ヘーゲル、ハイデガー、構造主義/ポスト構造主義:現象MePoの連続的

ヘーゲルハイデガー構造主義ポスト構造主義:現象MePoの連続的閉鎖系:新東西哲学PS理論


テーマ:超東西・コスモス・ニューポストモダン文明


(注:先の論考に後記をつけ加えた。)

以前から感じていたが、構造主義は、ヘーゲル弁証法に由来するのではないかということ等に関してここで、簡単に検討したい。

PS理論のメディア・ポイントMePo(以下、mepo)の視点から考えたい。

結局、現象mepoが基点となる。ここでは、差異は、連続的志向性をもち、同一性化へと向かう。

この連続化が、差異の裏返しにするようにして、同一性を形成するのである。

ドゥルーズが襞のことを言っていたが、確かに、この連続化は、差異を襞にするように折り込むと言えるだろう。しかし、これは、あくまで、現象mepoに事象に関してである。

現象mepoにおける連続的志向性であるが、これは、本来は、超越エネルギーのよると言えよう。ここが造化の不思議なところで、超越エネルギーは、連続化されて、現象・連続的エネルギーになると言えよう。

しかし、否定された差異は、超越エネルギーを保存していると言えよう。

とまれ、この現象mepoであるが、まとめると、連続的志向性=顕在化と否定された差異の潜在性の非対称的二重性がある。

そして、前者が構造性と言っていいだろう。ここから、同一性が発現するのであるから。そして、構造性は、差異を否定するので、ここで、同一性と差異との二項対立を形成するのである。これが、構造主義でお馴染の二元論である。

連続性が+なら、差異は-である。あるいは、符号が逆になるだろう。

ここで、構造主義の構造をまとめると、現象mepoにおける連続性と差異との対立構造であると言えるだろう。

ここで、ヘーゲル弁証法を考えると、正反合であるが、正は、連続性であり、反が差異であり、合が現象mepoであろう。

結局、現象mepo⇒連続性(正)⇒差異(反)⇒現象mepo(合)である。

だから、構造主義とは、ヘーゲル弁証法の対立構造を取りだしたものと言えるだろうし、構造主義の対立を弁証法的対立と呼ばれるのも適切であると言えよう。

ただ、両者の相違は、ヘーゲル弁証法は、ジンテーゼへの志向性を強くもっていることである。

この相違を説明すると、ヘーゲル弁証法において、反(アンチテーゼ)が、連続化された超越性をもっていることによる全体的志向をもっているからではないだろうか。ある意味で、宇宙的志向と言ってもいいだろう。

ただし、裏返しにである。

とまれ、連続化された現象mepoにおける対立と全体的統一性、これが、ヘーゲル弁証法の核心であろう。

だから、形式的には、ヘーゲル弁証法は、構造主義と同じである。

両者、同形であるが、ただ、ヘーゲル弁証法は、対立と統一の両面が明確であるのに対して、構造主義は、対立の方にウェイトがあると言えるだろう。

では、ヘーゲル弁証法ポスト構造主義ドゥルーズ哲学)の関係であるが、先に、ドゥルーズ哲学は構造主義であると言ったが、それから言うならば、やはり、それもヘーゲル哲学と同形になることになる。

しかし、同形ではあるが、強調点が異なると考えられる。即ち、ドゥルーズの場合は差異を共通するのである。連続化された現象mepoにおける差異の強調である。これは、連続的同一性(テーゼ)を否定するのである。この点で、ヘーゲル弁証法とは異なる。

すると、連続的現象mepoにおける、1.ヘーゲル弁証法⇒2.構造主義⇒3.ポスト構造主義ドゥルーズ哲学)の発生が見えてくる。

即ち、1において、連続的現象mepoのポテンシャル・エネルギーが強いので、それへと回帰する。2においては、連続的志向性が強く、差異と対立する構造形式をもつ。3においては、連続的同一性への反動否定性が強く、連続的差異の思想となっている。

