メディア・ポイントの実数軸=現象界の構造の解明:超越性降臨として

メディア・ポイントの実数軸=現象界の構造の解明:超越性降臨としてのプラトニック・シナジー理論


テーマ:メディア・ポイントMedia Point


おそらく、構造主義の構造は、実数軸=現象界におけるメディア・ポイントMePoであると言えるだろう。

ここを先に、とりあえず、底点メディア・ポイントと呼び、試行錯誤的に検討した。

いちおう、メディア・ポイントを、虚数軸=超越性=不連続性と実数軸=現象性=連続性との即非的一性として把捉することで、良しとしたが、もう少し解明すべき点が感じられる。

即ち、連続性と潜在的差異の関係である。

実数軸とは、超越的差異の現象化を意味すると言えよう。このとき、超越的差異は、端的に、同一性化される。

そして、単に同一性化されるだけでなく、連続化されるのである。

ここに微妙な、重要なポイントがある。

自己内他者-iを否定して、外的他者を、自己同一性(i)化するのである。即ち、i*-(-i)⇒-1である。これが、自我である。(仏教では、これを端的に、無明の様態であると呼んでいる。)

この連続的同一性化とMePoはどう関係しているのだろうか。ここは、実に微妙である。

実数軸MePo(ReMePo)ないし底点MePoにおいて、超越的差異は、分化的に存するだろう。一つは連続的志向性、一つは差異共振的潜在性である。これらは、非対称的であると思う。

即ち、連続的志向性(⇒-1)⇔差異共振的潜在性(⇒+1)

(⇔は対立を表わす)

これを実数軸MePoないし現象MePoの非対称的対立と呼んでおきたい。

⇔の左辺は外界性であり、右辺は内界性である。

(実数軸MePoを明快にするために、現象MePoと呼ぼう。)

だから、現象MePoにおいて、左辺と右辺が、本来、揺れ動いていると言えよう。

しかし、人間のもつ視覚中心認識から、左辺へと傾斜していると言えよう。とりわけ、男性においては、そうだと考えられる。(左辺は左脳、右辺は右脳と、いちおう、呼んでいいと思う。ならば、現象MePo自体は、脳梁である。)だから、非対称的対立は、非対称的左辺傾斜対立とでも言えよう。)

さて、現象MePoが本来もつエネルゲイア、それは、超越的エネルゲイアであるが、それが、非対称的左辺傾斜対立のエネルギーへと変換されると考えられるだろう。

自己形成を考えると、正しくは、両辺のバランスを保持する様態となるべきである。

しかし、これは対立であるので、相剋的である。左辺傾斜は、右辺を否定・排除・隠蔽・無化するのである。

だから、(近代的)自我形成においては、右辺は無-意識=潜在意識となるのである。(これは、精神分析の無意識とはまったく関係ない。どちらかと言えば、ユング心理学の無意識には近いが、基本的には違う。)

ここでエネルギー論的に考えると、現象MePoには、本来、超越的エネルギーがあるのではないだろうか。こう言うと矛盾することになるが。ここで、虚数軸上のMePo(以下、超越MePo)を考えよう。

超越MePoは、超越エネルギーの賦活である。超越デュナミス(ポテンシャル・エネルギー)の動態化(エネルゲイア化)である。

そして、この超越エネルギーが、「螺旋下降」して、現象MePoに達する(盤座や山頂:オンファロス[大地のヘソ]、天孫降臨高千穂峰、神剣、須弥山、等々)。

この超越MePoと現象MePoにおけるエネルギー関係が微妙である。

とまれ、両者は、即非一性である。つまり、ある面では、超越MePoと現象MePoは一致するのである。

これが、いわば、摩訶不思議である。

異なりながら、同時に、等しいのである。

とにかく、ここでは、現象MePoに超越エネルギーが流入すると見たい。もっとも、不連続に流入するということである。そう変換的流入と言えよう。エネルギー変換でもいいだろう。超越エネルギーから現象エネルギーへの変換である。

