ドゥルーズ哲学は構造主義理論に過ぎない:メディア・ポイントの位階
ドゥルーズ哲学は構造主義理論に過ぎない:メディア・ポイントの位階的超越/現象即非事象構造性
テーマ:メディア・ポイント Media Point
「ニーチェの発見は・・・非人称的で前-個体的な特異性の世界、ニーチェの新たな呼び方では、ディオニュソス的世界・・・」である。『意味の論理学』(上巻)p.194
「・・・ノマド的特異性。個人的でも人格的でもなく単独的な何ものか、・・・。」p. 194
この説明では、ニーチェの哲学は、ドゥルーズ自身の超越論的哲学=内在平面の哲学と等しいことになる。
先にゼロ度空間=構造主義空間の哲学と言ったが、少し補足すると、やはり、問題は、メディア・ポイントのデュナミス/エネルゲイアの様相に関わる。
この点は、重要な問題で、これまで検討したが、さらに精緻化したい。
先ず、既述済みだが、メディア・ポイントMedia Point について簡単に説明しておこう。
ここは、超越的差異即非共振シナジーの空間である。
i*(-i)⇒+1で考えると、*がメディア・ポイントと言えるだろう。そして、⇒は、メディア・ポイントを起点とした同一性化=現象化へのエネルギーないし動態化を意味すると考えられる。
エネルギー論的にいうと、微妙である。
メディア・ポイントMedia Point は、超越的差異即非性の静態性が存すると同時に、動態性が発動するポイントである。だから、静態性・即非・動態性のポイントと言えよう。
問題は、エネルゲイアである。これは、虚数エネルギーなのか、実数エネルギーなのか、である。これまでは、両方に関わると考えてきた。
思うに、虚数の即非エネルゲイアがここで、ゼロ度共振するだろう。このゼロ度とは、初期的には、虚数軸上のゼロ度である。つまり、虚数軸のゼロ度のエネルゲイアである。これは、簡単に表記すると、i*(-i)の*において、虚数ゼロ度共振するということと考えられる。
問題は、この虚数ゼロ度共振が、即非的に、同時に(?)、実数ゼロ度共振でもあるということである。実数ゼロ度共振とは、端的に、同一性化である。差異と差異が実数ゼロ度共振して、同一性を形成するのである。これは、⇒+1の意味である。
言い換えると、
メディア・ポイント:虚数ゼロ度共振(差異即非性)⇒実数ゼロ度共振(同一性化)
となるだろう。
虚数ゼロ度共振は、動態であるから、エネルゲイアである。そして、これは、私の考えでは、虚数エネルギーである。しかし、実数ゼロ度共振もエネルゲイアであるが、これは、実数エネルギーである。
つまり、メディア・ポイント:虚数エネルギー⇒実数エネルギーとなる。
そして、この⇒の変換構造を明晰にしたいのである。
思うに、虚数エネルギーはポテンシャル・エネルギーであろう。正確に言うならば、虚数次元のポテンシャル・エネルギーであり、それが、実数次元のエネルギーに転換すると思われるのである。
虚数的ポテンシャル・エネルギー⇒実数的エネルギー
となるだろう。
思うに、虚数的ポテンシャル・エネルギーとは、原-同一性を形成しているのではないだろうか。即ち、原-同一性⇒同一性という事象があるのではないか。あるいは、原-個体⇒個体である。
思うに、この原-同一性ないし原-個体が一般的な意味でのイデアないしエイドスではないだろうか。
アリストテレス的に形相と言った場合は、それは、原-同一性のもつ虚数次元を否定して、原-同一性を実数次元に置いたものだろう。
とまれ、問題は、虚数的原-同一性と実数的同一性との関係である。
思うに、ここは、やはり、即非構造と言うのが妥当だと思われるのである。
である。このメディア・ポイントMedia Point の虚数軸・即非・実数軸の即非構造が、最高度に驚異的なものであると言えよう。
これを、メディア・ポイントの即非様相性ないし即非構造性と呼んでいいのではないだろうか。
この変換構造は、即非という概念以外では記述できないのではないだろうか。もっとも、ここに即非構造には、階層性を置く必要があるのではないだろうか。
というのは、超越性-即非-現象性という構造があるからである。
超越性を「天」にすれば、現象性は「地」であろうからである。
通俗に言えば、月とスッポンである。
