MP現象学:メディア・ポイントはどう認識されるのか:内的身体と大地

MP現象学:メディア・ポイントはどう認識されるのか:内的身体と大地性:メディア・ポイントの太極性


テーマ:メディア・ポイントMedia Point


メディア・ポイントを介して、超越性は天上性であり、現象性は地上性であると言ったが、では、大地性はどうなるのか。また、端的に、MPはどう知覚・認識されるのか。

大地性ないし霊的大地性、あるいは、身体的霊性のことであるが、それは、これまで、内的身体性と呼んできた。

そして、端的に言えば、この大地性とは、メディア・ポイントのことと考えられるので、メディア・ポイントの、いわば、経験論的知覚・認識は、内的身体によると考えられるのである。

この内的身体をスピノザの心身平行論は説いていないのであるが、実質は、そこに潜在していると考えられる。

つまり、知と身体との中間態としての内的身体にメディア・ポイントが知覚されると考えられる。ただし、通常は、現象界の同一性とその連続化(自我・無明化)によって、それは、純粋ではなく、混合・混淆・混濁した様態にあると考えられる。

内的身体の純粋化によって、メディア・ポイントは知覚・認識されると考えられる。仏教はこれを説いてきたし、その他の宗教や神話は同様に考えられよう。

言い換えると、純粋メディア・ポイント認識である。当然、自己認識である。

とまれ、簡単にいうと、メディア・ポイントとは大地である。
超越性=天上性と現象性=地上性との即非点としての大地(=内的身体)である。

この観点から見ると、近代主義は、メディア・ポイントにおいて、現象性=地上性の同一性を連続化させて、メディア・ポイントの超越性=天上性を、いわば、簒奪するように否定したように思われる。

本来、メディア・ポイントにおいて、超越性=天上性があるのであるが、それが、現象性=地上性の連続化(近代合理主義、唯物論、近代的自我)によって、盲目的に覆われてしまったように思えるのである。

つまり、認識主体は自身を、連続的同一性空間で満たしていて、それで目が眩んでいる様態なのだと思う(無明)。そう、連続的同一性的無明である。現代の自己愛性人格障害である。本当は、自我愛性人格喪失障害であるが。

ここには、ニーチェのいう賎民性があるし、ロレンスのいう自我栄光化があるし、私のいう劣弱さな心性があると考えられる。

端的に言えば、超越性の喪失である。

というか、より正確に言えば、超越性の否定があるのである。悪霊・悪魔性である。

世界大戦を生んだもの、マルクス主義を生んだもの、イラク戦争を生んだもの、等々は、この超越性の否定=悪霊・悪魔性に拠る。

これまで、この根因の説明として、男性性のもつ連続的同一性の傾斜性を提起した。正確に言うと、同一性への傾斜であろう。

即ち、原始ないし初期メディア・ポイントにおいて、その位階的即非点において、超越的エイドスと現象的形相の位階二相があるが、超越的自己は、現象界において、当然、後者を基礎として、現象知覚・認識を形成していく。すなわち、現象的同一性化である。しかしながら、本来、自然現象は、差異を内包している。この差異は、超越性である。つまり、超越的差異を内包しているのである。便宜的に図式化すれば、同一性・差異・同一性・差異・同一性である。

しかるに、人間の認識、とりわけ、男性の認識は、同一性中心となり、差異を否定・無化し、連続化するのである。即ち、

連続的同一性・連続的同一性・連続的同一性・・・・・

である。これは、+1⇒+1⇒+1の変形として、

  • 1⇒-1⇒-1と表記できよう。

これが、連続的同一性=悪霊・悪魔性の公式であろう。

さて、メディア・ポイントの位階的即非性から、この悪霊・悪魔性の発現の意味を再考してみよう。

人間の精神性、倫理・道徳性は、メディア・ポイントに於ける超越性に基づくと考えられる。何故なら、ここは、位階性があり、超越性は高貴なものであり、同一性から見ると、高いものであるからである。

善は、ここから発生すると言えよう。

善のイデアがここにあると言えよう。

i*(-i)⇒+1から見ると、左辺の-iが他者、原-他者であり、それは、原自己との関係においては、高貴なものと言えよう。

しかし、メディア・ポイントの地上的同一性を見ると、それは、いわば、水平的な関係にあると言えよう。これは世俗性となる。

つまり、メディア・ポイントにおいて、本来、位階的天地性があり、これが、位階的秩序(コスモス)を形成していると言えよう。

しかるに、近代主義になると、超越性が否定されるので、水平的世俗性が、連続的同一性が価値となるのである。これは、本源的な価値観の否定である。群衆・愚民・衆愚政治化である。

ここで、超越性の否定・無化の意味を考えたいのである。

思考実験として、もし、超越的差異性を現象・世俗界において、ある個人が保持した場合、どうなるのか、である。

そう、思うに、メディア・ポイント的意識があり、また、現象界は同一性界なので、個人は認識において混乱・当惑するだろう。

思うに、初期において、メディア・ポイント的位階的意識は未分化的で、天地の区別が不明瞭であると思うのである。

混淆した意識をもつであろう。

問題は、やはり、一神教的意識、父権的意識である。

これが、天地を引き裂くのである。それまでは、メディア・ポイントに於ける天地混淆意識であったが、ここにおいて、二元論化するのである。

私は以前から近代主義はここといわば血繋がりであると考えている。そして、この点については何度も試論したのである。

人類史の最大の問題がここにあると言っても過言ではない。

直観で言うと、これは、知の問題である。同一性知性の問題である。

左脳の問題である。思うに、先に述べたが、超越性は右脳性であり、現象性は左脳性である。

イデアやヴィジョンは右脳と関係すると思うのである。(これは便宜的に言っているのである。基盤は超越性であり、その物質的発現が右脳ということである。)