ここで、ハイデガー哲学を考えると、それは、この三つの中では、構造主義に近いだろう。即ち、存在が連続的現象mepoであり、存在者が連続的同一性である。

さて、最後にデカルトライプニッツ、カント、ニーチェフッサールに簡単に触れたい。

デカルトのコギトは、連続的志向性を否定した上で成立する思考である。おそらく、現象mepoにコギトがあるのではないだろうか。それは、超越mepoとも通じるだろう。とまれ、コギトは、明確には、超越mepoにはないが、少なくとも、現象mepoに存すると思う。超越性と現象性との境界である。

ライプニッツモナドであるが、それは、コギトをより超越mepoに近づけたものだろう。正確に言えば、現象mepoを否定した超越mepoと言えるかもしれない。(後で検討。)

カント哲学であるが、それは、超越論的形式を導入して、同一性の構造を発見したものである。これは、対立の構造ではないが、構造である。そして、mepoを物自体や実践的理性にしたのである。純粋理性とは、現象mepoのことであろう。

ニーチェであるが、彼は、連続的志向性を全否定した。それは、超越mepoと言えるかもしれない。それは、ほとんど、純粋差異の思想である。ただし、⇒+1までは達していない。i*(-i)⇒の思想である。(ライプニッツモナドに近いように思われるかもしれない。しかし、ニーチェには、ポスト構造主義的な反反動性が少し入っていたと思う。)

フッサール現象学は、現象mepoを志向性ということで発見したものだろう。間主観性とは、差異的同一性と言えるのではないだろうか。おそらく、超越mepoを捉えていたが、明確に、即非性とは把握していなかったと思う。

さて、つけ加えると、シェリングは、明晰に即非性を捉えてはいなかったものの、実質的には、即非性を捉えていた。それは、超越/現象mepoの思想である。そして、同一性への展開。最後に、差異的同一性を把捉していたと思う。

ウスペンスキーは、即非の思想を「ターシャム・オルガヌム」として、ほぼ捉えていた。

以上のようにざっと見ると、西洋近代・現代哲学は、メディア・ポイントの根源的事象(特異性)と連続的様態(同一性)とを探求していたと言えよう。

しかしながら、両者が根本的に異質なもの、不連続なものであることを、西洋哲学は認識できなかったと言えよう。不連続的差異論を包摂したプラトニック・シナジー理論がこれを解明したのである。

後、検討問題として、数学と哲学の関係がある。これは、論理学の問題とも言えよう。数学、論理学、哲学との関係は何か。

数学とは、超越/現象の知の論理を構成化するものではないだろうか。数学、論理学、哲学は、超越/現象におけるイデア・知的事象の論理を表わすものではないのか。

p.s. メルロ=ポンティ現象学について触れたいが、これは、私の想像である。身体論の問題である。主客共振性があるので、これは、メディア・ポイントの共振性である。Kaisetsu氏のメディア共鳴である。しかしながら、それが純粋化されていない。即ち、連続化が混淆されていると思うのである。おそらく、表記すれば、i*(-i)⇒+1とi*-(-i)⇒-1との混淆である。なぜ、混淆なのかと言えば、それは、後者を切断して、身体を不連続化して、意識化していないからだと思う。身体意識に留まっているからだと思われる。

p.p.s. キルケゴール宗教哲学であるが、超越mepoに達していて、連続的志向性を乗り越えるものになっている。いわゆる、ヘーゲルの量的弁証法に対する質的弁証法であるが、これは、不連続な飛躍する「弁証法」であり、PS理論と類似した性格をもっていると言えよう。つまり、連続的な現象界と超越界とは不連続な関係であるというPS理論の観念と似ているのである。しかし、違いは、キルケゴールが信仰という不合理な立場に留まったのに対して、PS理論は、特異性=差異共振的同一性i*(-i)⇒+1という超越的差異同一性論理、超越的即非論理を提示している点で異なる。(p.s. キルケゴールの宗教性とカントの実践理性は共通するだろう。当然、プラトンの善のイデアに通じるのである。)

