メディア・ポイントの様相構造:潜在的自己と顕在的自我の二重構造:

メディア・ポイントの様相構造:潜在的自己と顕在的自我の二重構造:潜在エネルギーと内的身体


テーマ:メディア・ポイントMedia Point


メディア・ポイントMPの二重構造について、精緻化したい。

つまり、虚数軸・超越性と実数軸・同一性との二重構造の様相についてである。

前者は形而上学性、後者は形而下性と言えよう。

超越界と現象界と言った方が明快だろう。

近代の問題であるが、一見、現象界が主導的に見えるだろう。日本の場合がそうである。しかし、外国を見ればすぐわかるように、アメリカの場合、キリスト教プロテスタンティズム)のウェイトが大きいのである。

だから、近代とは、単純に、現象界中心とは言えないのである。

アメリカ人を考えれば、キリスト教という形而上学性=超越性があるのである。

おそらく、世俗化=現象化が徹底した点で、日本は、世界でも極端な国になっているのかもしれない。

以上のようなことを含めて、本件を考えたい。

結局、連続的同一性ないし連続性と不連続性・特異性の問題となるだろう。

そう、前者は癒着的であり、後者は理知的であると考えられる。

前者は自我感情・欲望(利己主義)がメディア・ポイントを支配するのであり、後者は自己保存主義がメディア・ポイントを支配すると思うのである。

そう、前者はスピノザの否定的感情であり、後者は肯定的感情が支配するということだろう。

前者は⇒-1であり、後者は⇒+1であるが、このエネルギーの様態の違いが問題である。

連続的同一性エネルギーと差異共振性エネルギーの違いである。

いったい、メディア・ポイントで何が起こるのだろうか。

単純に考えれば、差異共振して、⇒+1となるはずである。

しかし、人間のもつ、先天的傾斜によって、ずれが生じると考えられる。

先にも述べたように、本来、差異共振性があるが、傾斜によって、連続的同一性が発生すると考えられるのである。

すなわち、これまで考えたように、初期においては、差異共振性があるが、それが、連続的同一性によって、否定される傾向があるということである。ここで、二重構造になると言えよう。潜在意識と顕在意識である。あるいは、潜在的自己意識と顕在的自我意識である。これが、メディア・ポイントの近代主義的構造と言えるだろう。言い換えると、潜在的叡知と顕在的無明(無知)である。

あるいは、差異共振性がかなり意識化されている場合もあるだろう。そうすると、差異共振意識と連続的同一性自我意識との併存となるだろうが、これは、矛盾様態なので、分裂的であろう。

さて、結局、メディア・ポイントにおいて、やはり、±1の二重様態が発生しているのであり、この様態は、混淆・混合様態と見るべきであろう。二重混淆様態である。

これは、虚数次元で言うと、いわば、カオスモスではないのか。連続的同一性がカオスであり、差異共振性がコスモスである。両者の混淆としてのカオスモスである。

ここで視点を変えると、一般形式とは連続的同一性であり、特異性とは差異共振性であると言えよう。

そして、世間は、自我・一般形式の世界であり、これが、顕在的に、特異性・差異共振性を隠蔽しているのである。

言い換えると、唯物的現象界は-1であり、共振的現象界は+1である。

思うに、近代主義世界とは、メディア・ポイントにおいて、共振的現象性をねじ込めるようにして隠蔽する捩れの世界である。

しかしながら、思うに、メディア・ポイント自体は完全には否定し隠蔽はできないのではないだろうか。

なぜなら、近代主義世界であっても、メディア・ポイントにおける連続的同一性から生起発現しているからである。

だから、不安定であると言えよう。メディア・ポイントは差異共振性を潜在させているからであり、その潜在エネルギーが作動しているはずであるからである。

これが、潜在的衝動になるはずである。衝迫である。そして、これをさらに抑圧しようとすると、狂気になると言えよう。パラノイアであったり、統合失調症であろう。自己愛性人格障害も、正に、この病気と言えよう。

この潜在エネルギーを、⇒+1の自己認識へと変容させる必要があると言えよう。

この潜在エネルギーは、正しい超越エネルギーと言えよう。しかしながら、連続的同一性に囚われるかぎり、混同・混濁が生じると言えよう。

ポスト・モダンやポスト構造主義は、この様態である。

ドゥルーズは、連続的同一性と差異共振性とを、差異=微分として妥協させてしまったし、デリダは、この混合様態にあって、両義性の戯れをもてあそんだと言えよう。

とまれ、この潜在エネルギーは特異性であり、それを不連続化する必要があるのである。

つまり、連続的同一性ないし連続性の切断が必要なのである。

この方法は、能動的観念、エポケー、仏教的瞑想等があるだろうが、不連続性の観念が一番明快であると考えられる。

では、メディア・ポイントは、何処に位置しているのだろうか。

これは、内的身体だと思う。「大地」である。「地中」・「地下」である。

瞑想や東洋的身体論は内的身体を涵養するものだろう。

身体と意識との中間点としての内的身体である。メルロ=ポンティの身体論は、内的身体と外的身体の両義性を対象にしていると思う。

しかしながら、潜在エネルギー、内的身体の発達は、慎重さが必要である。邪道・魔道に陥りやすい。

差異共振的合理的知性を涵養するようにしないといけないのである。差異共振的同一性の認識を涵養しないといけないのである。

思うに、MP⇒+1が、内的身体の空間ではないだろうか。