現象界P界とメディア・ポイントMPと超越界T界:超越的差異-水平的同
現象界P界とメディア・ポイントMPと超越界T界:超越的差異-水平的同一性-超越的差異
テーマ:プラトニック・シナジー理論
i*(-i)⇒+1
この自己認識方程式は、超越的差異即非・共振とそのエネルゲイア⇒エンテレケイアを記述したものである。
エネルゲイア(虚数エネルギー、超越エネルギー)は、メディア・ポイントMPに発出して、それが、正の実数軸の+1へと現象する。
私が問題にしたいのは、以前書いた、差異・同一性・差異という差異的同一性という現象様相における空間の問題等についてである。
同一性を現象界の個体・個物(以下、個)とすれば、個と個とは、連続的ではなく、不連続である。
すなわち、
現象:差異・同一性・差異・同一性・差異・・・・・・
という現象様相にあって、個と個との間隙には、差異、即ち、不連続性あるいは超越的差異共振性があるからである。
いわゆる、物質的空間は、この同一性に基づいていると言えよう。
自然科学は、この同一性に基づいたものと言えよう。
それは、同一性と同一性の間の差異を無視し、連続的空間を仮説したのである。
あるいは、同一性に内在する(正しくは、超越的に内在する)差異を看過したということである。
この同一性は、カントの時空間の形式(構造)と見ていいだろう。
つまり、この同一性が4次元時空間を基礎付けているということになる。
空間に限定すれば、この同一性が3次元空間を基礎付けているということである。(時間は、E=mc^2における光速度によって表現されているだろう。)
そして、現代物理学、即ち、相対性理論や量子論によって、同一性的物理学が解体したと言えよう。即ち、現代物理学は、現象界における差異を対象にしたと言える。
アインシュタインは光のもつ差異を対象とし、また、量子論は、量子という差異を対象にしたと考えられるのである。
(ここで、理論的に明快にするために、差異とは不連続的差異であり、特異性であり、また、PS理論では、超越的差異即非・共振シナジー性であると説明しておく。)
ポスト・モダンないしポスト構造主義理論の問題は、既述済みであるが、差異を実数軸上だけで扱った点にある。つまり、差異を連続的観念ないし概念として扱ったのである。差異=微分⇒異化=積分の考え方に典型的に現われている。
(そう、現象界の問題がある。果たして、現象界とは、実数軸次元だけなのか。現象界は、メディア・ポイントを介して、超越界に達していると言えよう。だから、表現が難しい。しかし、超越界を現象界と呼ぶことはできないだろう。超越性に基づく事象であるが、やはり、実数軸次元の事象として現象界を規定した方が、説明の便宜もあるが、いいだろう。)
同一性の差異とは、私の考えでは、特異性であるが、それは、PS理論では、メディア・ポイントMPとして、厳密に記述される。
だから、差異はメディア・ポイントとして、垂直的超越性と水平的同一性を共立させている。
そして、Kaisetsu氏が説明したように、相対性理論は、光の特異性、即ち、光のメディア・ポイントの様相を理論化したものと考えられる。光速度不変とは、差異=特異性=メディア・ポイントの超越的普遍性を意味しているだろう。言い換えると、同一性(=物質)は、差異=光速度不変=超越的普遍性によって規定・限定されているということになろう。この公式は、m(ic)*(-ic)⇒mc^2=+1・E となるだろう。
そして、⇒の右辺は、実数軸上の世界、即ち、現象界のエネルギー公式であり、同時に、時空4次元世界を構成するだろう。
しかしながら、光速度不変の普遍性は、メディア・ポイントにおける超越的差異を意味しているのであるから、アインシュタインは、超越界・イデア界を示唆していたと言えよう。
量子論であるが、これも、差異を対象としたのである。同一性=個を細分化して、量子に達したのであるが、それは、結局、同一性に内在する差異へ肉迫化したのである。即ち、差異であるメディア・ポイントを量子力学は、量子として把捉したのである。
メディア・ポイントは、超越性と同一性の即非共立空間であるから、連続性である物質概念では、理解・把握は不可能である。以前次のように述べた。即ち、量子論は、唯物論的視点から、超越的差異事象を把握しようとしているので、その超越的即非事象を、非局所的長距離相関という仮説で理解し、また、粒子と波動との相補性で把捉しているということである。
言い換えると、量子論は、超越的事象を、物質的連続的同一性である粒子という観点で捉えようとするので、超越的差異即非事象を、非局所的長距離相関として認識してしまうということである。