さて、ここで本論にもどり、現象MePoの対立構造の様態を考えよう。

相剋様態であるので、連続化は、差異共振性を潜在化するが、しかし、これは、同時に、閉鎖である。

ここで現象エネルギーの様態を考えると、左辺と右辺に分化すると言えよう。左辺は能動的顕現化であり、右辺は受動的潜在化である。しかしながら、エネルギーは、両方へと分化しているのであり、左辺へと傾斜し、右辺を否定するというのは、エネルギーの発出と同時に閉塞を意味すると考えられよう。

右辺にある、いわば、潜在的エネルギーを閉塞させるのだから、エネルギーは枯渇するはずである。あるいは、エネルギーの渋滞があると言えよう。

また、さらには、潜在的エネルギーを抑圧するので、その反作用・反動を左辺の連続的同一性は帯びることになるだろう。

ここで、現象エネルギーは、反動化して、病態化(倒錯)すると言えよう。

影(シャドウ)を作ってしまうのである。影は当然、否定された右辺である。ジキルとハイド化、あるいは、多重人格化である。犯罪予備軍である。(近代的自我は、犯罪予備軍である。役人や政治家や文化人等々がここに入る。)

問題は、左辺と右辺が相剋・対立様態にあることである。これは、近代においては、おなじみの二元論である。

ここで、右辺の様相を考えよう。

ここは、差異共振的潜在性である。人格形成(教養)とは、この涵養を意味する。

分かり易く言えば、これは、共感性である。道徳・倫理の源泉である。

問題は、左辺の能動的攻撃性と右辺の受動的共感性が相剋になることである。(そして、現代は、左辺中心主義となり、病態化しているのである。)

端的に言えば、左辺が近代主義となり、右辺が反近代主義となったのである。これは、思想史等における常識である。

そして、ポスト・モダンは右辺の最後の形態と言えよう。

問題は、繰り返すことになるが、差異共振性が連続化されてしまうことである。言い換えると、右辺主義、差異共振性への志向が、連続的様態における反動として発現してしまうことである。

即ち、連続的差異共振性になることである。

これが、正に、ドゥルーズの思想である。差異=微分=特異性なのである。

ここで、このドゥルーズの思想を考えると、問題は、特異性である。差異=微分は分かりやすい。なぜなら、現象連続空間における差異共振性をドゥルーズは問題にしたので、連続的差異=微分となるからである。

では、なぜ、これが特異性と考えられたのか。ここにポスト・モダン思想問題の最核心があるだろう。

近代主義は、左辺中心主義であり、右辺が抑圧される。だから、末期近代において、右辺が賦活されるのである。

これが、連続的差異共振エネルギーとなる。

これは、現象MePoを起点(基点)とする連続的差異共振エネルギーである。

そして、連続的差異共振エネルギーの様態の起点の現象MePoを、ドゥルーズは特異性ないし特異点と呼んだと思われるのである。

だから、特異性の近傍に個体が形成されるドゥルーズが言ったと考えられる。

つまり、ドゥルーズの差異=微分=特異性の思想とは、現象MePoにおける右辺志向を指すと言えよう。

現象MePoを特異性と呼んだ理由は、単純に原点と考えられたからであろう。連続的差異共振エネルギーが発動する共通の原点・起点と考えられたからだろう。

結局、ポスト・モダンは、連続的同一性=近代主義への否定・反動となるのである。そして、同一性自体も喪失して、相対主義に陥って、無力となったのである。

これで、ドゥルーズの思想の説明を終えて、これまでの考察を整理する。

現象MePoは、連続的同一性と連続的差異との相剋対立空間を発現すると言えよう。これが、現象界である。あるいは、近代主義的世界である。

問題は、連続空間性にある。右辺の差異共振潜在性こそが、真の特異性である。しかしながら、現象MePoという連続性の基点があるので、この特異性は、いわば、閉塞し、攻撃されたりして苦悩し、孤立し、無力化するのである。