だから、メディア・ポイントの即非構造は、階層的即非構造となるのではないだろうか。ニーチェ的に言えば、位階的即非構造である。
ニーチェに敬意を払って、メディア・ポイントの即非構造を位階的即非構造と呼んでおこう。
そう、この位階的即非構造であるが、これは、平行論ではないだろうか。即ち、超越的差異共振性と現象的同一性は平行性をもつと考えるべきではないだろうか。
一見、ゼロ度で両者交わっているように見えるが、実は、交わっていないと見るのが正しいのではないだろうか。
問題は、虚数軸的共振性⇒実数軸的同一性の⇒で何が起こっているのかでもある。
即ち、メディア・ポイントMPに於ける虚数軸⇒実数軸の変換において、何が起きているかといえば、当然、同一性化である。⇒+1である。
だから、メディア・ポイントとは、十全に言えば、*であると同時に、⇒であるということになるだろう。即ち、
メディア・ポイントMedia Point:*and ⇒ あるいは、*⇒
である。これが、メディア・ポイントの位階的即非構造の記号である。
さらに追求すれば、⇒の「力学」とは何かである。
少し飛躍的になるが、例えば、虚数軸を右脳空間、実数軸を左脳空間とすると、メディア・ポイントの⇒とは、右脳空間と左脳空間が脳梁で結合しているような様相ではないだろうか。
私が今、イメージしているのは、表裏面のことである。即ち、メディア・ポイントにおいて、虚数軸「面」は、超越的差異共振様相であるが、実数軸「面」は、現象的同一性様相であるということである。
点を面として考えるのは、問題ではあるが、作業仮説的にそう考えてみるのである。
即ち、メディア・ポイントの位階的即非構造であるが、これは、上部が、超越的差異共振様相であり、下部が現象的同一性様相であるということなるだろう。位階的即非構造は、位階的超越/現象即非事象構造であり、簡略して、位階超・現即非事象構造と言えよう。
正確に言うと、上面が虚数的差異共振様相であり、下面が実数的形相同一性様相であろう。
さらに精緻に言うと、上面が虚数的差異共振エイドス(イデア)的様相であり、下面が実数的形相的様相である。
さらに精緻に言うと、上階が虚数的差異共振エイドス(イデア)的様相であり、下階が実数的形相的様相である。
そして、上階と下階の関係であるが、これは、表裏的な平行関係ではないか。
両者は、即非的一如であるが、混淆はしていない。分離的に一如である。
比喩的に言えば、メディア・ポイントは、虚数面と実数面の両面をもっているということになる。
虚数的超越的共振エイドス面と実数的現象的形相面である。
分離的結合、即ち、即非様相である。
両者は、それぞれ、独立し分離していると同時に、一如、一体である。正に、即非事象である。
これが、メディア・ポイント*⇒の意味であろう。
さて、何度も繰り返すことになるが、位階的即非事象空間であるメディア・ポイントMedia Point を、これまで、大半の哲学・理論(科学を含めて)は、連続空間化して捉えていたのである。
思想史的に、大乗仏教の「空」理論が、おそらく、これをもっとも近く把握していたと考えられる。「空」をメディア・ポイントと見ると、明快である。色=同一性現象とすれば、色即是空とは、同一性現象は、メディア・ポイントであり、それは、虚数軸事象であるということになるだろう。
また、空即是色であるが、「空」即ち、メディア・ポイントは、同時に、現象同一性である。
より明快にするなら、虚数軸事象を「無」とした方がいいだろう。だから、無・即非(空)・色であり、色・即非(空)・無である。
だから、色即非無であり、無即非色である。
あるいは、色空無であり、無空色である。
西田哲学の絶対無や九鬼哲学の形而上学性とは、この無のことと考えられる。
さて、最後に、冒頭のドゥルーズによるニーチェ哲学理解の問題であるが、我田引水的にニーチェ哲学を解釈しているのは、明瞭である。
先にも述べたが、ドゥルーズの超越論性=内在平面哲学とは、メディア・ポイントを実数的形相同一性の面ないし階だけで把握しているのである。つまり、超越面ないし超越階を否定して、現象面ないし現象階だけで把握しているのである。
即ち、メディア・ポイントの現象面=実数的形相同一性面がドゥルーズの超越論性=内在平面である。端的に言えば、実数軸上のゼロ・ポイントである。