メディア・ポイントの宗教と⇒+1の多神教:イエス教は仏教的か、又

MePoの宗教と⇒+1の多神教:イエス教は仏教的か、又は、多神教的か:一神教多神教化:第三聖書


テーマ:一神教多神教


MePoの宗教と⇒+1の多神教:イエス教は仏教的か、又は、多神教的か:一神教多神教化:第三聖書
テーマ:一神教多神教
先に、仏教は、MePo自体の宗教であり、多神教は、MePoの+1への展開をもつ宗教と言った。

そして、一神教は、MePoの-1への展開の宗教と言い、イエスの教え(以下、イエス教)は、仏教か多神教的であると言った。

ここでは、イエス教は、仏教的なのか、それとも、多神教的なのか、明確にしたい。

エス教を、先に、他者との共生を説く教えであると言い、だから、多神教的であると言った。

他者との共生は、多神教的であるのか。

というか、問題は、MePo自体の宗教というものがあるのか、どうかを考えなくてはならないということだろう。

仏陀の悟り(覚醒)とは、思うに、瞑想によって、MePoに達したことにあるのではないだろうか。MePoは、i*(-i)⇒+1の*⇒であろう。*自体は、虚数軸の原点なので、人間には達することができないのではないだろうか。

とまれ、仏陀の覚醒は、MePoの認識にあったように思える。そして、大乗仏教は、MePo⇒+1の展開を意味すると思うのである。これが、衆生の救済志向である。社会救済志向である。そして、これは、まったくイエス教と一致するものだと思う。

すると、大乗仏教とイエス教は、多神教と同じものとなるだろう。これをどう考えるのか。

端的に言って、大乗仏教とイエス教は、⇒+1になるので、多神教と同質のものと言えよう。しかし、多神教は、自然に向けられたものであり、大乗仏教とイエス教は、社会に向けられたものという点で相違があると言えよう。しかし、三者、同質であると考えられる。

また、一神教であるが、それは、MePo自体を連続的同一性化していると言えよう。そして、超越的同一性=唯一神が存するのである。

さて、ここで、先に検討問題とした超越的同一性と連続的同一性の構造を考察してみよう。

これは、既述したように、一神教と連続的同一性の同形性の問題である。

一神教は、既述・上述したように、MePoにおける⇒-1の展開において発生すると言えよう。このときの、MePoが唯一神となる。

これは、i*-(-i)⇒-1である。

原-他者である-iが否定されるのである。

これは、どういうことなのだろうか。

考えられるのは、超越界における極性変化である。iと-iとの極性を考えると、iに傾斜する場合を考える。すると、それは、iが優位であり、-iが劣位である。

それが、この意味なのではないだろうか。原-主体が、原-他者に優位になるという事象が、i*-(-i)⇒-1なのではないだろうか。

原-主体を原-知(原-思惟)、原-他者を原-身体(原-質料)としてもいいだろう。

そうすると、これは、原-知が過剰となり、原-身体を否定し同一性化するということである。即ち、原-身体ないし身体性への否定と言えるだろう。そして、さらに、原-知を原-左脳性、原-身体を原-右脳性とすると、これは、ヴィジョン、イメージの否定である。これが、一神教のもつ偶像破壊(イコノクラズム)となるのではないのか。

とまれ、ここでは、超越界の極性変化を作業仮説にして考えたのである。

そして、この⇒-1とは、正に、連続的同一性主義と言えよう。これは、MePoの極限的様態であり、極性が破綻したものと言えよう。

つまり、これが、二元論と言えるのではないだろうか。原-主体が原-他者に対して、優位になり、二項対立が発生したということではないのか。

MePoが、二元論的になったと言えよう。つまり、唯一神になったということである。iが唯一神になり、-iが排除されたということである。そして、おそらく、-iの排除が多神教や異教の排除を意味するのである。

この事態を、先に、超越的差異の簒奪と言ったものではないだろうか。しかし、これは、MePo自体の極限的変異と言えるだろう。

そう、MePoのヤハウェ化と言えるのではないだろうか。

しかし、基本的には、MePoは、超越的差異共振性であるから、エローヒーム(神々)が存するのではないだろうか。

しかし、そう考えると、問題は、MePoの性質である。

本来、MePoは、超越的差異共振性をもつのに、それが、超越的連続的同一性化を発生させると考えるのは、矛盾しているのではないかという疑問が浮かぶのである。

この、いわば、矛盾をどう考えるのか。

そう、これは、やはり、矛盾していないと思う。ここで、超越性の、いわば、太極性を考えればいいのである。iが-iを否定する事態とは、陰陽極性で言えば、陽が極まった様相を考えればいいのであり、あくまでもここには、太極性の世界があるということになる。

