ファシズム・全体主義について:メディア・ポイントのカオスとコスモ
ファシズム・全体主義について:メディア・ポイントのカオスとコスモス:メディア・ポイントの脱連続化
現代日本の反動の意味について再考しよう。即ち、小泉/安倍、石原等の反動路線、全体主義路線は、PS理論的にどういう意味をもっているのか。
結局、国家民族主義という自我「一神教」的父権的近代主義思想がここにはあるだろう。
現行憲法を改正しようとするのは、向上させるというよりは、国家民族主義(=国家統制経済=国家社会主義)を復活させるためであろう。
また、問題は、末近代である「ポスト・モダン」の、大澤真幸氏の「アイロニカルな没入」の問題でもある。
理論的に言うと、勿論、連続的同一性という暴力の問題であるが、その起因が不明確なのである。
近代主義は、近代的合理主義的自我による連続的同一性であり、機械的な合理主義である。ここにおいて、他者が否定されるのである。
思うに、近代主義は、唯物論的科学・技術・経済を発達させてきたが、これが、飽和状態を迎えると言えると思う。
それが、末近代=「ポスト・モダン」の時代だと思う。
精神の腐敗・堕落が生じるのである。
そう、思うに、核心は、メディア・ポイントにおけるエネルギー様態の問題だと思う。
近代主義は、メディア・ポイント(以下、MP)において、エネルギーが、i*-(-i)⇒-1の様態に向ったと思う。自我主義且つ物質主義的エネルギー様態である。
この連続的同一性的エネルギーが流れているときは、それはそれで、能動態であろう。
しかしながら、i*(-i)⇒+1の差異共振的同一性のエネルギーも本来、潜在していると言えるのではないだろうか。いわば、デュナミスである。
MPにおける、エネルギー様態ないし様相が問題である。
超越的エネルギーが同一性エネルギーに変換するポイントである。
端的に言えば、虚数軸の超越エネルギーが存し、且つ、実数軸のエネルギーが発動している。両者のエネルギーがここにはあるだろう。
思うに、現象とは、本来、⇒+1である。差異共振的同一性である。
しかし、人間の場合が特殊で、⇒-1と⇒+1の両者に分岐すると思われるのである。
連続的同一性と差異共振的同一性が同時に生起すると思われるのである。
つまり、人間現象は、矛盾する2つの様態が生起するのである。しかしながら、女性の場合は、本来、両者のバランスが取れているように思えるのであり、男性の場合、前者に傾斜していると思うのである。
とまれ、成長は、それなりに、連続的同一性=自我を形成するようになるだろう。もっとも、差異共振的同一性=自己も、なんらかの方法で、形成するようになると考えられる。
しかし、近代主義においては、前者中心となり、後者が否定されるようになった。
だから、当然ながら、存在する後者は反転するはずである。
正確に考えよう。
ここでは、主に、男性の意識、男性の近代的自我意識を考える。
男性は、身体的感覚の虚弱性から、他者感覚に対して、主体的投影を行い、同一性化すると考えられる。ナルシシズムである。
つまり、他者への恐怖・不安があり、そのため、他者自体を認識できずに、主体の同一性を投影して、幻影化して認識するのである。
これが、連続的同一性認識、自我認識である。
ここでは、言語が主要な道具となる。
この主体的投影あるいは、主観的投影とは何か。
思うに、初期的には、差異共振的感覚様態があり、ここから、外界認識を形成するのであるが、このとき、言語によって、対象が、観念化される。
つまり、本来、主体・主観は、外的対象と共振しているが、主体・主観のもつ知性によって、外的対象を認識しようとするのである。
これは、外的特異性に対する認識である。外的対象として、例えば、特異性対象Xがあるとしよう。
これに対して、主体・主観性は、言語を与えて、Yと呼ぶのである。
X⇒Yである。
問題は、主観的投影の問題である。
これは、対象の否定的同一性化である。主観は、対象を否定し、主観的投影を行い、同一性化、即ち、連続的同一性化するのである。
これは、差異共振的認識とは別である。対象が主体に苦を与える場合、主観は、対象を否定し、主観投影して、同一性化するのである。
ここには、欺瞞・虚偽・幻影性があるだろう。
主観にとり、否定的な他者を認識するのではなく、否定して、主観投影して、同一性化するのであるから。
反知性的な感情・欲望による疑似的認識である。
ここでは、差異共振エネルギーは否定されるのである。即ち、
i*-(-i)⇒-1である。
また、この否定は、主観的評価をもたらすだろう。他者を否定して、主観は、優越しているのであると。これは、自己倒錯である。
反知性的な感情・欲望が基礎としてあるのだから、非合理的な自己評価である。自我優越・慢心・傲りの発生である。
これが、男性的自我の有り様であろう。あるいは、連続的同一性自我の有り様である。
もっとも、これ以外に、差異共振的認識があるので、正当な知的認識が形成されると言えよう。i*(-i)⇒+1である。
とまれ、そうすると、主観において、錯誤と真理の2つの様態があると言えよう。
長くなったので、簡潔にすると、結局、MPにおいて、±1の様態が生起するのである。