これは、表現としては、イメージ表現となるだろう。あるいは、芸術・芸能的表現となるだろう。

ここには、言語による同一性認識がないのである。

言語があっても、それは、超越性のための言語であり、同一性認識のためのものではないだろう。

しかるに、一神教・父権主義の発生とはこの位階への否定としてあったと考えられるのである。

超越性⇒同一性という位階性が否定されて、同一性⇒同一性となったのではないだろうか。つまり、これは、超越性の位置を同一性が占領したということになるのではないだろうか。

同一性⇒同一性の公式において、左辺の同一性がいわば、超越的同一性であり、右辺が連続的同一性ではないだろうか。

左辺の超越的同一性が一神教の神、唯一神ではないだろうか。

そして、これは、当然、同一性・差異・同一性という現象界の差異を徹底して否定・無化するだろう。それが、⇒同一性であろう。

具体的に言うと、ブッシュの軍事的民主化路線とは、正に、この超越的同一性⇒連続的同一性の公式の具現ではないか。

超越的同一性⇒連続的同一性

これを同一性絶対的全体主義と呼びたい。日本は正に、アメリカの超越的同一性の支配を被り、連続的同一性化しているのである。つまり、悪霊・悪魔化である。

しかしながら、本考察によって、根源的悪霊・悪魔は、連続的同一性ではないことがわかるだろう。連続的同一性は結果に過ぎないのである。

大悪霊・大悪魔は、超越的同一性である。言い換えると、唯一神が大悪霊・大悪魔である。

確かに、これも元々は連続的同一性ではあるが、位置が異なるのである。

問題は、超越性を同一性が占領支配することである。

これが、端的に、悪霊・悪魔性である。傲岸不遜である。現代日本は悪霊・悪魔が跋扈している。

いったい、この同一性力学は何なのだろうか。

そう、+1の同一性と-1 の同一性がある。そして、前者は、肯定的なことである。しかし、後者が否定的であり、悪霊・悪魔的である。

超越的差異が+1として同一性化することは、真の知を意味し、人間のエンテレケイアであろう。

しかるに、-1として同一性化することは、邪知であり、悪霊・悪魔的であり、邪道・魔道・外道・極道である。

近代主義は後者であったのである。だから、世界戦争やマルクス主義が生起したのである。

やはり、男性の同一性傾斜を考えることになるのである。

男性は同一性傾斜があるので、当然、超越性を否定・無化する傾向にあると言えよう。つまり、男性は悪霊・悪魔的であるということになるだろう。

男性は悪霊・悪魔である。女性は天使・精霊的なのである。

近代主義が男性=悪霊・悪魔が支配して、女性=天使・精霊が屈服した時代であったと言えよう。

しかしながら、男性=悪霊・悪魔の支配は、同一性知性の時代であった。近代科学・技術、唯物論的科学の時代であった。ここに、積極的な、同時に、危機的な意味があると言えよう。

エネルギーの配分において、同一性へと帰結する時があると考えられる。易経で言えば、陽の極まりである。

これが、近代主義の意味ではないだろうか。

すると、陽極まりて陰に転ず、である。

同一性へと傾斜したエネルギーが反転して、差異へと転換するということではないだろうか。即ち、超越性へと回帰するということではないだろうか。

ここで、メディア・ポイントの位階即非様相を考えると、ここには、デュナミス=ポテンシャル・エネルギーが本源的に存する。

そして、同一性への傾斜は、同一性エネルギーの発動を意味するだろう。しかるに、エネルギー保存則から言うと、同一性エネルギーに放出に対して、それに対する反同一性エネルギーが発出するはずである。

これが、差異エネルギーであり、超越的エネルギーではないだろうか。

差異-同一性-差異-同一性の系列で考えると、近代主義は、同一性が優勢であった。即ち、

劣位・差異ー優位・同一性ー劣位・差異ー優位・同一性

であったろう。

しかるに、これが反転して、

優位・差異ー劣位・同一性ー優位・差異ー劣位・同一性

と転換するのではないのか。

つまり、同一性と差異性との極性バランスがあるのではないだろうか。

思うに、ポスト・モダンとは、反転性をもっていたが、まったく不十分で、同一性、とりわけ、連続的同一性に囚われていた、つまり、実数軸空間に囚われていたので、頓挫してしまったと言えるだろう。

確かに、反転の志向性はあったといえよう。

そして、この反転の潮流は、止まらないだろう。差異・超越性へのエネルギーが賦活・活性化されていると考えられるからである。

この差異・超越性エネルギーの潮流とは、言い換えると、情報革命である。差異的情報がIT等によって爆発的に活性化したのである。

これは、超越性の活性である。そして、宗教の活性化とも言えるだろう。

トランス・モダンの到来である。

政治・経済・社会もトランス・モダン化せざるをえないが、日本は、近代的同一性の泥沼に落ち込んでいる。

そう、反動路線である。知的退化・劣化の日本である。亡国日本である。

トランス・モダンに覚醒せよ、日本!

メディア・ポイントの覚醒(Buddha)だ!

超越的差異共振シナジー・エネルギーを活性化せよ!

トランス・モダン・ヤポネシアン・イノベーションだ!