言語形式がともなっているということではないのか。

整理すると、言語形式体系(一般形式・形式論理)とは、人間における動物的本能を、より「合理化」したものではないのか。動物的本能を満たすための、組織立った体系ではないのか。

言い換えると、連続的同一性の基礎にある「目的因」とは、ある外的対象を獲得することではないのか。ここでは、他者(「隣人」)は否定されなくてはならないのであり、外部にあるのは、外的対象、外的物体であり、それを獲得するために、主体は、他者を同一性化するのではないのか。「我在り(ヤハウェ)」ではないのか。ここには、知的認識ではなくて、欲望的同一性化衝動があるのではないのか。そして、この衝動の組織化が言語一般形式化ではないのか。

もう少し精緻に考えてみよう。欲望は、身体的連続的同一性作用と言えよう。これによって、主体も身体的連続的同一性化すると言えよう。身体が主体・主観・心を支配するのである。

身体の連続的同一性があり、思うに、反動で、主体も連続的同一性化反作用をもつだろう。この反作用が、主体の連続的同一性=自我を生むと言えるのではないだろうか。

そして、この主体・主観的連続的同一性が、言語一般形式を生むと考えられるのである。すると、根源にある力は、動物的欲動である。身体的連続的同一性である。言語一般形式とは、ゆえに、暴力的であり、狂気的なのではないのか。つまり、動物衝動をもっているということではないのかということである。(p.s. 一神教は、この極限ではないだろうか。動物的本能の極北としての一神教ではないのか。)

そう見ると、この一般形式が、貨幣の交換価値と通じるのは、単に、一般形式だけでなく、動物的衝動・欲動が根源にあるからということになるのでないだろうか。

さて、もし言語形式が動物的欲動と関係するなら、自己・他者認識の言語が、それとは別にあるはずである。それは、どう異なるのか。後者は精神の言語であり、内的言語である。それに対して、言語形式は、外的言語であると言えよう。

内的言語が、宗教、神話、物語、詩歌、等と関わり、そして、外的言語が、物質や交換等と関係したと思うのである。

そして、哲学は、当然、前者の言語である。そして、科学は、後者の言語である。質と量である。ここで、数学の位置が興味深い。思うに、根源的には内的であるが、外的なものにも適用できたということではないだろうか。

そう、フッサール現象学の問題である。

志向性とは、正しくは、差異の志向性、差異・他者の志向性である。しかるに、言語一般形式は、連続的同一性の志向性である。思うに、この二つの正反対の、相矛盾する志向性が人間の内にあり、相克の関係にあるだろう。

しかしながら、西欧近代は、連続的同一性が勝利したのである。

ここに、人類の大危機があると言えよう。

内的本性、差異共振的精神性を喪失したのである。



コメント


特異点、超越性、メディア・ポイント

海舌
2007.03.11 Sunday
特異点、超越性、メディア・ポイント
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toxandoriaの日記へのTBです。
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070308/p1