夢:続き:箇条書き:ブラームス、銀色のピアノ、海:天鈿女(アメノ

夢:続き:箇条書き:ブラームス、銀色のピアノ、海:天鈿女(アメノウズメ)


テーマ:神話学・不思議学・フォークロアケルト


今朝も夢を見たが、とても断片的なので、箇条書きにする。夢の事象の順番は無視する。

1)ピアノが、都会の歩道に置いてある。その歩道とは反対の通りに私はいて、ブラームスの演奏が聞え、そのメロディーに魅かれる。ピアノ協奏曲第1番だろうか。プロのピアニストである。その前に、誰かが演奏していたようだが、忘れている。雨が降ってくるので、ピアノをビルの入り口の天井のあるところに移動させる。そこには、銀色のピアノが置いてあったが、それは、誰も演奏しない。

それ以前に、昔の同級生が、音楽をかけ、元気を出すようにさせるが、その音楽には興味が湧かない。それは、朝の音楽なのかと聞いたりする。

2)オフィスのデスクで、アルバイトをするが、ずるく、1時間ほどでそこにおいてあった文庫本を読んでしまう。なにか、昔の日本の話のような感じである。谷崎潤一郎風である。(p.s. 因みに、『細雪』は、三人姉妹の話である。そう、谷崎には、表面に現われた以外のものがあると思う。日本伝統母権文化を体現しているところがあると思う。)

3)その本の中の話だろうか、車輪のついた船があり、船の移動とともに、二人の人魚のような人物がらくらく泳いでいく。船よりも速く泳げるのである。私が船に乗って帰ると言うよりは、別の人が二人乗って帰るような感じであったか、不明瞭である。

この当たり、海に関係しているが、詳細は忘れている。

4)船で運ばれてきた、男女であろうか。押し込まれて疲れている感じである。楽にするために、海中に放り込まれる。何人もの女性が、逆さになり、股を広げて、性器を剥き出しにして、海に浮かんでいる。

5)あるアルバイトの女性と話をしている。私の異性関係について話をしている。私は、見栄を張り、何人も結婚の相手がいると嘘を言った。私は、なにか、ムーサイ(詩神)のことを考えて、そう答えた。

6)血液検査のような場面があった。採血の場面。また、血がこぼれた場面があった。

7)なにか、職場での共同の仕事があるが、よく憶えていないが、ピアノを置いてある入り口からビルに入り、上司らしきに仕事のことを聞かれるが、うまく仕事が捗っていることを簡単に説明する。
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目新しいものは、ブラームスの音楽、白銀色のピアノ、海である。音楽は、天河弁財天社の続きだろう。海が何を意味するのだろうか。海岸の場面があったと思うが、そこの記憶がない。

思うに、海は、天上と関係すると思う。そう、メディア・ポイントであろう。海岸や港もメディア・ポイントであろう。(p.s. 海は、聖母マリアとも関係するように、太母と関係するだろう。船が向かう先は、天上界・超越界であろう。)

どうも、私の夢の旅が終わりをむかえたようである。

人魚(天女?、天使?)たちが、「竜宮城」(超越界)へ帰還する感じである。

因みに、ブラームスの音楽であるが、交響曲第1番の第1楽章とピアノ協奏曲第1番が好きである。それ以外は、特に聴かない。前者の野性的なリズムは、むかし信州の戸隠神社の奥社で聴いた太鼓の響きを想起させる。荘重であり、崇高性がある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%B8%E9%9A%A0%E7%A5%9E%E7%A4%BE
http://www.togakushi-jinja.jp/top.htm

p.s. 以下からわかるように、ブラームスハンガリーやジプシーと関係がある。バッハとも関係がある。正に、重々しい大地を想起する彼の音楽であるが、ノマッドと関係するのか。

私は、交響曲第1番第1楽章に地霊を感じる。大地と宇宙との垂直的対話、とくに、大地から宇宙へと太々しい柱のように立ち上がるイメージを感じる。ティンパニーが、ドンドンドン・・・と和太鼓のように、泥臭く、リズムを刻み、それに弦楽器が高音でユニゾン的に移動する感じが、独特である。あの響きは、他のどこにも無いものである。特異性である。超越界を表現しているのかもしれない。

p.p.s. 考えたら、交響曲第1番第1楽章のイメージは、山岳が地底から天上へと盛り上がるエネルギーである。(p.s. また、これは、巨木が大地から天へとそびえ立つイメージである。これは、戸隠神社の参道の巨木の杉並木を連奏する。
http://www.dynax.co.jp/sinsen//photo/v/g_sugi.html

