ドゥルーズ哲学の虚偽的誤謬:特異性を連続性に結びつける

ドゥルーズ哲学の虚偽的誤謬:特異性を連続性に結びつける


テーマ:プラトニック・シナジー理論


以下の書は今年出版された新しい翻訳であるが、以前の訳本に比べて、格段と読みやすくなっている。翻訳者は、ドゥルーズ研究者の小泉義之氏であり、適任者である。

さて、少し読んだが、やはり、ドゥルーズである。

ドゥルーズ構造主義ポスト構造主義のスタンスである。「第8セリー:構造」は、実に興味深い。

パラドックスから構造を説明するのであるが、パラドックスとは、即非と読むと実に明快になる。

とまれ、ここで、ドゥルーズは、パラドックス、構造、特異性とを結びつけて説明しているのであるが、パラドックス即非、構造はメディア・ポイントとして読むことができるのであるが、特異性の把握が、誤謬なのである。

ドゥルーズは特異性を連続概念で捉えてしまっているのである。

だから、せっかく差異の本質に近づいても、この点で、誤謬を犯して、だいなしにしてしまっているのである。

今は簡単に触れるが、ドゥルーズは、2つのセリーで構造を考えている。これは、九鬼周造の偶然性の考え方に近いが、しかし、九鬼哲学のような不連続性がドゥルーズには欠落しているのである。

ドゥルーズは出来事と構造と連続化してしまうのである。出来事とは、正に、特異性であり、偶然性である。しかし、これを、構造と結びつけてしまうのである。これが誤謬である。

少し引用しよう。

「・・・セリーに隣接する特異性は、複雑な仕方で、他のセリーの項を決定する。あらゆる場合において、構造には、基底のセリーに対応する特異点の二つの配分が備わっている。それゆえに、構造と出来事を対立させることは不正確なのである。構造には、理念的出来事の台帳、言いかえるなら、構造に内的な全歴史が備わっている(・・・)。」p.101(赤文字は、renshiによる。尚、傍点の強調は、下線に変えた。)

赤文字部分であるが、これが、間違いである。つまり、PS理論から言うと、構造には、理念的出来事の台帳は備わっていないのである。

即ち、理念的出来事とは、超越的事象であり、これは、虚数軸次元の事象であり、構造は実数軸次元へと傾斜した内在形式であるから、両者には、一致しないからである。

端的に言えば、これまで、述べてきたように、ドゥルーズは、差異や特異性を連続性に留めてしまっているのである。

でも、特異性を連続性に留めるというのは、用語的に虚偽であろう。

とまれ、ドゥルーズパラドックスにおいて、即非性に近づいているが、連続性の概念の枠内に留まっているので、パラドックスを構造に留めてしまったのである。

構造とは実数軸的内在形式のことである。

もう少し言うと、問題は、その前の記述のシニフィアンシニフィエの思想にある。このソシュールの考え方が、ここでは致命的である。何故なら、これは、言語学の概念で、既に連続的同一性の概念形式に規定されているからである。

これでは、差異、特異性を外しているのである。

つまり、二つのセリーだが、一つはシニフィアン、他の一つをシニフィエにしているのである。これでは、連続的同一性概念の対(つい)に過ぎない。近代的合理主義なのである。

これでは、一種連続的予定調和であり、不連続性、ましてや、即非性は考えられようがないのである。

ソシュールラカン言語学概念を使用したのが、根本的にここでは、誤りである。

シニフィアンシニフィエとは、連続的同一性一般形式言語概念であり、正に、近代的合理主義概念と共通なのである。これでは、差異は、必然的に、連続化せざるをえないと言えよう。

そう、シニフィアンシニフィエという概念の批判が必要である。

これらは、フッサールノエシスノエマの超越性をもっていない、いわば、凡庸な概念に過ぎないのである。

この概念が、ハイデガーの存在概念と並び、どれだけ、20世紀の哲学を毒したことか。言語一般形式という連続的概念に20世紀の哲学は幽閉されていたのである。

後で補足したい。



意味の論理学 上 (1) (文庫)
ジル・ドゥルーズ (著), 小泉 義之 (翻訳)
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