両界曼荼羅とメディア・ポイント:ユダヤ=キリスト教の乗り越えと本

両界曼荼羅とメディア・ポイント:ユダヤキリスト教の乗り越えと本格正統超越界の曙光


テーマ:メディア・ポイントMedia Point


直観を言うと、金剛界曼荼羅がメディア・ポイントにおける超越性で、金剛界曼荼羅がメディア・ポイントにおける現象性であり、両界曼荼羅は、メディア・ポイントの即非的一性を表現しているのである。

大日如来は、超越界の「光」である。超越光である。これは、当然、阿弥陀如来(無量光)とほぼ等しい。また、大日如来は、メディア・ポイント自体と考えていいだろう。

超越光であり、現象光である。

また、金剛界の抽象性は、超越界の抽象性であり、胎蔵界の具象性は現象界の具象性に関係しよう。

後者の神々が、前者の円や正方形に相応する。

これは、多神教であり、多元論である。

正確に言えば、即非一性的多神教=多元論であると言えよう。これが、偉大な、天才空海両界曼荼羅の奥義であろう。

説明によると、金剛界が智であり、胎蔵界が理である。確かに、金剛界は叡知界であり、胎蔵界は、現象界の⇒+1の差異的同一性の「理性」界であろう。

ここで想起するのは、古事記の三柱の神である。天之御中主神が、大日如来、即ち、即非一性であろう。そして、高皇産霊神金剛界で、神産霊神が胎蔵界であろう。思うに、空海は、古日本の神道に通じていたのだろう。それを基盤として、天才的な両界曼荼羅の思想を創造したのだろう。

火羅図が興味深いが、これは、今で言えば、ホロスコープである。占星術の図である。《空海の「宿曜経」は密教占星術宿曜道として一枚の図にまとめられたものが京都・東寺に伝えられる「火羅図」で、火羅とはインドの「ホーラー」の音訳であり、この言葉はギリシャまで遡るものだそうですから驚きです。》
http://www.geocities.jp/tadoru_ono/osaka29.html
ホーラーとは、時間である。ホロスコープのホロであろう。とまれ、興味深いのは、火羅の「カラ」という音である。これは、朝鮮を想起する。また、火羅図において女性、天女、女神中心の図像となっていることである。
http://www.tonkatsuichiban.com/map/Toji1/Touji-17.html
もっと大きな画像を見たいところである。

思えば、曼荼羅とは、端的に、コスモスのことである。それは、メディア・ポイント・コスモスMedia Point Cosmosと言うべきものに相当するだろう。

通俗な占いに堕しているが、占星術とは、本来、メディア・ポイント・コスモスを探求する智であったろう。コスモスの問題は後で検討したい。

密教であるが、これは、古代ギリシア文化で言えば、秘儀や密儀に相当すると言えよう。神秘主義、オカルティズムはこれが堕落したものである。つまり、即非的一性(秘儀性)を喪失して、虚数軸=超越界に、実数軸=現象界の同一性(=物質性)を投影したものだと考えられる。先に批判したが、ルドルフ・シュタイナー人智学がそういうものである。

思えば、仏陀プラトンの生存した時期は比較的近い。思うに、当時、共通普遍の超越界が感得される時代であったのだろう。伝統的に言えば、超越性の秘儀が純粋に残っていたのだろう。

古代ギリシアでは、エレウシスの秘儀であり、エジプトでは、イシスの秘儀、等々である。

空海は、思うに、古代日本に残っていた超越性の秘儀を体得して、それに大乗仏教を重ねるようにして、独創的な両界曼荼羅という思想を創造したのだと思う。

ここで、20世紀の文学・思想的天才であるD.H.ロレンスの考え方で言えば、西洋文明が生まれる以前の、東方の女神的コスモス文化の名残と重なるだろう。

コスモス、女神、超越性、秘儀である。

これらが結びついているのである。これを、西洋文明一般は喪失したのである。超越性の喪失である。

最大の問題は、超越界とキリスト教との関係、超越界と近代科学の誕生の問題である。

先にも述べたが、ユダヤキリスト教即非=太極的メディア・ポイントにおける両極端を表現しているのである。それは、超越界の極限的表象である。それが、一神教唯一神の誕生である。

ここは微妙である。唯一神は、確かに、超越界に通じている。だから、超越性を西洋文明が喪失したというのは、言い過ぎであるが、しかし、ここは実に微妙である。端的に言えば、ユダヤキリスト教は、超越界に通じているが、同時に、本来の超越界を喪失しているのである。