ところで、キルケゴールの言う倫理とは、連続的志向性のもつ「倫理」である。連続的志向性と「倫理」・「道徳」の関係であるが、これは、以前に述べたが、これは、連続的志向性が本来、超越的エネルギー、超越性によって発生しているのである。つまり、本来、善のイデアから発していると考えられるのである。しかし、この善のイデアが、連続化されているのが、連続的志向性の「倫理」・「道徳」である。これは、似非倫理・似非道徳、偽善・独善・欺瞞なのである。

3p.s. 以上のように、近代・現代西洋哲学(ヨーロッパ大陸の哲学)をざっと見たが、抜けているのは、イギリスの経験論哲学に関してである。興味深いのは、シェリングの『哲学的経験論の叙述』である。やはり、経験論の革新性が根本にあるのである。経験論とは直観論・直感論であろう。

さて、その著の最後に経験論から超越性への飛躍が示唆されていることである。もともと、本書は、現象学的であった。だから、フッサール現象学への先駆とも言えるのである。しかしながら、フッサール現象学を超えて、PS理論の先駆であると言うべきである。

4p.s. 英米の哲学に関しては、志向性の概念は、言語哲学の言語行為論(ジョン・オースティン)やintentionality(ジョン・サール)に、限定された形ではあるが、現われているように思える。また、特異性に関しては、ストローソンのindividualismと関係するのではと推測している。

5p.s. デリダ哲学であるが、それは、既述したように、現象mepoにおける連続性と連続的差異との両義性の遊戯である。

6p.s. ベルクソン哲学であるが、これは、連続的差異(=微分)の哲学であり、ドゥルーズ哲学の先駆である。

ついでに、ハイデガー哲学との関係を述べると、ハイデガーの存在とは、現象mepoであるが、それは、連続的差異性を含んでいるように思える。だから、ベルクソンハイデガードゥルーズの哲学は、同類であると考えられる。

結局、現象mepoは、連続的同一性の志向性と連続的差異の反動性の両義性ないし極性をもっているのである。ポスト構造主義の大欠陥は、現象mepo、連続主義的な現象mepoに囚われて、それからの超脱・超越を志向していた西洋哲学の創造的伝統を継承しなかったことにあるだろう。それは、西洋哲学における「断絃の時」である。そして、それにかぶれた現代日本の哲学は、地に墮ちたのである。

7p.s. 東洋哲学、とりわけ、日本近代哲学を評価しなくてはならない。大乗仏教の伝統に基づいた論理(即非の論理)を駆使して、西洋哲学の超克が為されたと言っていいだろう。清沢満之鈴木大拙西田幾多郎九鬼周造らによって、超越的論理の哲学が基礎づけられたのである。そして、PS理論は、即非の論理に基礎付けられて、西洋哲学と東洋哲学を統一する理論となったのである。ここには、数学の論理が適用されて、ピタゴラスプラトンの数学的哲学の復興ともなったのである。

8p.s. スピノザ哲学について言及すると、思惟と延長の近代的二元論をベースにして、所謂、心身平行論を提起したのが、既述したように、スピノザ哲学には、心身共振性の部分が隠れているのである。この部分が、超越性=神=自然と、思惟/延長を結びつけるのである。だから、PS理論から見ると、連続的現象mepoを前提としているが、隠れた心身共振部分、即ち、メディア共鳴性をもっている。これは、i*(-i)⇒+1に相当すると言えよう。結局、スピノザ哲学も、PS理論の先駆の一つではあるが、連続性と不連続性とが混淆共存している曖昧さを残していると言えよう。

もう少し、明確に言うと、スピノザの説く能動的観念とは、差異共振性を形成する。それが、⇒+1となる。だから、メディア共鳴を形成すると言える。この能動的観念は、連続性を解体すると言えるのである。しかしながら、いわば、経験的に解体するのであり、理論的な不連続化ではない。ここは微妙な点である。能動的観念はメディア共鳴の方法であるが、充分な不連続性の形成ではないと考えられる。なぜなら、意識において、自我意識と能動的観念とは、決定的に分離せずに、連続しているからである。確かに、実質的な不連続性はあるが、同時に、連続性が残っているのである。

つまり、無意識的な不連続性の形成であり、意識的な不連続性の形成ではないのである。この無意識である点が、不徹底であると言えよう。