問題は、-1の場合である。
超越エネルギーの共振性が否定されて、「力」(暴力)になるのではないのか。
+1の場合は、共振性が肯定されて、「愛」になるのではないのか。ロレンス的に言えば、そうなるが、理論的に言えば、知・叡知・真理である。
つまり、「力」と「知」である。
「知」には、当然、共感性、「愛」、誠実さ、等々が含まれるのである。だから、真知と呼んでもいいだろう。真智である。
それに対して、「力」は、暴力・傲慢・慢心・侮蔑・憎悪・悪意等々を含むのである。
理性は、本来、前者であるが、近代西欧文化の混乱から、後者の同一性を含むことになったのである。つまり、「力」は、連続的同一性の「知」を含むからである。
ここに問題があると言えよう。近代西欧において、差異共振性の「知」と連続的同一性の「知」が混淆されたのである。
後者は、自我の一般的知である。言い換えると、言語形式知である。
AはAであり、A以外の何ものでもない。Aは絶対的にAであり、他者ではない。例えば、リンゴはリンゴであり、他の何ものでもない。
しかしながら、リンゴを投げつければ、一種武器になるのである。
リンゴは、リンゴでなくなり、武器となるのである。あるいは、リンゴ且つ武器である。
とまれ、この連続的同一性は、主観の排他的な同一性から発していると言えよう。
ここに「知」の問題があるのである。
簡単にすれば、連続知と共振知である。
どちらも、同一性であるから、そう区別した方が明快である。
とまれ、連続知と共振知を近代西欧は混淆して、理性としたのである。一般に悟性を前者に入れるが、カントのように、純粋理性に前者も入っているのである。
とまれ、「力」は連続知であり、「知」は共振知である。
そして、繰り返すが、近代主義は、前者が後者を否定する様態となったのである。
問題は、この否定された共振知である。
基本的には、両者が存しているのだから、否定された共振知は、潜在しているのである。
問題は、否定された共振知の様態である。
否定は、暴力である。作用・反作用で言うと、当然、反作用が生起すると考えられる。これは、「力」(フォース)の次元の問題である。
つまり、これは、暴力と反動との関係になるのである。否定された共振知の反動として、「力」としての共振知というものが発動すると考えられるのである。
これは、端的に、矛盾である。何故なら、共振知は、「力」ではありえないからである。これは、叡知であるからである。
では、「力」となった共振知とは何か。それは、疑似共振知である。
共振知とは、本来、自己と他者との共振性であり、倫理・道徳を形成するのである。だから、この反動的な疑似共振知とは、反動的な倫理・道徳ということになるだろう。
また、連続的同一性の反動であるから、同形になると考えられるのである。連続的同一性的倫理・道徳である。
ロレンスが「力」と呼んだものがこれである。
これで、現代日本の全体主義・ファシズムの意味が説明できよう。
近代主義の反動としての全体主義・ファシズムなのである。私は、これまで、近代主義は全体主義・ファシズムになると言ってきたが、このように考えると、それは単純過ぎる言い方なので、ここで訂正すると、近代主義は、他者を否定する主観的連続的同一性のあり方であるが、それは、力学から反転するのであり、その反転が全体主義・ファシズムである。
ただし、潜在的には、共振知があると言えよう。これを問題にしよう。
真の共振知はどうなるのか。ここで、最初にロレンスの場合を考えると、確かに、「力」の志向は、反動であり、全体主義的であった。しかしながら、ロレンスの場合は、共振知のエネルギーがあると考えられるのである。そして、だからこそ、それが、最後に発現して、トランス・モダン的共振知性に達したと考えられるのである。
ならば、問題は、メディア・ポイントMPの様相である。
ロレンスの場合は、メディア・ポイントが開いているのである。だから、i*(-i)⇒+1の有り様を強くもっていたと考えられるのである。
そう、ロレンスは、母権的な志向をもっていたのである。女性的と言っていいだろう。しかるに、男性的要素の連続的同一性をも強くもっていた。これが、反動を生んだと言えよう。
では、一般にはどうなのだろうか。
男性の場合、連続的同一性に傾斜しているので、差異共振知は、形成しにくいだろう。もっとも、潜在的には、差異共振知はあるのである。そう、男性の場合、単純な反動作用が起こり、全体主義になるように思うのである。アイロニカルな没入性である。
だから、男性の場合は、教養知や哲学知が必要だと思う。ここにおいては、差異共振知が説かれているからである。もっとも、西洋哲学は、連続知が強く入っているので、注意しないといけない。
そう、だから、東洋哲学や宗教・神話や世界古典文学・芸術に接する必要があると言えよう。
差異共振叡知という教養知の必要である。私自身を考えると、トルストイを読んだときに、初期的に、差異共振知が発出したように思う。あるいは、ゴーゴリの『死せる魂』である。あるいは、シェイクスピアである。思うに、これらは、教養形成過程に必要だと思う。