3p.s. 逆さになり、股を広げ、性器を剥き出しにして海面に浮かぶ女性たちは、天上のエロースを意味すると思うが、戸隠神社関連からいうと、アメノウズメと関係しそうである。

4p.s. アメノウズメ天鈿女に興味を持った。これは、卑弥呼と通じるだろう。「ウズ」は、渦であり、メディア・ポイントの螺旋回転を想起する。そう、天鈿女命は、メディア・ポイントを意味している神道の重要な女神であろう。天照大神は、超越界の太陽である。天の岩戸は、メディア・ポイントの頂上の「門」であろう。日本のヴィーナスであるが、また、天上のエロースの表現であろう。後で、調べたい。

5p.s. 「アメ」は「アマ」と通じる。アマは、海人、海女で、海に関係する。天と海とが結びつく。だから、アメノウズメは、海の渦とも関係しよう。渦流である。やはり、メディア・ポイントである。

6p.s. 女性性器とメディア・ポイントあるいは、天の岩戸は関係がありそうだ。古代ギリシアの大地の臍(岩)に股がって、神懸かりになり神託を伝えたデルフォイアポロン神殿の巫女たちを連想する。子宮は、超越界の比喩ではないだろうか。これらに関して、別稿で検討したい。

アメノウズメ
出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』

アメノウズメ(アマノウズメ)は、日本神話 に登場する女神 。「岩戸隠れ」のくだりなどに登場する芸能の女神であり、日本 最古の踊り子と言える。古事記 では天宇受賣命、日本書紀 では天鈿女命と表記する。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%8E%E3%82%A6%E3%82%BA%E3%83%A1


《vol.16 縄文の巫女

 前号(vol.15.土偶は本当に女神か )で土偶を女性と短絡することに疑問を投げかけた。またもし「仮面の女神」を、オホゲツヒメ神話のイメージから呼称しているとしたら適当ではない。むしろ土偶は巫覡(ふげき・シャーマン)像ではないかと私は思う。
 今一度茅野市中ツ原遺跡の「仮面土偶」を見てみる。上半身の文様は入れ墨や身体塗彩のようにも見えるが、乳房表現が無いことから何らかの衣服を着ているのだろう。とすれば、体の前面の襷(たすき)状の模様は袷(あわせ)を表現している。いわゆる右前の着物なのだろう。ただし、へそと陰部がはっきりと表現されているので、そこだけは切り抜いている。さらに、下半身を見ると陰部のまわりにはまったく遮蔽するものはないので、褌(ふんどし)やパンツのようなものははいていないことがわかる。同様の仮面土偶辰野町泉水遺跡や山梨県後田遺跡に例がある。いずれも陰部を露出している。
 仮面土偶を考える上で比較すべき考古資料としては、時代は下るが古墳時代の陰部を露出した人物埴輪をとりあげたい(愛知県太夫塚古墳・大阪府豊中市釘貫など)。これらには巫女を特徴づける意須比(おすひ・襲衣)の表現が見られることから、辰巳和弘氏は巫女を象ったものだと推測する(『埴輪と絵画の古代学』白水社)。埴輪と土偶は一見関係なさそうなのだが、でも私は土偶の意味を解くヒントがあると思っている。
 なぜなら、縄文時代古墳時代の間をつなぐ弥生時代には土偶や埴輪のような「土人形」的な造形はあまり発達しないのだが、かわりに土器などに線刻された「絵画」がある。「弥生の絵画」には、陰部が描かれた人物(奈良県唐古・鍵遺跡の壷形土器)。嘴をもつ鳥の頭に表現された(鳥の仮面をかぶった?)人物(岡山県新庄尾上遺跡)がある。
 縄文仮面土偶の特徴である仮面と陰部露出は、弥生時代の鳥装の仮面をするシャーマンに受け継がれ、さらに陰部露出は古墳時代の埴輪の巫女にまで継承されたと考える。
 辰巳氏は陰部を露出する巫女の描写が日本神話にあると指摘する。弟スサノヲの横暴に怒ったアマテラスは天の岩戸に引きこもった。アメノウズメは神がかりして胸の乳を露出させ、裳(も)の紐を陰部までおし垂らした。八百万(よおろず)の神がどっと笑った。不審に思ったアマテラスが少し覗いたところをタヂカラヲが間髪入れず天の岩戸をこじ開けたので、アマテラスは再び姿を現すことになる(『古事記』)。アメノウズメ神話は古代の巫女の所業を描写したものだろう。
 よって「仮面土偶」は巫女の系譜にのるものであり、これを「縄文の巫女」といってはどうか。(ただ、アメノウズメも「女神」でありますので、結局「縄文の女神」でもかまわないのかもしれませんが…)。
茅野市尖石縄文考古館