陽が極まったとは、陰がゼロになったということである。これが、i*-(-i)⇒-1の事象だと思うのである。

あくまで、*ないし太極性は保持されているということである。

つまり、超越的差異共振性の極限としての超越的連続的同一性化であり、MePoがそのような様態をとると考えるのである。

極限という用語が問題ならば、極端でもいいだろう。

だから、超越的連続的同一性化ではあっても、MePoの太極性は喪失していないことになる。超越的太極性の一様相としての超越的連続的同一性ということになる。

この超越的太極性ということが、旧約聖書のエローヒーム(神の複数形)に表現されているのだと思うのである。

つまり、ヤハウェは、イスラエルの民が偶像崇拝(金牛像崇拝)するのに対して、怒り狂って、罰を与えるが、この否定対象である根源的な-iを、本来は認めていると見るべきなのではないだろうか。単純に考えて、否定するというのは、他者の存在を認めているからである。他者の存在がなければ、否定はそもそもないのである。

つまり、超越的連続的同一性=ヤハウェとは、他者を妬んでいるのである。

ヤハウェは、イスラエルの民が自分ではなく、金牛像を崇拝するのを妬んでいるのである。

つまり、他者-iを嫉視しているのである。

本来、差異共振ならば、他者-iと共振するから、民が偶像崇拝しても、それに対して寛容的になるはずである。しかし、民-iを妬むとは、自己iにおける自恃・自負の念が強いのであろう。我こそはである。iの過剰なエネルギーがあると思うのである。そのため、それを、他者-iに投影すると思うのである。

それが、超越的連続的同一性=ヤハウェの本質であると思う。

iの他者-iへの投影である。それが、i*-(-i)⇒-1であろう。

つまり、本来、他者-iと主体iは、共振しているのであるが、主体iが過剰化するときがある。即ち、陽の極まりの時である。そのとき、共振の対象であった他者-iを、過剰な主体iは、妬み、同一性化するのである。主体所有としたいのである。自我所有したいのである。

もし、初めから、共振様相がなければ、他者はないのであるから、主体が過剰になっても、他者は関係ないはずである。

ということで、以上の仮説は証明されたであろう。

そう、ヤハウェ教は、多神教の極端的変異なのである。

ここで、天才D.H.ロレンスの言葉が想起するのである。ロレンスは最晩年、新しい聖書の翻訳を読んで、旧約聖書の神が複数・多元的であること、即ち、多神教的であることを発見して歓喜するのである。

PS理論から言うと、MePoであるヤハウェは、本来、超越的差異共振シナジー様相をもっているのである。それは、他者との共生・共存を意味するのであり、当然、多神教的なのである。

そう考えると、一神教の変容が考えられよう。つまり、ヤハウェ多神教化である。


参考1:
出エジプト記

第20章

EXO20:01
神はこれらすべての言葉を告げられた。
EXO20:02
「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。
EXO20:03
あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。
EXO20:04
あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。
EXO20:05
あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、
EXO20:06
わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。
EXO20:07
あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。
http://www.is.seisen-u.ac.jp/~zkohta/bible/old_t/1/exo.html#exo20


参考2:D.H.ロレンスの『アポカリプス補遺1』から

In Apocalypse, Fragment Ⅰ, Lawrence tells that God of the Old Testament is polytheistic.
“Now the Bible, we know well, is a great religious book. It is full of God. .....The Jews did a wonderful thing when they focused the whole religious feeling of man upon One God. But that does not prevent their Bible from being full of all the gods. It is this discovery which a man can make in his maturity, to his unspeakable relief.
The Bible is full of all the gods. Nay, even, the Jahveh of the Old Testament is all the gods, except the dying and redeeming gods. But surely the Jehovah of Genesis and Numbers, Samuel, Psalms, Isaiah, Ezekiel, surely he is all the gods in turn, Dionysic, Apollo-like, strange like Ra, and grim like Baal or Bel. You can’t make an idol to Jehovah because he has the qualities of all the ancient gods in turn, Ouranos or Kronos or Saturn, even the old Osiris, or the mysterious gods of the first Sumerians. He is One because he is all of them, not because he is different from any of them. He does not sit absolute and apart, while all the other gods topple, mere fallen into idols. He is himself all the gods and all the idols, savage and fertile, and even he is all the unknown gods that are yet to come.
…………………………
But now, having really read the Bible as a book, not as a one-sided pronouncement, I realize the very truth of the Bible: If this God exists, One and Eternal, then all the other gods exist too. For all the gods are only “sides” of the One God.”(p. 156)
http://ameblo.jp/renshi/theme-10000509927.html