即ち、超越的差異即非共振・太極様相という本来の超越界の様相をユダヤキリスト教は喪失しているのである。

ヤハウェイエス・キリストは、超越的であり、同時に、非超越的である。

そして、ユダヤキリスト教は、連続的同一性に傾斜しているので、なおさら、差異共振性としての超越性を否定しているのである。

これは、本当に、悪魔的事象である。【聖書は倒錯しているのである。ウィリアム・ブレイクが、「父」のことを、ノウボダディNobodaddy(誰でもない父)と呼んだのは、天才的である。しかし、イエスを肯定したのは、誤りである。「父」と「子」とは一体である。イエスではない、「母」の「子」がいるのである。「母の子」である。それが、聖霊教、天使教、女神教の「日御子」である。「父の子」は悪魔であり、「母の子」が天使である。「母の子」がオシリスであり、「父の子」がセトである。この問題や聖書の問題は後で検討したい。】

近代主義の根源はユダヤキリスト教にあると言っていいだろう。古代ギリシアの叡知は、それに利用されたと言っていいだろう。セカンド・ルネサンスが必要である。)

さて、超越性とユダヤキリスト教の関係であるが、極限的超越性と連続的同一性(父権主義)が結びついたものである。即ち、超越的連続的同一性が、端的に、唯一神(=大悪魔)を表わす。

ここで、近代主義の発生の問題を検討するが、先ず、基本的に、西洋中世のキリスト教とは、この超越的連続的同一性と地中海的異教性(聖母マリア崇拝等)が妥協したものであるということである。

Kaisetsu氏の言葉では、後者はヘレニズムである。

そして、ルネサンスとは、ヘレニズムの復興であると言えよう。表面的には、キリスト教的であるが、実質はヘレニズム的である。イタリア・ルネサンスは、古代ギリシアの復興であるのは当然ながら、イタリアの先住民のエトルリア人(母権・東洋的民族と言っていいだろう。参照:D.H.ロレンスの『エトルリアの故地』)の地域、即ち、トスカーナ地方他から、発しているのである。

そして、近代であるが、これは、西欧近代である。ここにおいて、プロテスタンティズムが勃興するのである。これは、端的に、超越的連続的同一性=唯一神の復興と言っていいだろう。即ち、西洋近代とは、正に、ヘレニズムとヘブライズムとの分裂状態から発したのであり、結局は、後者が中心となったのである。しかし、前者も継承されているのであり、西欧の諸文化を形成したと言えよう。民主主義の問題は後で検討したい。

ここで、近代科学の発現を考えたい。近代科学革命については、多く語られてきたが、PS理論/MPの視点から見ると、超越的連続的同一性観念とヘレニズム的コスモスの観念と数量的数学が結びついて、近代的自然科学が発生したと思えるのである。ケプラーで言えば、惑星の動きは、ヘブライズムの超越的連続的同一性とヘレニズムのコスモスの観念の混合態における数量的数学の公式の発見である。

そして、数量的数学と唯物論が結びつき、近代科学が生まれたのである。

超越的連続的同一性と数量が結びついて、物質概念が生まれたと言えよう。だから、つまり、超越神的同一性「理性」が数量化されたのが物質概念である。つまり、「理性」=物質なのである。これが、近代科学の本質である。カントが、超越論的形式として、この「理性」を「批判」したと言えよう。

超越的連続的同一性の数量化=「理性」=自我=物質という公式がここにあると言えよう。ヘレニズムのコスモスは共振的宇宙であったが、ヘブライズムの超越的連続的同一性主義によって、それが否定されたと言えよう。つまり、差異共振的宇宙観(ヘレニズム)が否定され、近代科学が成立したと言えよう。

言い換えると、ルネサンスが否定されて、ヘブライズム中心に近代主義が形成されたということである。これが、近代的自我(=悪魔)を形成したのである。植民地主義帝国主義、唯物資本主義等々は、ここから発したのである。

イラク戦争もこの延長にある。

思うに、今日、トランス・モダン・エラ(時代)にあって、超越的連続的同一性主義、一神教的様相が解体し出しているのである。

ユダヤキリスト教パラダイムが崩壊して、新しい超越的差異共振性のパラダイム、言わば、新ヘレニズムのパラダイムが生起しているのである。トランス・モダン・エヴォリューションである。

