夢:続き:叡知界から人間界への帰還

夢:続き:叡知界から人間界への帰還


テーマ:神話学・不思議学・フォークロアケルト


今朝見た夢は、大学で、単位取得のために、姜 尚中(カン サンジュン、강 상중)氏の科目のレポートを書く必要があった。やはり単位を必要とする学生に聞くと、本を手に入れないといけないという。その学生は、自分は、人間に関する科目に興味をもったので、それらに関係する科目を履修していると言った。それに対して、私は、ならば、人間学の授業を取ればいいのではないかと言ったが、それは、自分の望んでいるものではないと言った。

その他のことがあったが、忘れてしまった。
思うに、大学は、これまでの経緯から言うと、叡知界である。そして、ある学生がいう人間に関した科目とは、おそらく、「衆生」のことである。即ち、叡知界から人間界へ帰還・復帰を意味するだろう。親鸞で言えば、還相回向(げんそうえこう)である。

ニーチェで言えば、ツァラトゥストラの下山である。

しかし、何故、姜 尚中氏の科目なのだろうか。思えば、先の夢にも、韓国が出ていたし、また、モンゴルのことも出ていた。また、ハンガリーのこともあった。すると、遊牧民・ノマッドのことを示唆しているのではないだろうか。

差異共振性のこととも言えそうである。

p.s.
思うに、「在日コリアン」(在日とは、差別的であろう。コリアン系外国人でいいのではないか。)は、特異性となるのではないだろうか。韓国・朝鮮と日本との間、即ち、同一性と同一性との間である差異=特異性となるのではないだろうか。

彼らは、同一性の観念では理解できないだろう。差異=特異性=ノマッドの観念で理解すべきなのではないか。

今日、トランス・モダンのエポックにあって、民族国家中心主義が解体しつつあるが、それを同一性とすれば、「国民」(同一性)は、国家と国家との間、狭間、中間の存在となり、つまり、端的に言えば、差異=特異性=ノマッド化しているのではないのか。

すると、コリアン系外国人の立場が、現代的となるだろう。日本国民とは、差異=特異性=ノマッドとなるのではないだろうか。ノマッドとしての日本国民ではないのか。

後で検討したい。


参考1:
姜尚中
出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』
移動: ナビゲーション , 検索

姜 尚中(カン サンジュン、강상중、1950年 8月 - )は、熊本県 生まれの政治学者 。

在日コリアン 二世として熊本市 に生まれる。父は1917年 、慶尚南道 昌原郡南山里生まれで、1931年 によりよい生活を求めて渡日。その後生活が安定した後、故郷で結婚を決めていた許婚・禹順南を呼び寄せた。また、叔父の一人は日本で高等教育を受け、大学卒業後は旧日本軍に入隊し憲兵として権勢を振るった。戦後、父親は廃品回収業を営み経済的に成功する。

熊本県立済々黌高等学校 を経て早稲田大学 政治経済学部 卒業。早稲田大学大学院 政治学 研究科博士課程 を修了。西ドイツ ・エアランゲン大学 留学 (1979年 - 1981年 )後、明治学院大学 講師、国際基督教大学 準教授 を経て、東京大学教授(所属:社会情報研究所 情報行動部門)。現在、東京大学 情報学環 教授 。専攻は政治学・政治思想史 。研究分野はアジア地域主義論・日本の帝国主義を対象としたポストコロニアル理論 。

当初、日本名永野鉄男(ながのてつお)を名乗っていたが、早稲田大学在学中、韓国文化研究会に参加し、1972年 訪韓以来、民族名を使用する。

在日韓国学生同盟(韓国文化研究会)が連帯を謳っていた韓国における学生運動から「左の独裁にも右の独裁にも反対する」という声明が出たときに、これを、丸山眞男 の「民主主義の永久革命」と読み替えていくことにより北朝鮮に対してさめた眼を保ち得たと後に語っている。1984年 、外国人指紋押捺 を拒否するが、ヒロイズムとは違った道でしか解決は見出せないと考え、最終的には押捺に応じる。この間の苦渋に満ちた経験からプロテスタント の洗礼 を受けた。

近年は朝まで生テレビ! を始め、多くの討論番組やトーク番組に頻繁に出演し、独特の語り口調で知られる。論敵は親米保守村田晃嗣 であり、主に外交問題にて対立。番組終了とほぼ同時に席から立ち上がって、スタジオを去り行くことが多い。50歳にして運転免許を取得。最近の趣味は登山・ドライブ・絵画。mixiにコミュニティーも存在する。