ここでは、無限速度が発現して、光速度不変の原理が破綻することになると考えられるのである。
即ち、超越的事象とは、物質的粒子の事象ではなくて、超越性・イデアの事象であり、ここでは、物質的概念である粒子という概念は適用できないのである。
ただ、超越的差異即非共振事象m(ic)*(-ic)があると見なくてはならないと考えられるのである。
思うに、ここにおいて、相対性理論と量子論が合体するはずである。
それは、PS理論的超量子論ないし超素粒子論とでも言えるのではないだろうか。あるいは、MP的統一理論である。
そう、このPS理論的に、平明に真理を表現するならば、メディア・ポイントは、森羅万象あらゆる時空間に存しているのであり、また、超越界も同様である。
宗教・神話的には、これは、汎神論・多神教となるだろう。前ソクラテス期の哲学者が述べたように、万有は神々に満ちているのである。
八百万の神々とは正しいのである。
スピノザの神即自然もそれなりに正しいだろうが、自然即神でもある。
さて、ここから、一神教を見るとどうなるだろうか。
それは、メディア・ポイントMedia Pointを連続的同一性⇒-1の観点で捉えたものだろう。近代主義の先駆である。
そう、アニミズムという宗教的観念もそれなりに正しいだろう。つまり、現象界においてメディア・ポイントが「霊」・「スピリット」になるのであるから。
シャーマニズムは、やはり、メディア・ポイントの異常な活性化として説明できよう。即ち、メディア・ポイントにおいてエネルギーが充溢して、連続的同一性自我を圧倒した場合のことだろう。神懸かりである。
ここから見ると、能楽も、やはり、メディア・ポイントを源泉とするだろう。死者は、超越界の「霊魂」である。それらが、メディア・ポイントを介して、生者と対話し、舞踊するのである。神楽その他も同様である。ニーチェの『悲劇の誕生』のディオニュソス的なものであるが、それも、メディア・ポイントの事象であると思う。ここでは、ディオニュソス=アポロである。
また、和歌の伝統も、メディア・ポイントが源泉であると言えよう。
「和歌(やまとうた)は、人の心を種として、万(よろづ)の言(こと)の葉とぞなれりける。世の中にある人、事・業(わざ)しげきものなれば、心に思ふ事を、見るもの聞くものにつけて、言ひだせるなり。花に鳴く鶯(うぐひす)、水に住むかはづの声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける。力をも入れずして天地(あめつち)を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女(をとこをんな)ののなかをもやはらげ、猛(たけ)き武士(もののふ)の心をもなぐさむるは、歌なり。」
古今和歌集 仮名序 http://www5a.biglobe.ne.jp/~pinewell/waka/kokin/k_kanajo.html
また、西洋文化の伝統であるムーサイ詩神(ミュージアムの語源)であるが、やはり、メディア・ポイントが源泉であろう。
インスピレーションは、ここから発するのである。
三島由紀夫の断絃は、先にも触れたが、メディア・ポイントの閉塞によるのである。
近代主義は、メディア・ポイントの否定によって、近代唯物科学を生んだのである。
キリスト教の一神教性と古代ギリシアの理性主義との結合によって、西欧は近代主義を生んだと言えよう。特に、同一性が数量化されて物質主義が形成されたと言えよう。そう、数量化は、差異・質を排除したのである。ここには、アリストテレス的な個物内在的形相形式の影響があるのではないだろうか。
さて、最後に簡単に近代主義的資本経済について言うと、これは、当然、連続的同一性主義である。ここでは、差異・特異性・超越性が否定されたのである。唯物論的経済である。
しかし、現代は、この近代主義経済の破壊性が現われている。唯物的資本経済は、人間を物質主義化して、知性を喪失させるのである。なぜならば、メディア・ポイントの否定が物質主義であるからである。知性はメディア・ポイントから生まれるのである。
そうすると、メディア・ポイント的経済M.P. Economyが考えられるだろう。
これは、政治、社会、文化と共に、総合的に、発展するものである。メディア・ポイント的共振シナジー社会創造ということになろう。
M.P. Economyとは、端的に、何か。
自由共振経済である。自由共振資本経済である。
共振資本である。というか、MP資本である。メディア・ポイント・キャピタルである。
Media Point Capitalismである。