思うに、⇒-1へと傾斜したエネルギーが、⇒+1へと転換しているのである。

言い換えると、⇒-1とは、同一性の反復であるが、⇒+1とは、メディア・ポイントにおける超越的差異共振性の発現を意味しよう。

即ち、超越的エネルギーの認識である。

超越光・即非・現象光の認識である。

超越光Transcendental Light ⇒現象光Phenomenal Light

あるいは、

超越エネルギーTranscendental Energy⇒現象エネルギーPhenomenal Energy

である。これは、m(ic)*(-ic)⇒mc^2

のことを意味しよう。

仏教や神道や東洋思想はこれを初めから認識していた。

西洋においては、ヘレニズムがこれを認識していた。また、東方キリスト教は、神のエネルゲイアという概念で、これを認識していた。

プラトニック・シナジー理論によって、今や、ユダヤキリスト教的西洋文明の乗り越えが理論的に実現したと言えよう。

ヘレニズム・ルネサンス、即ち、本来の超越界の新生である。



参考:
両界曼荼羅
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両界曼荼羅(りょうかいまんだら)は、密教 の中心となる仏である大日如来 の説く真理や悟りの境地を、視覚的に表現した曼荼羅 である。大日如来を中心とした数々の「仏」を一定の秩序にしたがって配置したものであり、「胎蔵曼荼羅」(胎蔵界曼荼羅とも)、「金剛界曼荼羅」の2つの曼荼羅を合わせて「両界曼荼羅」と称する。個々の「仏」の像を絵画で表わしたもののほか、1つの仏を1文字の梵字サンスクリット を表記するための文字のひとつ)で象徴的に表わしたものもある。

[編集 ] 両界曼荼羅の起源と日本伝来

大悲胎蔵生曼荼羅は「大日経 」、金剛界曼荼羅は「金剛頂経 」という密教経典をもとに描かれている。大日経は7世紀 の中頃、インド で成立したものと言われ、インド出身の僧・善無畏 (ぜんむい、637年 − 735年)が弟子の一行(いちぎょう、683年 − 727年)とともに8世紀 前半の725年 (開元13年)前後に漢訳(当時の中国語に翻訳)したものである。一方の金剛頂経は7世紀末から8世紀始めにかけてインドで成立したもので、大日経が訳されたのと同じ頃に、インド出身の僧・金剛智 (671 年 − 741年)と弟子の不空(705年−774年)によって漢訳されている。なお、金剛頂経は、十八会(じゅうはちえ)、つまり、大日如来が18のさまざまな機会に説いた説法を集大成した膨大なものであるが、金剛智と不空が訳したのは、そのうちの初会(しょえ)のみである。この初会のことを「真実摂経」(しんじつしょうぎょう)とも言う。

いずれにしても、「大日経」と「金剛頂経」は同じ大日如来を主尊としながらも系統の違う経典であり、違う時期にインドの別々の地方で別個に成立し、中国へも別々に伝わった。これら2つの経の教えを統合し、両界曼荼羅という形にまとめたのは、空海 の師である唐僧・恵果 (746年 − 805年)であると推定されている。恵果は、密教の奥義は言葉では伝えることがかなわぬとして、唐の絵師に命じて両界曼荼羅を描かせ、空海に与えた。空海は唐での留学を終えて806年 (大同 元年)帰国した際、それらの曼荼羅を持ち帰っている。

空海が持ち帰った曼荼羅の原本は失われたが、原本に近いとされる模写が、京都・神護寺 所蔵の国宝・両界曼荼羅(通称:高雄曼荼羅)である。なお、神護寺曼荼羅は着色本ではなく、紫色の綾に金銀泥で描かれている。

通常日本に取り入れられた曼荼羅の呼称について両部・両界また胎蔵界曼荼羅胎蔵曼荼羅と併用して呼ばれているが、密教碩学・頼富本宏氏に拠れば 「曼荼羅の美術 東寺の曼荼羅を中心として」に於いて「曼荼羅の典拠となった大日経金剛頂経のいわゆる両部の大経を意識したものであり、空海もこの用語のみを用いている」即ち金剛頂経には、明確に金剛界曼荼羅を説くのに対して、大日経では大悲胎蔵曼荼羅もしくは胎蔵生曼荼羅を説くのにかかわらず、胎蔵界曼荼羅と言う表現は見られないからである」と書いておられる。また氏は円仁・円珍・安然など天台密教台密)が興隆すると修法のテキストにあたる次第類の中に胎蔵界と言う表現が用いられるようになり、両界曼荼羅胎蔵界曼荼羅が使われる様になったと言はれる。