2002年12月20日
信州発考古学最前線 vol.14〜25

http://homepage3.nifty.com/kamosikamiti/sonota/saizensen/H14win.html

《第4信

 さて、「俳優」という言葉は、『日本書紀』(720年編纂)神代巻上の中に初出します。猿女の君の遠祖アメノウズメノミコが手に矛を持ち、天の岩窟戸の前に立って、「巧みに作俳優(わざをぎ)す」とあるのがそれです。そのすぐ後には、舞台の原型になる「槽」の上で「顕神明之憑談(かむがかり)」すると出てきます。

 ということは、「俳優」の元祖はアメノウズメノミコトで、それはもともと、体中に榊の葉を付着させて、植物の霊力を身に纏い、その力を借りて神懸りすることを意味したのです。「俳優」を「ワザヲギ」と読ませているわけですが、その意味は、神霊を招き寄せる(ヲグ)技術ないし作法(ワザ)ということです。あちら側からこの世界に不可思議な力を、次元を超えて取り入れ、四次元的な立体交差点を作り出すこと。「俳優=ワザヲギ」とはそのような超越的な交通の技術であると言えます。

 これが『古事記』(712年編纂)では、アメノウズメは手に矛ではなく、天の香具山の「小竹葉(ささば)」を持ち、「槽」を踏み轟かして、「神懸りして、胸乳(むなち)をかき出で裳緒(もひも)を陰(ほと)に押し垂れ」たと記されています。笹は正月に門松として竹を飾るように、神霊を招き入れる依り代です。いわば、神霊を受信するアンテナ。

 ここで、興味深いのは、「神懸り」したアメノウズメがトランス状態に入って思わず胸をはだけ、陰部(女陰)を露出したことです。これはストリップの始まりだとされるところですが、その意味はとてつもなく深く、生命の秘密や神秘にまでつながっていきます。

 そもそも、この「俳優=ワザヲギ」が行なわれるに至った原因は、スサノヲノミコトが乱暴狼藉をはたらいたために、それを嘆き哀しみ怒った天照大神が天の岩戸にさし篭って隠れてしまい、高天原も世界も真っ暗になってしまったことにあります。この暗黒の世界を打開し、再び光ある世界に戻そうと神々が集結して論議し、祭りを行うことになりました。斎部氏の祖先の天太玉命(あめのふとだまのみこと)が鏡の付いた榊を捧げ持ち、中臣氏の祖先の天児屋命(あめのこやねのみこと)が祝詞を奏上し、アメノウズメノミコトが「神懸り」して、それによって天照大神を洞窟の中から再びこちら側に引き戻すことができたのです。そして、天が晴れて光が戻り、世界の災いが解き放たれたというわけです。

 『古語拾遺』という斎部氏の伝承を書いた本には、この時、神々が大いに喜び踊り、口々に「あはれ、あなおもしろ、あなたのし、あなさやけ、おけ」と囃したと記されています。「あはれ」とは「天晴れ」、すなわち天が晴れて光がサーッと差し込むこと。この世界が明るくなることを意味します。そして、「あなおもしろ」とは「ああ、面白い」、すなわちその戻った神の光に照らされて「面が白く」なり、喜びに包まれて光り輝くこと。「あなたのし」とは「ああ、手伸し」、すなわち喜び勇んで自然に「手が伸び」、歓喜勇躍、踊り出すこと。「あなさやけ」とは草木も一緒にその喜びに靡きスイングすること。「おけ」もまた、草木や植物とともに、そよぎ、靡き、揺れることを意味します。