ということで、連続的同一性とその反動の全体主義・ファシズムの「アイロニカルな没入」の様相があるのであるが、メディア・ポイントを考えると、どうなのだろうか。
全体主義の問題は、結局、水平の問題、実数軸の問題であった。しかし、MPは、虚数軸、垂直性が入るのである。
超越性の問題である。
ここでどうも、考え直す必要があると思う。
実数軸の問題も、結局、メディア・ポイントの事象である。だから、なんらか、虚数軸・超越性の問題が関係しているはずである。
連続的同一性から考え直さないといけない。
私の疑問点の一つに、連続的同一性が、優越性を形成すること原因が何かと以前から思い、それなりに検討した。
あるときは、それが、イデア界から発するから優越性をもつと述べた。どうも、今、この説を支持したい。
メディア・ポイントを介して、連続的同一性=自我形成がなされる。つまり、根源には、超越性があるのである。これが、優越性の出発点であろう。
それで、主観投影して、他者否定し、同一性化するのではないだろうか。
つまり、主観は、本来、超越的主観性なのである。フッサールの説く超越論的主観性と考えていいのかもしれない。もっとも、後者は、自我を還元して形成されるものである。
そう、フッサールの超越論的主観性でいいと思う。これが、連続的同一性化して、自我となるのであり、根源を忘却しているのである。(思うに、ハイデガーの存在の忘却であるが、これは、超越論的主観性ないし超越的主観性の忘却と言うべきであろう。)
以上のように考えると、根源に超越論的主観性(以下、超越主観性)がある。これが、メディア・ポイントを介して、連続化や同一性化するのである。
(思うに、フッサールの場合、明瞭になっていないのは、他者の問題かもしれない。間主観性とは、他者の問題である。だから、生活世界となるのだろう。)
そう、超越主観性とは実は、超越客観性である。あるいは、超越他者性である。これらが、超越即非共振性i*(-i)を形成しているのである。
そうすると、連続的同一性/全体主義の作用反作用であるが、それも、メディア・ポイントを介して、発生しているのであるが、この場合、虚数次元が隠蔽されて潜在的となっていると考えられる。
しかしながら、エネルギーが発現するのだから、認識的に隠蔽されると言うべきだろう。
つまり、連続的同一性/全体主義は、盲目的に超越性が発動していると言えるだろう。だから、ここには、優劣差別的発想があるのである。ユダヤ人差別である。朝鮮人・中国人差別である。
ここに無いのは、差異共振知である。つまり、連続的同一性自我力学のために、また、超越性の否定のために、否定・排除・隠蔽されているのである。
そう、結局、連続知によって、不連続性の知である共振知が否定されているのである。
ロレンスの場合、共振知が強くあったが、それが、連続知によって、「力」へと捩じ曲げられていたと言えよう。
そう、メディア・ポイントの問題である。ここでは、不連続性と連続性が交差するのであり、連続知=自我知に囚われていると、不連続性の知を認識できないのである。反動化するのである。
あるいは、本来、不連続性ないし共振知を連続性で理解してしまうのである。これは、多くの哲学者に起こったことである。
そう、不連続性と連続性は、メディア・ポイントで交差しているので、混同・混濁・混乱するのである。
二重性があるが、しかし、共振知は、連続性のために一体化として発現するので、ほとんど区別ができなくなるのである。(一神教の一元性の問題もここにあるだろう。)
ロレンスの「力」も正にそのようなものであった。
結局、メディア・ポイントの明晰化が必要なのである。思うに、禅・座禅や瞑想行であるが、それは、このメディア・ポイントの明晰化に役立つのではないだろうか。即ち、自我という連続的同一性の作用を鎮静化して、平静・冷静になり、自己を見つめるのである。自我的高揚・高ぶりを鎮静して、自己を見つめるのである。
そう、禅・瞑想は、メディア・ポイントの発見の鋭敏な心身的手法のように思えるのである。
なぜ、鈴木大拙が、即非の論理を発見できたのか、西田幾多郎が、それと類似した思想を発見できたのか。また、九鬼周造が、偶然性の哲学をどうして発見できたのか。また、より先に、清沢満之が、内観主義によって、超越性を発見できたのか。これらの基盤に、大乗仏教の心身的思想があると思うのである。
ウスペンスキーの「ターシャム・オルガヌム」であるが、それは、彼がロシア人で、東方キリスト教の心身的瞑想方法(へシュカスム)を知っていたからではないだろうか。
私自身を言えば、不連続的差異論形成以前、スピノザの能動的観念の影響下において、特異性としての個に基づく共振性を、直感的ながら、形成していたように思うのである。つまり、メディア・ポイントを明晰化していたと思うのである。そして、その後、ODA ウォッチャーズ氏と遭遇して、不連続的差異論が形成されたのである。
とまれ、脱連続化する必要があるのである。それによって、不連続性、超越性、共振性が明確に発現するのである。
超越論的主観性/間主観性の形成とも言えよう。
そうすると、現代日本の全体主義化に対して、脱連続化を進める必要がある。これは、PS理論の普及活動や政治・社会批判活動、等が必要なのである。