連続的同一性化と差異的同一性化との力学:差異と同一性の連続的混沌

連続的同一性化と差異的同一性化との力学:差異と同一性の連続的混沌と超越的差異即非共振性


テーマ:プラトニック・シナジー理論


先に少し言及したが、途中なので、ここで検討を行う。

これまで、⇒-1と⇒+1とはメディア・ポイントMePoの実数軸において、構造(構造主義の構造)を形成し、そこに極性があると想定してきた。

つまり、-1の極と+1の極があり、近代主義とは、前者へ傾斜した場合と考えたのである。

ここで作業仮説だが、MePoの超越的上層(上部)において、差異即非様相をデュナミス=ポテンシャル・エネルギーとしよう。そして、そこから、エネルゲイアが発動して、MePoの下層(底部)へと螺旋回転するとしよう。

このMePoの下層(底部)が、虚数エネルゲイアと実数エネルゲイアとの中間であると言えよう。つまり、ここでも、即非的一性としてのエネルゲイアがあるのである。

だから、MePoの下層部は、現象化の始点であり、実数エネルゲイア即ち、物質エネルギーの原点である。

しかし、思うに、MePoの底部は、あくまで、虚数エネルゲイアと実数エネルゲイアとの即非的交点であるから、ここは即非エネルゲイアないし即非的エネルギー又は虚・実即非エネルギーが存すると見ることができよう。

(さて、現象化であるが、明快にするために、MePoの底部を底部MePoないしSub-MePo, Bottom-MePoとしよう。そして、上部を上層MePoないしSupra-MePo, Top-MePoとしようか。正確に言えば、底部は底点であり、上部は上点であるが。)

この底点MePoは、虚数・実数即非エネルゲイア(エネルギー)をもっているというように記述できる。

さて、現象化であるが、それは、この底点MePoの即非エネルギーの発動による。それは、思うに、不思議なエネルギーの発動であり、発現である。

なぜなら、一方では、超越エネルギーであり、他方では、物質エネルギーであるからである。

超越エネルギーを差異、物質エネルギーを同一性と見ることができよう。

差異(超越エネルギー)-同一性(物質エネルギー)-差異(超越エネルギー)-・・・

である。差異をD、同一性をI、超越エネルギーをTE(Transcendental Energy)、物質エネルギーをME(Material Energy)と表記しよう。

すると、

D(TE)-I(ME)-D(TE)-I(ME)-D(TE)-I(ME)-・・・

となるだろう。

もっとも-の記号は即非性であるから、☯を使用するといいだろう。

すると、

D(TE)☯I(ME)☯D(TE)☯I(ME)☯D(TE)☯I(ME)☯・・・

となる。

明瞭にするため、

D-I-D-I-D-I-D-I-・・・

を使用する。

DとIとの即非様態が現象界である。

そして、これは、明確には、i*(-i)⇒+1ないしm(ic)*(-ic)⇒m・(+1)・Eで記述される。

問題は、これを、同一性の連続空間と見る近代主義である。

それは、I⇒I⇒I⇒I⇒・・・

である。即ち、⇒-1である。

これは、現象界を単に物質・機械的世界と見ることである。

現象界の底点MePoに於ける差異性ないし超越性を否定・排除するものである。

この否定・排除の力学を解明したいのである。

私はこれまで、一神教・父権主義における連続性への傾斜を述べてきた。

これは、差異と同一性との関係で言えば、同一性への傾斜と言うことができる。

では、傾斜とは何か。

これは、フッサール現象学で言えば、ノエマと外的対象を同一化することではないだろうか。ノエマという自己内観念を、外的対象へと投影して、一体化することではないだろうか。

これは、先に触れた、遠近法や奥行きや第3次元空間の問題と関係しよう。

ノエマと外的対象とを同一化したものが、同一性である。ノエシス-ノエマの差異と外的対象の差異が否定されるのである。

ここには、明らかに、錯誤・倒錯・狂気があると言えよう。

これは、また、ヘーゲル哲学の問題である。

ヘーゲルの理性は、「全存在であるという確信」である。この全体性が僭越なのである。この全体性は何処から来るのだろうか。

これは、端的に、言えば、内的他者・ノエマの否定からだと思う。本来は、超越性があるのである。ノエシス-ノエマは超越性であると思うのである(超越論的主観性)。しかし、この超越性を否定して、全体性を形成すると考えられるのである。

内的他者との共振を否定して、主体が全体化するのである。

そう、ここには反動があるのである。思うに、現象界において、なんらかの苦の経験をする。それに対して、主体は身構えるのである。これが、内的他者との共振性の否定ではないだろうか。

外的対象に対して、主体は身構える。攻撃態勢と取るのである。それは、内的他者を否定して、形成される態度だろう。

つまり、外的対象への反感・反動が、共振的超越性の否定であり、全体性を発現させると思われる。

これが、連続的同一性の起源であろう。

即ち、i*-(-i)⇒-1である。

この反感・反動であるが、これは、どこで形成されるのだろうか。それは、思うに、原-身体と思われる-iが苦を感じて、それに対して、原-主体であるiが反感・反動化するというように考えられるならば、それは、-iとiとの相互作用であるが、反感・反動の主体は、iであると言えよう。