思想

ポストコロニアリズム 思想としてのエドワード・サイード の影響が強く見られ、彼の言動は、サイードの著作『知識人とは何か』(平凡社)に通じるところが多い。在日韓国朝鮮人 という立場を、サイードの言う「周辺者」あるいは「亡命者」とみなし、日本と韓国という二つの祖国をもつ独自の存在とし、日本社会が歴史的に捉えてきた朝鮮史観、およびそこにある偏見に対して批判を加えている。日本の戦前の朝鮮史観の始まりは、山県有朋 の「主権線・利益線」にまで遡る。日本の近代化としての理想像が西欧社会であるならば、その反転としての未開地域、停滞地域として朝鮮半島が、そして東北アジアが「発見」されたと説く。

終戦後、丸山眞男 のいう「悔恨の共同体」を経て、経済復興、高度経済成長を背景に「日本特殊論」などが登場してくる中で、西欧との同一化と差異化のプロセスとして再び戦前と同様の東北アジア史観が「再発見」されたと考える。つまり、彼の主張によれば、戦前の東北アジア史観は現在も残存しており、それは言い換えれば、朝鮮民族などに対する偏見・差別が日本社会に未だに根強く残っているということであり、在日社会はそれを毎日経験していることになる。

ナショナリズム 批判についての著作も多いが、これは単純なナショナリズム 批判を意味するのではなく、ましてや日本国内に限定されたナショナリズム (日本には批判的、他国には同調)を意味するものでもなく、現在の世界システム自由主義 経済による支配システムとして考えた場合、その中枢にいる一握りの経済大国と周辺に追いやられた諸国との経済格差は無視できないどころか、ますます大きくなっていると説く。そうした場合に、有無を言わさず周辺化される力学に反抗する手段としての、いわばイマニュエル・ウォーラステイン のいう「反システム運動」としてのナショナリズムに対しては一定の理解を示す。また、そうした意味で、サミュエル・ハンチントン が言うような「文明の衝突」に対しても、世界システムにおける中枢国と周辺国の格差を無視したオリエンタリズム 的図式であるとする。

彼にとっては、極右知識人も極左知識人も、いわばサイードの言う「常に失敗する神々」であり、絶対的な神に委ねられた思想崇拝に対する危険性を看破する。それゆえ、現在のアメリカが掲げる「自由 と民主主義 」の絶対的理念に対しても冷めた見方を示し、9・11テロ 以降、イラク戦争 に至るアメリカの一国主義には徹底した批判を展開した。

「大衆こそ、知識人にとってのナチュラルな支援者である」とするサイードの言葉のごとく、種々の専門家に対して発言するだけでなく、メディアを通して生身の自分をさらすと同時に、大衆に対して淡々と自らの主張を説く。


また「田中真紀子さんに日本の首相になってほしい」(「月刊現代」2007年4月号)など、独自の政治家評価をしている。


著書


単著

* 『マックス・ウェーバー と近代――合理化論のプロブレマティーク』(御茶の水書房 , 1986年 /岩波書店岩波現代文庫 ], 2003年 )
* 『アジア から読む日本国憲法 』(かもがわ出版 , 1993年 )
* 『アジアから日本を問う』(岩波書店岩波ブックレット ], 1994年 )
* 『ふたつの戦後と日本――アジアから問う戦後50年』(三一書房 , 1995年 )
* 『オリエンタリズム の彼方へ――近代文化批判』(岩波書店, 1996年 /岩波現代文庫, 2004年)
* 『ナショナリズム』(岩波書店, 2001年 )
* 『東北アジア共同の家をめざして』(平凡社 , 2001年)
* 『暮らしから考える政治――女性・戦争・食』(岩波書店岩波ブックレット], 2002年 )
* 『日朝関係の克服――なぜ国交正常化交渉が必要なのか』(集英社集英社新書], 2003年)
* 『反ナショナリズム――帝国の妄想と国家の暴力に抗して』(教育史料出版会 , 2003年/講談社講談社+α文庫], 2005年)
* 『在日』(講談社, 2004年 )
* 『在日――ふたつの「祖国」への思い』(講談社講談社+α新書], 2005年)
* 『姜尚中政治学入門』(集英社集英社新書], 2006年)
* 『愛国の作法』(朝日新聞社朝日新書], 2006年)

