現象メディア・ポイントについて:差異共振性=特異性と連続的差異:

現象メディア・ポイントについて:差異共振性=特異性と連続的差異:新東洋=新ヘレニズム文明の誕生


テーマ:メディア・ポイントMedia Point


もう少し整理したい。

端的に、差異共振性=特異性はどこに位置するのかである。

現象メディア・ポイント(以下、現象MePo)は、連続的志向性が支配的である。だから、現象化において、左辺に傾斜すると言えよう。しかし、差異共振性は潜在性として存する。では、どこに位置するのか。

問題は、MePoに存するのか、それとも、右辺に存するのか、それとも、右辺への志向性に存するのか、である。

直観で言えば、差異共振性とは、内的身体に存する。では、内的身体の座標はどこなのか。

内的身体とは、i*(-i)が潜在する身体である。それは、考えると、現象MePoではなく、超越MePoであろう。

そうすると、これは、実に霊妙である。

差異共振性は、超越MePoに潜在しているのである。

MePoの、言わば、神業である。

先に述べたように、MePoは、超越MePoと現象MePoとの即非一性事象をもつ。

だから、差異共振性が超越MePoに潜在すると言えるのである。ここが、正に、奥義である。奥の院である。

現象MePoにおいては、差異共振性は、連続的志向性のために、連続的差異化してしまう(ポスト・モダン化)。だから、連続的差異共振性は、現象MePoに存すると言えよう。そして、ドゥルーズの言う差異=微分=特異性も、ここに位置すると言える。

これが、ポスト・モダン思想の核心である。つまり、現象MePoの思想である。

デリダ脱構築の思想も、同様である。現象MePoで遊戯をしているのである。連続的同一性と連続的差異との両義的遊戯である。

では、問題は、何故、本来の特異性、差異共振性が見失われたのか、である。

差異共振性=特異性が何故、失われたのか。

今、思ったことは、フランスは革命思想があることである。これは、アンチの思想である。左翼思想である。これが原因ではないだろうか。

対立の思想である。(思うに、ヘーゲルマルクスもこれに害されたのではないだろうか。)

言い換えると、外的対象の視野の思想、即ち、連続的志向性の思想である。

外的視覚の思想である。

これに浸透されているので、フランスにおいて、差異共振性が、連続化されて、軽薄なポスト・モダンになったのではないか。

もし、真に差異共振性=特異性をもつなら、それは、連続化されずに、言わば、孤高を保つだろう。

ついでに言えば、デカルトの場合、フランスで哲学したというよりは、オランダで哲学したのである。オランダは、私見では、ヨーロッパの東洋である。(ヨーロッパの東洋は、他に、スイスであり、イギリスやアイルランドケルト文化であり、イタリアである。)

つまり、フランスには、アンチという反動思想(左翼思想)があるのである。

いちおう、そういうこととしよう。換言すると、フランスには、現象中心主義、連続主義が支配的であるということである。これは、フランス絵画の問題にもなろう。フランスの画家で、想起するのは誰か。(セザンヌである。セザンヌについては後で検討しよう。)

とまれ、フランス的知的風土によって、差異共振性は連続化されたと考えられる。(フランスと唯物論の関係を考察すべきだろう。)

もう少し、差異共振性の潜在性の問題について考えよう。

それは、超越MePoに存するのであるが、現象MeP中心の世界では、孤児になるのである。

しかし、これを保持するのが、真の個人主義漱石個人主義)である。

しかし、連続的同一性中心の近代主義が支配的な世界では、一般的には保持し得なくなる。

つまり、現象MePoが支配するのである。キリスト教の近代は、結局、現象MePoを肯定することになったと言えよう。

以上から総体的に見ると、超越MePoが現象MePoに支配された歴史が近代であると言えよう。

やはり、超越性の連続化という事態が近代において生起したのである。言い換えると、超越MePoが現象MePoに支配されたのである。

これが、反動的エネルギーとなったのである。

思うに、人類は、超越性を東洋哲学、宗教・神話、哲学、フォークロア等において保存してきた。しかしながら、現象MePoが支配的になり、近代主義が主導的になると、超越性が否定されるに至ったのである。

結局、超越性の認識が粗雑・粗略で、近代主義の緻密さに適応できなくなってしまったと言えよう。

しかしながら、フッサール現象学鈴木大拙即非の理論、ウスペンスキーの「ターシャム・オルガヌム」、他は、現代的な超越性の理論の創造であったと考えられる。

宗教や形而上学の現代化である。

思うに、本来、諸学は、メディア・ポイントの思想を表象してきたのである。

それが、近代において、連続的に表象されてしまったと言えよう。

結局、現象MePoの志向性に支配されたのである。

そして、これは、既述したように、西洋一神教の文化によるのである。

即ち、西洋父権・一神教文化である。

(だから、先にフランスの知的風土が連続性であると言ったが、正確には、西洋父権・一神教文化と言うべきであろう。)

そして、今日、人類・世界は、絶滅的末期症状をむかえているのである。

結局、父権・一神教的現象MePoの支配によって、こうなったと言えよう。

言い換えると、先にも述べたが、超越MePoと現象MePoとの絶対的断絶が、ユダヤキリスト教的西洋文明においてあるのである。

この絶対的断絶によって、現象MePoが支配して、差異共振性が連続的になってしまったと言えよう。

ポスト・モダンの挫折は、この父権・一神教の二元論によると言えよう。

これで、現象MePoの問題が解明されたと言えよう。

結局、ユダヤキリスト教が、この二元論的現象MePo、疑似現象MePoをもたらしたのである。

つまり、ユダヤキリスト教は今や、その役割を終えて、反動的になっているということである。

ここで、東洋文明、ヘレニズム文明が創造的に登場するのである。

現象MePo が超越MePoと即非一性であることが、判明するのである。

トランス・ユダヤキリスト教文明、即ち、新東洋=新ヘレニズム文明の誕生である。

プラトニック・シナジー理論がこれを根拠付け、正当化するのである。