 これは「鎮魂」や「神楽」の起源を語る神話とされていますが、それは光の再生、太陽の死と復活、生命力の更新を象徴しています。このところは、『古事記』では、「高天原動みて、八百万の神共に咲ひき」と記されています。つまり、アメノウズメのトランス・ダンスによって高天原も激しく揺すぶられ、八百万の神々がみなともに笑ったというのです。

 この笑いを「咲く」という字を宛てて、「咲ふ(わらふ)」と読ませているところは、とても美しい表現だと思わずにはいられません。和泉流狂言の秘伝書には、翁のもどき芸である「三番叟」を舞う時は、演者は翁をアメノウズメノミコトだと思って舞うように、と指示されていると萬斎さんは言っていました。ということは、翁は訪れてくる神霊ですから、その神霊を引き出す者の役をアメノウズメと思って舞い、神霊と巫女との霊的合一を実現するということになるのでしょうか。

 ともあれ、「狂言」という言葉もその所作=ワザも大変面白いですね。「正名」でも「真言」でもなく、「狂言」。それこそが世界を笑いと新生に導く方法論だというわけです。なによりも笑いの大切さ。

http://homepage2.nifty.com/moon21/tonysletter04.html

参考:
ヨハネス・ブラームス
出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』
生涯

ブラームスは、ハンブルク で生まれた。彼に最初の音楽レッスンを行った父は、コントラバス 奏者であった。ピアノの早熟な才能をあらわし、10歳で作曲家でピアニストのエドゥアルド・マルクスゼンに師事。レストラン や居酒屋 でピアノを演奏することによって家計を補った。

彼自身はピアニストとして確かな腕を持っていたが、同時代の名手と比べると地味な存在であった。演奏活動は行っていたが後に作曲専業になることを決意して、放棄した。しかしながら、1859年 と1881年 には、ピアノ協奏曲第1番 とピアノ協奏曲第2番 の初演を自ら行っている。この2曲のピアノ・パートは共に難度が高く、これを自分で弾きこなしたブラームスのピアノ演奏技術は高いものであったのではないかと思われる。

その後、演奏よりも創作活動に興味を持つようになって作曲を始めたが、1851年 になるとすでに自己批判から作品を廃棄し始めていた(19歳以前の作品は記録が残るのみでまったく現存しない)。1853年 にハンガリーのヴァイオリニスト・レメーニイと演奏旅行に行き、彼からジプシー 音楽を教えてもらったことが彼の創作活動に大きな影響を及ぼした。この演奏旅行中に J. ヨアヒム 、フランツ・リストロベルト・シューマン に会って作品を見てもらった。シューマンは、「新しい道」と題する評論を「新音楽時報 」誌に発表してブラームスを熱烈に賞賛し、聴衆にブラームスの作品を広めるために重要な役割を演じた。ブラームスは、14才年上のシューマンの妻クララ を知り、1854年シューマンの投身自殺未遂と2年後の死以降も、生涯に渡ってクララと親しく交流を続けることになった。恋愛に近い関係になった時期もあったようだが、ブラームスが彼女と結婚することはなかった。

1862年 からウィーン に永住したブラームスは以降、作曲に集中し始めた。『ドイツ・レクィエム 』などの作品で高い評価を確立し、偉大な作曲家の一人として注目を集める存在となった。この事は、彼の第1交響曲 を書き上げるための自信になったと考えられる。ウィーン永住からおよそ10年の後、19年の歳月をかけて交響曲第1番は1876年 に完成した。この作品は後に指揮者のビューローをして「ベートーヴェンの10番目の交響曲の様だ」と語らしめた。彼の他の3つの交響曲は、それから比較的短い間隔で書き上げられ、第1番から間もない1877年 には第2番 が、1883年 に第3番 が、そして1885年 に最後の第4番 が、それぞれ発表された。

ブラームスはしばしば春のイタリア を訪問し、気持ちの良い地方の場所を捜して夏の間に作曲した。1889年 12月2日 、ブラームストーマス・エジソン代理人の依頼で「ハンガリー舞曲 第1番」を蓄音機 に録音した。(テンポは相当速い)このとき、初めて自身の老いを自覚したと言われている。翌1890年 、57才になり意欲の衰えを感じ、作曲を断念しようと決心して遺書を書き、手稿を整理し始めた。
ブラームスに対する影響