[編集 ] 胎蔵曼荼羅の構成

胎蔵曼荼羅は、詳しくは大悲胎蔵生(だいひたいぞうしょう)曼荼羅といい、原語には「世界」に当たる言葉が入っていないが、金剛界曼荼羅に合わせて、古くから「胎蔵界曼荼羅」という言い方もされている。曼荼羅は全部で12の「院」(区画)に分かれている。その中心に位置するのが「中台八葉院」であり、8枚の花弁をもつ蓮の花の中央に胎蔵界大日如来(腹前で両手を組む「法界定印」を結ぶ)が位置する。大日如来の周囲には4体の如来(宝幢−ほうどう、開敷華王−かいふけおう、無量寿 −むりょうじゅ、天鼓雷音−てんくらいおん)と4体の菩薩(普賢菩薩文殊師利菩薩 、観自在菩薩 、慈氏菩薩 )、計8体が表わされる。
胎蔵曼荼羅
胎蔵曼荼羅
外金剛部院
文殊院



釈迦院







院 遍知院 金


中台
八葉院
持明院
虚空蔵院
蘇悉地院

中台八葉院の周囲には、遍知院、持明院、釈迦院、虚空蔵院、文殊院、蘇悉地(そしつじ)院、蓮華部院、地蔵院、金剛手院、除蓋障(じょがいしょう)院が、それぞれ同心円状にめぐり、これらすべてを囲む外周に外金剛部(げこんごうぶ)院、またの名は最外(さいげ)院が位置する。これは、内側から外側へ向かう動きを暗示し、大日如来の抽象的な智慧が、現実世界において実践されるさまを表現するという。

さらに、胎蔵曼荼羅は、中央・右・左の3つのブロックに分けて考えることが必要である。図の中央部は大日如来の悟りの世界を表わし、向かって左(方位では南)には聖観自在菩薩(観音菩薩)を主尊とする蓮華部院(観音院)、向かって右(方位では北)には金剛薩埵(こんごうさった)を主尊とする金剛手院(金剛部院。薩埵院)がある。蓮華部院は如来の「慈悲」を、金剛手院は如来の「智慧」を表わすものとされている。

[編集 ] 金剛界曼荼羅の構成

胎蔵曼荼羅の各ブロックを「院」と称したのに対し、金剛界曼荼羅では「会」(え)という語が使われ、成身会(じょうじんえ)、三昧耶会(さまやえ)、微細会(みさいえ)、供養会、四印会、一印会、理趣会、降三世会(ごうざんぜえ)、降三世三昧耶会の九会(くえ)から成る。これは9つのブロックと考えるよりも、9つの曼荼羅の集合体と考えるべきである。
金剛界曼荼羅
金剛界曼荼羅




四印会

一印会

理趣会


供養会

成身会

降三世会


微細会

三昧耶会
降三世
三昧耶会

中心になる成身会の中尊は金剛界大日如来(左手の人差し指を右手の拳で包み込む「智拳印」をむすぶ)である。大日如来の東・南・西・北には阿閦 (あしゅく)・宝生如来阿弥陀如来不空成就如来 の4如来が位置する(大日・阿閦・宝生・阿弥陀・不空成就を合わせて金剛界五仏あるいは五智如来 という)。各如来の東・南・西・北には四親近菩薩(ししんごんぼさつ)という、それぞれの如来と関係の深い菩薩が配されている。

三昧耶会、微細会、供養会は中央の成身会とほぼ同様の構成をもっており、四印会はそれをやや簡略化したもの、一印会は他の諸仏を省いて大日如来一尊で表わしたものと考えて大過ない。曼荼羅画面向かって右の理趣会、降三世会、降三世三昧耶会のそれぞれの中尊は大日如来ではなく、理趣会は金剛薩埵、あとの2つは降三世明王が中尊である。菩薩の一員である金剛薩埵や恐ろしい形相をした降三世明王も、すべては大日如来の悟りが形を変えて現われたものであり、すべては大日如来一尊に由来するということを表現したものと思われる。

胎蔵曼荼羅が真理を実践的な側面、現象世界のものとして捉えるのに対し、金剛界曼荼羅では真理を論理的な側面、精神世界のものとして捉えていると考えられる。  
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カテゴリ : 真言系仏教 | 曼荼羅