有り体に言えば、苦に対する否定として、連続的同一性が発生すると言えよう。-iの苦の様態の否定としての連続的同一性である。

否定様態としての連続的同一性である。

即ち、マイナスの《力》である。即非共振の力学を太極力学と言うならば、これは、太極力学におけるマイナスの《力》である。この場合は、iを陽、-iを陰とすれば、陽*陽⇒-1である。

結局、本来、陽*陰⇒+1であるが、陰を否定した様相になっている。

当然、否定された陰が潜在することになる。これは、いわば、潜在エネルギーである。そして、これは、本来、陽*陰のエネルギーであると考えられる。

そして、この、いわば、塞き止められた陰・陽エネルギーは、連続的同一性に対して、反作用するだろう。しかしながら、連続的同一性(自我)が強固である場合、それは、分裂性という様態を取るだろう。連続的同一性と陰・陽エネルギーの分裂である。そして、後者が前者に対して、非合理主義的な情動・衝動となって発動するだろう。これが、私が以前執拗に理論化しようとしてきた近代的自我の狂気ということであろう。パラノイアであり、「精神分裂症」である。

近代主義の問題を考えると、この連続的同一性が近代合理主義、唯物論となったのである。それは、陰・陽エネルギー、超越エネルギーの反作用を非合理主義としてもっているのである。

しかし、連続的同一性を単純に否定して、陰・陽エネルギー、超越エネルギーだけを肯定するならば、それは、ポスト・モダンとなるだろう。ドゥルーズデリダとなるだろう。

なぜなら、それは、iという原-主体性を否定することになるからだろう。ドゥルーズが超越論性ないし特異性とは非人称的且つ前-個体的なものと述べたように、主体性の基盤が消失してしまうだろう。

端的に言えば、連続的同一性の単純な否定は、同一性自体を否定することになるのである。そうすると、陰・陽エネルギー、超越エネルギーの現象化である、本来の差異的同一性i*(-i)⇒+1が消失するのである。

つまり、連続的同一性の単純な否定は、底点MePoにおけるエネルギーの肯定ではあっても、現象化を否定することになると考えられる。何故なら、現象化、自己現象化とは、主体の能動性が必要だからである。即ち、i*(-i)の共振エネルギーは底点MePoにあるだろう。しかし、これは、原主体iの能動性があって、自己現象化が真に発現するのである。

即ち、⇒+1の形成には、原主体iの能動性が必要なのである。それが、連続的同一性にはあると考えられる。だから、連続的同一性を乗り越えて、差異共振化を能動的に認識して、差異的同一性という自己認識現象が生起すると考えられるのである。

だから、トランス・モダンとは、実に的確な命名である。モダンの行き着いたところを乗り越える(トランス)ということであるからである。

これは、現象学的還元であり、また、スピノザの能動的観念と関係するだろう。

以上から、整理すると、連続的同一性という反動的能動性に対して、超越エネルギーの反作用が生起する。

即ち、連続的同一性⇔超越エネルギー

である。これが、末期近代主義の様態である。

そして、この混沌した様態において、連続的同一性を不連続的超越性によって切断することで、連続化が解体して、同一性と超越性とが調和するのである。即ち、差異的同一性i*(-i)⇒+1が形成されるのである。

言い換えると、末期近代において、連続的同一性と超越エネルギー(差異エネルギー)の混淆様態が発現する。これは、混沌・混乱である。

しかし、連続的同一性の連続性を切断すること、即ち、同一性と差異性を不連続化することで、両者の調和への一歩が形成されるのである(不連続的差異論の段階)。そして、切断されて生起した、不連続的差異を即非・共振化することが、次のステップである(プラトニック・シナジー理論の第一歩)。そして、さらに、共振化した差異を超越性・虚数として認識することが到達点とほぼ言えよう(プラトニック・シナジー理論の成就)。

結局、以上から、末期近代において、一種、同一性と差異との連続的混淆様態における極性が生起すると言えよう。そう、連続的極性である。しかし、ここから、超越的差異へと飛翔するのは、必然的ではない。言わば、偶然的である。

確かに、そこには、可能性はある。そして、経験的にそのような心性を無意識的に形成するかもしれない。しかしながら、近代主義の枠組み・パラダイムにある限り、その経験的無意識的な心性は、独立できないだろう。

ここにプラトニック・シナジー理論のトランス・モダン哲学・理論としての創造的・画期的・ブレークスルー的意義があるのである。

この理論を契機にして、近代主義の悪魔の牢獄世界から脱出することができるのである。

この理論は、二千数百年の叡知の眠りから人類を覚醒させることになる。

p.s. 連続的同一性と超越的エネルギーの、いわば、相剋様態である末期近代の混淆・混沌様態であるが、ここにおいて、否定と切断の意味・意義を全く明確にする必要がある。相剋様態なので、ポスト・モダンのように連続的同一性の否定する傾向にあるとは言える。しかし、これは、反動である。つまり、両者の相剋様態とは、上述したように、連続様態なのである。即ち、連続的相剋様態なのである。だから、この連続様態を切断することが、この混沌からの脱出の第一歩なのである。これが、不連続化である。

つまり、否定は反動であり、アイロニカルな没入となるのである。そして、切断がこれからの乗り越え、脱出を意味するのである。

即ち、否定は反動であり、切断は超出である。