大部分のロマン派の作曲家と同様に、ブラームスベートーヴェンを崇拝していた。彼の作品には交響曲第9番 と『ハンマークラヴィア・ソナタ 』を含むベートーヴェン作品の明白な模倣も含まれる。

また古典派の作曲家モーツァルトハイドン を敬愛していた。彼らの作品の第一版と自筆稿を集め、そのうえ演奏用の版を編集した。古典派への愛情はジャンルの選択においても現れている。彼の手によるソナタ交響曲と協奏曲では古典的な形式を採用し、ソナタ形式の楽章を作曲した。一般に、ブラームスは全てのロマン派の作曲家の中ではもっとも古典派に近いと考えられており、「新古典派」という呼称で呼ばれることもある。

しかし、シェーンベルク のようにブラームスの音楽に革新的要素を見出す人もいる[1] 。特に晩年の『4つの厳粛な歌』で見られる一つのモチーフの徹底的な展開、声とピアノによるカノン的書法などの対位法をシェーンベルクは「発展的変奏」(英語:developping variation)と呼び、自らの作品において展開することになる。

さらにブラームスはそれ以前のバロック音楽 にも多大な関心を払っていた。とりわけ大バッハ に心酔しており、当時刊行中だったバッハ作品の全集を購読して熱心に研究した。その成果として最も有名なものが第4交響曲の終楽章に置かれた「パッサカリア 」である。そのテーマはバッハのカンタータ第150番の主題を応用したものである。

ブラームスに対する全く異なる影響は 民族音楽 であった。ピアノと声楽のためにドイツ民謡による144曲の歌曲を書いており、彼の歌曲の多くは民族的な主題を反映するか、地方の生活場面を表現したものである。また、『ハンガリー舞曲集』で分かるように、レメーニイから教わったジプシー音楽(当時はハンガリーの民俗音楽だと思われていた)の影響も受け、「ピアノ四重奏曲第1番 」などにその語法を取り込んでいる。


参考2:
ハンガリー舞曲
出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』
ハンガリー舞曲集(独語 :Ungarische Tänze)》WoO.1 は、ヨハネス・ブラームスハンガリー のジプシー音楽 に基づいて編曲した舞曲集。もとは4手用のピアノ曲 として書かれた。全部で21曲あり、それぞれの長さは1分程度のものから4分程度のものまでとまちまちである。中でも、管弦楽用に別人によって再編曲された《第5番》がとりわけ有名である。

作曲の経緯

ブラームス1850年代 の前半に、エドゥアルト・レメーニ の伴奏者としてドイツ の各地で演奏旅行を行い、その時にレメーニからロマ の民族音楽 を教えられて魅了された。それ以来ブラームスはそれをハンガリー の民族舞曲と信じて採譜を続け、1867年 に出版社のジムロック に最初の6曲を送って拒否されている。結局それらが1869年 に出版されると大好評となり、1880年 に第2集が刊行された。

参考3:
kon.2  ヨハネス・ブラームスハンガリー舞曲集」
                           Johannes Brahms「UNGARISCHE TANZE」 



ピアノの名手であったブラームスが、ピアノ4手(連弾)用に作った曲集。

1853年、エドゥアルト・レメーニィ(ハンガリー生まれでジプシーの血を引くヴァイオリニスト)の演奏旅行に、ブラームスは伴奏者(ピアノ)としてついて行った。

ジプシースタイルを取り入れた独特の演奏で知られていたレメーニィは、この時ブラームスハンガリーの民謡の旋律などを教えた。

それをきっかけにブラームスは独自にハンガリーの旋律の採集を始め、その中からまず1869年にピアノ連弾用ハンガリー舞曲集として、10曲を2集に分け

出版。それが大人気だったので、1880年には更に11曲が2集に分けて出版された。

しかしこの曲集が大人気となってしまった為、レメーニィが気を悪くしブラームスに文句を言って訴訟を起こしたが、ブラームスは出版の際に「作曲・ブラームス

ではなく、「編曲・ブラームス」としていたので、ブラームスが勝った。
http://web.thn.jp/heartful-i/music/ungarische%20tanze.html