整理すると、現象MePoとは、連続的志向性ないし連続的同一性志向性が支配的であるため、半面において潜在させる差異共振性も連続化する傾向をもつので、正当な差異共振性=特異性は、連続性の枠組みに閉塞され、孤立化されることが一般的である。

近代において、左辺の連続的同一性の自我が構築されるので、差異共振エネルギー=特異性は、連続空間から脱出できないのである。

特異性は確かに非連続的同一性であるが、この本来もっているエネルギーが解放されないのである。

結局、神秘主義やオカルト主義へと魅かれるのである。

これは、アンチ・近代主義なので、反動様態、病態、倒錯なのである。

(現代、この特異性の世界の理論化が様々な分野で為されていると思う。例えば、クオリアという概念は、この特異性と関係するだろう。しかし、私見では、脳理論に囚われていると思う。クオリアを差異共振性ないし超越的差異共振性と理解するならば進展するのではないだろうか。)

プラトニック・シナジー理論は、連続性=実数軸次元=現象界と不連続性=虚数軸次元=超越界の即非性を説いて、差異共振性、差異共振エネルギーを解放するのであるが、ここでは、現象MePoと超越MePoとの関係を見てみたい。

現象界において、特異性は、連続空間において孤立している。それは、いわば、所を得ないのである。私の経験・体験で言えば、特異性はコスモスを形成するのである。

不可視のコスモスを意識化するのである。

このコスモスとは、特異性を基礎とした不可視の差異共振エネルギー空間である。

(思えば、不連続的差異論が形成される前の私の意識はこのようなものであった。既に、プラトニック・シナジー理論の先駆態ができていたと思う。)

思うに、今日、多くの人が、このコスモスを直感していると思うが、それを理論化できずにいると思う。アーティストならば、それを表現するだろうが。

そう、コスモスは、いわば、サブカルチャーなのである。

ファンタジーもコスモスの世界に入るだろう。

結局、現象連続空間においては、近代主義と特異性空間が並存しているだけであり、後者は積極的な力にならないのである。

つまり、後者が真に理論化できていないのである。

結局、両者が不連続であることを認識すること、これが、トランス・モダンのブレークスルー・ポイントなのである。

そして、差異共振性が本来、超越性=虚数であることを認識することが大飛翔なのである。i*(-i)⇒+1である。

+1とは、差異共振した自己認識のことである。

最後に、何故、我々は現象連続空間、現象内在空間に閉じ込められたのかを問題にしたい。

何故、超越界、叡知界、イデア界を否定してきたのだろう。

それは、外的対象ないし外的観念への連続的志向性を意識が本来強くもっていることにあるからだろう。そのため、近代において、内界が軽視されて(内省の軽視)、外界認識が中心となったからである。

これは、また、生活の圧力にもよるだろう。物質的資本主義経済の圧力にもよるだろう。

しかし、私の経験では、唯物科学の影響が強いのである。現象とは物質であるという価値観が教育により植え込まれるのである。

この唯物論的世界観は、ニヒリズムを生むのである。虚無主義となるのである。

それは、現世主義、刹那主義を生むのである。拝金主義もここと関係しよう。

これは、端的に、悪魔的世界観なのである。

死んだらおしまいの世界観である。

そう、死んだらどうなるのか。これまで見てきた夢のヴィジョンから言うと、死んだら人間は、i*(-i)に回帰するのである。そして、iとは、超越的知性である。そして、-iは超越的身体である。つまり、記憶をもって超越界に帰還すると考えられるのである。この記憶は永遠であろう。そして、この記憶と超越界の理念との調和させるべく、人間は、再生すると考えられるのである。

この点では、仏教や精神世界の考え方は正しいと思われるのである。

端的に、輪廻転生はあると思うのである。

死んだらおしまいではなく、死んでも、よみがえるのである。復活である。

プラトニック・シナジー理論は、正に、プラトン哲学の現代的復興と言えるし、仏教や諸宗教の現代的改新とも言えるだろう。