共著

* (安斎育郎 ・朱建栄 ・松井やより ・村山晃 )『アジア・女性・沖縄が問う日本』(かもがわ出版 , 1996年)
* (石田雄 )『丸山眞男市民社会』(世織書房 , 1997年 )
* (中村雄二郎 )『インターネット哲学アゴラ――文化』(岩波書店, 1999年 )
* (宮台真司水木しげる中西新太郎若桑みどり石坂啓 ・沢田竜夫 ・梅野正信 )『戦争論妄想論』(教育史料出版会, 1999年)
* (宮崎学 )『ぼくたちが石原都知事を買えない四つの理由。』(朝日新聞社 , 2000年 )
* (吉見俊哉 )『グローバル化 の遠近法――新しい公共空間を求めて』(岩波書店, 2001年)
* (網野善彦田中優子樺山紘一成田龍一三浦雅士小熊英二 )『「日本」をめぐって――網野善彦対談集』(講談社, 2001年)
* (森巣博 )『ナショナリズムの克服』(集英社集英社新書], 2002年)
* (齋藤純一 ・杉田敦高橋哲哉 )『思考をひらく――分断される世界のなかで』(岩波書店, 2002年)
* (キャロル・グラッグ ・テッサ・モーリス=スズキ ・比屋根照夫 ・岩崎奈緒子 ・タカシ・フジタニ ・ハリー・ハルトゥーニアン )『日本の歴史(25)日本はどこへ行くのか』(講談社, 2003年)
* (田原総一朗西部邁 )『愛国心』(講談社, 2003年/講談社+α文庫, 2005年)
* (内田雅敏 )『在日からの手紙』(太田出版 , 2003年)
* (宮台真司)『挑発する知――国家、思想、そして知識を考える』(双風舎, 2003年)
* (きくちゆみ ・田島泰彦 ・渡辺治 )『「イラク」後の世界と日本――いま考えるべきこと、言うべきこと』(岩波書店岩波ブックレット], 2003年)
* (佐高信 )『日本論』(毎日新聞社 , 2004年)
* (テッサ・モーリス=スズキ)『デモクラシーの冒険』(集英社集英社新書]、2004年)
* (森達也 )『戦争の世紀を超えて――その場所で語られるべき戦争の記憶がある』(講談社、2004年)
* (井筒和幸井上ひさし香山リカ ・木村裕一 ・黒柳徹子猿谷要品川正治辛酸なめ子田島征三中村哲半藤一利 ・ピーコ ・松本侑子美輪明宏森永卓郎吉永小百合渡辺えり子 )『憲法を変えて戦争に行こう―という世の中にしないための18人の発言』(岩波書店岩波ブックレット], 2005年)
* (吉田司 )『そして、憲法九条は。』(晶文社, 2006年)

編著

* 『ポストコロニアリズム 』(作品社 , 2001年)
* 『「日米関係」からの自立――9・11 からイラク北朝鮮 危機まで』(藤原書店 , 2003年)

共編著

* (西川長夫 ・西成彦 )『20世紀をいかに越えるか――多言語・多文化主義を手がかりにして』(平凡社 , 2000年)
* (青木保 ・小杉泰 ・坂元ひろ子 ・莫邦富山室信一吉見俊哉四方田犬彦 )『アジア新世紀(全8巻)』(岩波書店, 2002年-2003年)
* (水野直樹 ・李鍾元 )『日朝交渉――課題と展望』(岩波書店, 2003年)
* (『アリエス』編集部)『姜尚中にきいてみた!――東北アジアナショナリズム問答』(講談社講談社文庫], 2005年)

共訳書

* Z・A・ペルチンスキー 編『ヘーゲル の政治哲学――課題と展望』(御茶の水書房, 1989年 )

受賞

* 青丘文化賞 、1995年

"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%9C%E5%B0%9A%E4%B8%AD " より作成

カテゴリ : 政治学者 | 1950年生 | 在日コリアンの人物 | 熊本県出身の人物


参考2:amazonの著書
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/search-handle-url/250-8960880-5103431?%5Fencoding=UTF8&search-type=ss&index=books-jp&field-author=%E5%A7%9C%20%E5%B0%9A%E4%B8%AD


参考3:在日コリアン
在日コリアン
出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』
移動: ナビゲーション , 検索

在日コリアン(ざいにちコリアン)は、日本 に居住 する朝鮮民族 である。ただし、どこまでを在日コリアンと呼ぶべきかについては、いくつかの議論がある。

在日コリアンという言葉は、日本による朝鮮 の植民地 統治時代から継続的に日本に在住し、現在は朝鮮籍 あるいは韓国籍を持ちながら日本に永住する人々に限定して用いられることが多い。この場合、日本国籍 を取得して朝鮮系日本人(日本国籍取得者 )となった者を含まない。ただし、日本の敗戦後になってから日本に渡ってきた者もほとんどの場合は在日コリアンに含まれている。

在日コリアンと区別するために、近年来日した人を「ニューカマー」、敗戦以前から日本に在住する在日コリアンを「オールドカマー」と呼び分けることもある。

・・・
関連項目

* 平和条約国籍離脱者
* 朝鮮籍
* 日本の民族問題
* 国際人権規約
* 民族差別
* 在日本大韓民国民団
* 在日本朝鮮人総連合会
* 朝鮮学校
* 外国人参政権
* 欠格条項
* 在日朝鮮人文学
* 在日朝鮮語
* 在日語
* 在日朝鮮人の言語状況
* パッチギ (在日コリアンを扱った映画)

外部リンク

* 戦前日本在住朝鮮人関係新聞記事検索 京都大学人文科学研究所


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%A8%E6%97%A5%E3%82%B3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%B3